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やられたらそれ以上のものをお返しするのが信条ですので

作者: 玖珠ゆら


「ふふ……ふふふふふふ」


 堪え切れない笑い声を漏らしながら、若干荒れ気味である広大な中庭で、セリアは土いじりにいそしんでいた。メイド服の裾が汚れるけれど、そんなことは気にならない。

 花もまばらな花壇の隅、柔らかい土を掘り返す。土の中からなるべく大きなミミズを掘り出して、次々と籠に放り込む。その数、おおよそ30匹。


 セリアのそんな様子に、少し離れたところから窺い見ていた城の警備兵であるカイが、顔を引き攣らせていた。


「何をしているのか、しようとしているのか……。おおよそ想像はつきますけど、何もセリア様自らそこまでしなくても……」

「しっ。その呼び方はやめてちょうだい」



 籠を抱えて立ち上がり、セリアは艶然と微笑んだ。

 


「あなたはあなたの仕事をしなさい。知っているでしょう? 私の信条は、受け取った以上のものをお返しすることよ」




 ◇



 

 ──アスヴェル城。

 王都から馬車で五日、霧に沈む街道の先に、その城はそびえ立っている。

 

 かつてここを居城としていた公爵家は、20年も前に反乱未遂を起こし断絶。領地は王家に返上された。

 現在は当時家令であった男が執政官としてこの城に住まい、領主代理の役割を担っている。

 

 しかし、それもあと一月。

 第三王子ルーカスが結婚を機に公爵位と領地を賜り、正式な領主として着任することが決まったのだ。


 王子を迎え入れる準備で大忙しのその城に、セリアが新人メイドとしてやって来て五日。



「ねぇ! 昼までに一階の掃除は全て終わらせておくように言ったんだけど! 全然終わってないじゃない!」


 先輩メイドの一人が声を張り上げて、セリアに濡れた雑巾を投げつけた。

 肩口に当たった雑巾は、まだ真新しいメイド服をびしゃりと濡らして、床に落ちる。



 セリアは決して仕事に手を抜いてはいない。まだ庭に朝露の残る早朝から、掃除に取りかかっていた。

 しかし到底一人きりでやり切れるはずがない。この城は広すぎる。

 陽も高く昇る昼になって、明るく眩しい光の差し込む城内は、まだ半分も掃除が進んでいない。



 この城では、こうして新人に仕事を押しつけるのが常態化しているらしい。怠惰なメイドたちは、城を取り仕切る執政官の顔色を窺って機嫌をとることと、いかに楽をするか考えることに一生懸命だ。



 落ちた雑巾を拾い上げ、黙ったままバケツに放り込んだセリアを先輩侍女がせせら笑っている。


 そこへ警備兵が通りかかった。城内を巡回中なのだろう。

 年若い警備兵はセリアを視界に入れると、わずかに眉根を寄せた。痛ましそうな視線を送りながらも、足を止めずに通り過ぎていく。


 彼が見えなくなると、先輩メイドは苛立たしげにバケツを蹴飛ばした。


「カイに色目使ってんじゃないよ、この売女!」


 セリアの膝から下に水がかかって、水滴がスカートから滴り落ちる。床も水浸しだ。

 掃除を早く終わらせろと言うのに、これではいつになることやら。


 

 警備兵のカイは、セリアよりも二週間ほど前から働き始めたという。口数少ないが、真面目でどんな仕事を押し付けられても文句ひとつ言わず、手際よくこなしてしまう。

 王都出身ということもあり、一際垢抜けてどこか洗練された雰囲気があるため、年頃のメイドたちから人気を集めている。


 セリアがこの城ではじめてカイと対面したその時。

 セリアを見るなり、彼は目を見開きしばらく動かなかった。

 あれは一目惚れだ、見惚れていたに違いないと他の警備兵たちがカイをからかって、そしてセリアはメイドたちに完全に目をつけられたのだった。



 先輩メイドがふん、と鼻を鳴らして去って行って、セリアは小さく溜め息をつきながら雑巾を握りしめた。




 水浸しの床を片付け終わった頃には、既に昼の休みが半ば過ぎていた。

 重い体を引きずるようにして、使用人用の食堂へ足を踏み入れる。

 

