第6話 たぶん人魚姫
昔々、まだ人間世界とおとぎ話の住人の世界が近かった頃。
人間が王を戴いて陸を治めるように、海にも王国がありました。
海の王様には、たくさんの娘がおりました。
娘の人魚達は、みな愛らしく美しく、そして魅惑的な歌声を持っていました。
満月の夜、新月の夜、嵐の夜……特になんでもない夜でも、気が向いた時に人魚の姫君達は広い海の真ん中の岩場に登って、さざめくように歌うのです。
その歌声に魅入られた人間が……主に船乗りが海に落ちてしまうので、魔性の歌声と誹謗されることもありますが、風評被害もよいところです。
もっとも当の人魚姫達は、そんなこと気にしていませんでしたが。
そもそも海の中では独力で生存することも叶わない、短い寿命の脆弱な人間達に、興味もなく哀れみすら覚えません。
そんな、永遠に近い寿命を持つ人魚姫達でしたが、老いや衰えからは逃れられません。
遠い未来、いつかはおとずれる老衰……長過ぎる寿命故にいつ訪れるのか分からないからこそ、ことさらにそれを忌避し、それを表して見せる人間に興味を持たないようにしていたのかもしれません。
さて、そんな人魚姫の中で、一番幼い妹姫がおりました。
新しい姫君の誕生は、実はとても稀なことで、海に住む皆は、この末娘をことのほか愛し可愛がっていました。
姉君達に劣らず愛らしく美しく、この上なく魅惑的な歌声を持った末の人魚姫……ややこしいので、このあとは、この姫君を「人魚姫」といたしましょう。
人魚姫は、姉君達と違って、まだ老いや衰えについて知りませんでした。
いえ、言葉は知っていましたが、それがどういうことなのか、よく分かっていませんでした。
人魚姫の周りにいるのは、若々しく美しい王族の人魚と、あとは魚や海獣や甲殻類や貝類などの海の生き物達でした。
さらに言えば、老いた海の生き物達は、いつの間にか姿をみせなくなっていたのであまり意識していなかったのです。
けれど。
まだ若い、というより幼い人魚姫でしたが、ひどく短命であっという間に老いて衰えてしまうという「人間」には、強い関心を持っていました。
姉君達が考えたくない、というその恐ろしい末期が人間を実際に見れば理解できるのかもしれない、と思うと恐れよりも興味が勝るのでした。
まだ姉君達のように岩場に登ったことのない人魚姫は、ある夜、初めて海の上に上がりました。
満月に照らされた岩場から見えたのは、大きな船でした。
客船、というらしいその板の固まりには、たくさんの「人間」が乗っていました。
何だかヒラヒラした尾びれ背びれのようなものを纏った、自分達とよく似た姿をしたものが、たくさんいました。
あまりヒラヒラしてないものは、お父様の姿に近い風に見えて、それは「男」なのだと姉君のひとりが教えてくれました。
よく分からないけれど、人魚姫は、それらがとても楽しそうで、そして美しく見えました。
あんなキラキラしたものが、あっという間に滅びてしまうのだと思うと、何だか胸が締め付けられるような、不思議な感覚になりました。
姉君達は「あんなもの、またいくらでも見られる」と言いますが、人魚姫はそんな風に思えないのでした。
今見えているものは、他と同じようでも、他とは違うのだ、と。
それから度々、人魚姫は岩場に登り、「人間」を観察しました。
ある嵐の夜、岩場に登った人魚姫は、一艘の船から人間が海に落ちるのを目の当たりにしました。
海の中では「人間」は生きられないと聞いていた人魚姫は、海の底に沈んでいくその「人間」を抱きかかえると、浜辺に送り届けました。
お父様によく似た美しい面差しで、どうやら「人間」の「男」のようです。
青ざめた顔を覗き込むと、ほんのわずかに胸が動いていました。
背中を支えて体を起こすと、口から水を吐き出しました。
薄い目を開け、何かを呟きましたが、人魚姫には人間の言葉は理解できませんでした。
ただ、すがるような眼差しに、いつか客船を見た時と同じように、胸がギュッと締め付けられました。
その人魚姫の腕の中で、「人間」は不意に目を閉じてしまいました。
その体を砂の上に横たえ、どうしたものかと思案していると、陸の方から物音がしましたので、慌てて海の中に潜りました。
いくつもの灯りが近付いてきて、なにやら大騒ぎしている様子でした。
そっと海の上に顔を出して眺めていると、助けた「人間」がモゾモゾ動いているのが見えました。
先ほどより大きな声で何か話しているのも聴こえました。