 薄暗い食堂の奥。

 大鍋の中身はすでにほとんど残っていない。冷えかけた具のないスープと、パンの切れ端がほんの少しだけ。

 人の数もごくわずか。昼食を終えた者たちは、談笑しながら裏庭で休憩しているのだろう。 


 セリアが木椅子に腰を下ろし、残り物のスープに手をつけようとした、その時だった。

 スープの皿に何かが勢いよく放り込まれ、中身が飛び散った。

 半分以上が零れた皿の上で、大きなミミズが蠢いている。


 思わず手を止めたセリアの横から、けらけらと笑い声が降ってきた。

 

「具がなくてかわいそうだから、それをあげるわよ!」 


 

 数人のメイドたちが肩を寄せ合い、嘲り笑いながらセリアを見下ろしている。

 セリアに嫌がらせをするために、食事を終えたはずの彼女たちは食堂に戻ってきたらしい。

  

「ねぇ、泣くんじゃない?」

「田舎娘が調子に乗るからよ。二度と色目なんか使わないように、教育してあげないとね!」

「ほら、それをさっさと食べて、午後もしっかり働くんだよ! あんたは仕事が遅いんだから!」


 笑い声をあげながら、楽しそうにメイドたちが食堂から出て行った。


 セリアは眉ひとつ動かさず皿を手にすると、窓際の鉢植えに、皿の上でのたのたと動くミミズをスープごと注ぎ込んだ。



「……ふふ。ずいぶんとお転婆なメイドの多いこと。確かに、教育が必要でしょうね」


 微笑みながら呟いたセリアは、冷え切った目をそっと細めた。



 

 ◇



 セリアが訪れたのは、家政婦長室。 


「他のメイドから不当な扱いを受けています。改善指導をお願いいたします」 


 これまでの経緯を説明し、冷静に願い出たセリアに対して、家政婦長はわざとらしく溜め息をついた。


「他のメイドからは、あなたが仕事をサボってばかりで困っていると聞いているわ。やっと取りかかっても、手際が悪くてちっとも進まないとね。そうやって周りのせいにしているけれど、あなたにも非があるのではない?」

「…………。確かに、私はメイドの仕事に不慣れです」



 百万歩譲って、セリアに対する仕打ちはセリア自身が至らないために仕方がないこと、としよう。しかしどうしても譲れないことはある。


「ですがメイドたちの再教育は必須であると存じます。今のままでは一月後、第三王子殿下を迎え入れられる状況にございません」

「なんですって?」



 メイドたちは、平民出身の者ばかり。それ自体は普通のことで問題はない。が、全く教育が行き届いていないのは問題でしかない。あまりに下品で、貴族相手に満足な対応ができるのか甚だ疑問だ。

 何しろこれから主となるその人は、一流の使用人に囲まれて生きてきた元王族なのだ。


「メイドたちが身につけるべきことを正しく理解していないのならば、それを指導するのは家政婦長の役目に他なりません。それとも家政婦長ご自身が、高位貴族の屋敷での使用人の仕事ぶりをご存知ないと?」


 淡々と放ったセリアのその発言に、家政婦長は怒りで顔をぱっと赤く染めた。


「わかった風に言うんじゃないわよ! 私は子爵令嬢よ! 今度生意気な口をきいたら、執政官様に言いつけてクビにしてもらうわよ!?」



 家政婦長という立場であり、歳はとうに30をすぎているというのに、それはあまりに幼稚な脅しだった。

 メイドたちの中では唯一の貴族令嬢で、長年逆らう者もおらず、勘違いを重ね続けたのだろう。


 話にならないとは、まさにこのこと。

 

 家政婦長の指には、職務に似つかわしくない大きな宝石の嵌った指輪が光っている。一介の使用人が簡単に購入できる代物ではない。


 ここのメイドたちはみんなお喋りだ。

 家政婦長は、執政官と愛人関係にあると噂しているのを耳にしたけれど、信憑性は高そうだ。



 これ以上口を開く気にもなれず、セリアは静かに頭を下げた。 




 家政婦長室を出たセリアが次に向かったのは、執政官の執務室。

 家政婦長相手ではまともな話ができない以上、その上の執政官に進言するつもりだった。


 迷わず扉をノックしようとしたところを、慌てた様子で駆け寄ってきた警備兵のカイに止められた。


「お待ちください。執政官様に、何のご用ですか」

「城内の人事と教育についてご相談を」

「新人メイドの言葉に耳を貸すようなお方ではありません」

「これは一大事なのよ。間もなく第三王子殿下がこの城にいらっしゃるというのに、対応できそうなメイドが一人もいない。おまけに殿下のために多額の支度金が用意されたはずなのに、寝具の入れ替えひとつ済んでいない。このままでは、執政官様が恥をかくわよ」


 カイを睨みつけると、彼は表情を変えずそっと声をひそめた。


「……執政官様はご存知です。支度金も、恐らく着服されています」

「まぁ。それこそ一大事だわ」

「第三王子殿下は、……その……有名ですので」

「馬鹿王子、とね。──そう。つまり、執政官様は殿下を舐めきっていらっしゃると?」

「領地経営はおろか、簡単な金勘定も領主としての振る舞いも使用人の選定も、どうせ何もわからない、と。殿下の着任後も、執政官様はご自身がこれまで通り全ての権限を維持できるとお考えのようです」

「……ふふ……。なるほどね。道理で誰も焦っていないはずだわ」


 笑みを浮かべながら、セリアの目はちっとも笑っていない。


「執政官様の機嫌を損ねれば、その場で解雇を言い渡されかねません。今すぐに直接お話されるのは、得策ではないのかと」

「それは困るわ。だからあなた、私を止めてくれたの? あなたの仕事とは関係ないのに、ずいぶん親切ね。ありがとう」


 カイが返事に困ったように黙り込む。

 自分の行動が正しかったのか、彼自身もわからずにいるのだろう。


「心配しないで。あなたの足は引っ張らないわ。ただし、私も好きなようにさせてもらう。やられっぱなしは性分じゃないの」 



 にっこりと笑ったセリアは、籠を持って中庭へと向かった。

 嫌な予感がしてついて行ったカイは、セリアが花壇を掘り返すところを目撃するが……。


 仕事しろ、と言われて追い払われたのだった。



 ◇



 翌日。

 セリアは自ら裏庭の掃除をかって出て、早朝からせっせと働いていた。

 

 落ち葉を掃き集め、石畳をぴかぴかに磨きあげる。水を撒いたところで、数人の警備兵たちがやって来た。

 

 彼らは毎日数回、決まった時間に裏庭へ訪れる。

 執政官が執務室にいる時を見計らって、部屋の窓から死角になる裏庭の片隅で、仕事をサボって休憩しているのだ。

 セリアの姿に気がつくと、にやにやと笑みを浮かべて近付いてきた。


 

「なぁ、あんたが噂の新入りメイドか?」

「へえ。近くで見ると、本当に綺麗な顔してんなぁ」

「カイがあんたに惚れてるらしいけど、あいつ顔はいいけどつまんねぇ男だからな。俺たちが相手してやろうか」


 セリアが黙ったまま微笑んでみせると、警備兵たちは気を良くしてますます距離を詰めてくる。


 そこへ、怒りを滲ませた大声が割って入ってきた。


「ちょっと! あんた、仕事サボって何やってんの!?」


 常々セリアに仕事を押し付けてくる先輩メイドだった。警備兵に囲まれたセリアを見て、勢いよくこちらへ向かってくる。


「自分から裏庭の掃除がしたいだなんて、おかしいと思った! 男漁りが目的だったんだね!? アバズレが!!」


 怒鳴りながら濡れた石畳を駆け抜けようとして、そして──。

 先輩メイドはつるりと足を滑らせて、派手にすっ転んだ。



「きゃあああ!!」 


 叫び声と共に、そばにいくつも置いてあったバケツのうちの一つをぶちまけて、彼女は頭から泥水をかぶってしまった。

 あまりに見事な転び方に、警備兵たちからどっと笑いが起こる。

 