安心して人魚姫は、海の底へ戻りました。
それから、人魚姫は深く思案しました。
老いて衰えて死ぬ以外にも、あんな風に簡単に海に落ちてもすぐに息絶えてしまう脆弱な「人間」とはどんな生き物なのか……。
あんな弱い生き物が、どうしてあんな風に楽しそうにしているのか……。
そもそも、なんであの「人間」は、海に落ちたのか……。
何より、あの「人間」は、今は無事に過ごしているのだろうか……と。
居ても立ってもいられず、人魚姫は深海に棲む「海の魔女」と呼ばれる年老いた鮹を訪ねました。
「黙ってここに来たのかい? 悪い子だねぇ」
「お願いいたします、魔女のおばあさま。私、あの人間と話したいのです」
「人間となんて話しても、なんにもなりゃしないと思うけどねぇ。それに、人間と話すには、代償が必要だ。お前さんは、その美しい声を失うかも知れないよ?」
「それはおかしいです。声を失くしたら、そもそも話しができないでしょう?」
「人間には、『文字』というものがあるのさ。声がなくても、それで意思を伝えることができるのさ」
人魚姫は「文字」という新しい概念に心が沸きました。
「それに、その半分魚の姿では、たとえ『文字』を使っても、人間は話してくれないだろうよ。全身を人間のように変えるにも、代償が必要だねぇ」
それでも人間と話したい、と人魚姫は願いました。
その硬い意志に、海の魔女は願いを叶えました。
魔女の秘薬をこしらえ、人魚姫に与えたのです。
人魚姫は浜辺に上がり、その秘薬を飲み干しました。
喉が焼けつくような痛みに襲われ、気を失った人魚姫が目覚めると、「人間」の「男」の姿になっておりました。
人間と話すための「言葉」を得るために「声」を失い、人間を装うための「姿」を得るために……「性別」を失いました。
元「人魚姫」は、急に寒気を感じ、一糸纏わぬ体をすくめました。
人間となった全裸の体に、海の水はあまりにも冷たくて、ひどく不安になりました。
幸い通りかかった人間が、元「人魚姫」を保護してくれました。
それは、元「人魚姫」が助けた人間で、この国の王子様でした。
声の出ない、けれども大変美しい少年は、大切に保護され、王子様の小姓としてお城に仕えることになりました。
ハンスという名前をつけられた元「人魚姫」は、文字が読めることが分かり図書館の出入りが許されました。
ハンスは瞬く間に様々な本から知識を得て、やがて王子様と文学芸術、政治経済や哲学、帝王学についても議論を交わすまでになりました。
知的好奇心旺盛で賢く、様々な才能にあふれ能力を発揮し、その上誰よりも美しいハンスに、王子様や周囲の人々は夢中になりました。
王子様はハンスから知略を得て政敵を一掃し、その後役職を与え、自分の懐刀としました。
けれども、やがてハンスがちっとも老いていかないことに気付きました。
海の魔女の秘薬は、元「人魚姫」の寿命までは奪わなかったのです。
一方、だんだんと年老いていく王子様……今はこの国の王様となったその人が、これからさらに老い衰えていくことに、ハンスはようやく、その意味を知りました。
王様だけではなく、他の人間も、やがて老いて衰えて……死んでいくのだと。
老い衰えたその先に永遠の別れが待っていることを、ハンスは最初書物から学び、さらに交流する人々の生活から学びました。
自分の愛する人と永遠に別れる苦しみと哀しみ、そのうえ自分は、常に置いていかれる存在なのだとも。
けれど、それでも、だからこそ……こんなに人間が愛おしいのだと。
……老いることのない自分が、只の人でないことに疑惑を持たれる前に、ハンスはお城を辞しました。
「もう戻っていらっしゃいよ」
夜の浜辺で姉君達が声をかけてきました。
「この国の王の魂があれば、あなたの姿を元に戻せるのよ」
(それは、できないよ)
「王でなくても、他の人間でもよいのよ。人間の魂を捧げて、また一緒に海の底で暮らしましょう?」
(それも、できないよ)
「どうして……?」
声は出せませんでしたが、首を横に振ったハンスの意思は姉君達にも通じました。
(さようなら、お姉様方もお元気で)
悲しそうに姉君達に微笑んで、それから人目に触れない山の奥で、ひっそりと暮らしはじめました。
……やがて、王様が代替わりしてしばらくした頃。
どこかの誰かが著した一篇の童話が世に広まりました。
添い遂げることの叶わぬ、それでも人を愛する喜びと切なさを描いたその童話は、「人魚姫」と題されていたということです。
おしまい。