「まあ、大変! これをお使いください」


 セリアは急いで先輩メイドに歩み寄り、手にした雑巾で服や髪を拭う。

 しかし──。


「くっ……くさっ! 何これ!? うぇっ……。ちょっと! 汚い雑巾で拭くんじゃないわよ!!」


 雑巾の悪臭が移って、先輩メイドは嗚咽しながら怒鳴り散らしている。警備兵たちは鼻をつまんで顔をしかめていた。


「それは失礼しました。私、この後食堂での手伝いを言いつけられておりますので、あとはお願いしますね」

「はぁ!? ふざけないでよ! ここはあんたが片付けなさいよ!」

「でも……私が散らかしたわけではありませんし」

 

 ねぇ?と警備兵たちに問いかけると、彼らはそうだと同調してくれる。

 

 警備兵たちがセリアの味方をしたことで、先輩メイドの怒りは増し、顔を真っ赤にして震えている。しかし警備兵たちがいる手前、あまり無茶なことは言えないようだった。

 

 セリアは素知らぬ顔で踵を返すと、食堂へと足を進めた。後ろから叫び声が追いかけてくるけれど、聞こえないふりをして。

 そしてひっそりと顔を綻ばせ、ぽつりと呟いた。



「…………やっぱり、石鹸水を撒いた石畳と山羊の乳を染み込ませた雑巾は効果てきめんね」


 


 ◇



 昼の休憩時間に差し掛かってすぐのこと。

 食堂には、昨日セリアのスープに嫌がらせをしたメイドたちが楽しそうにお喋りをしながら現れた。

 しかし食堂内にセリアの姿を見つけると、不機嫌そうに揃って眉をしかめる。

 

「ねえ、なんであんたがいるのよ。まだ昼休みになったばかりよ。まさか仕事をサボったんじゃないでしょうね」

「いいえ。本日は昼食の下ごしらえをお手伝いしておりました。どうぞ、お召し上がりください」


 若干訝しみながらも、メイドたちはセリアがよそったスープを受け取って、パンと加工肉と共にトレーに乗せ、席につく。

 黄金色のスープからは、すこぶるいい匂いがする。スプーンで口に運ぶと、彼女たちは感嘆の声をあげた。


「おいしい……!」

「なんだか、いつもと少し味が違うみたい」

「本当だわ。あんた、手伝いをしたんでしょう。何か知ってる?」


 メイドたちに問われ、セリアは笑みを深めた。

 

「……ええ。昨日、()()()()()()()()()を教えていただいたので、それを参考に」

 

「……まさか……!!」



 メイドたちの顔色が変わる。

 一人が慌てて席を立ち、厨房の奥を覗き込んだ。

 床に無造作に置かれた籠の中には、何十匹ものミミズが蠢いていて────。



「ぎゃあああああ!!!」


 食堂内に悲鳴がこだまする。


 吐き気をもよおしたメイドたちが、必死の形相でバケツを奪い合い始めた。

 何事かと訝しむ周囲の使用人たちにぶつかって、あちこちでトレーをひっくり返してしまう。そのたびに怒号と悲鳴があがる。


 最早昼食どころではなく、阿鼻叫喚となった食堂を眺めながら、セリアは肩を竦めた。



「いつものスープにスパイスを加えただけなのに、思い込みって恐ろしいわね」 



 ◇



 昼下がりの城内に、甘い香りが漂っている。

 執政官の執務室、お気に入りの香炉から静かに煙が立ち上っている。

 


「…………新人メイド?」

「そうなのです。数日前に雇い入れたばかりの田舎娘が、朝から騒ぎを起こし続けて……」


 たった半日で疲労の色を顔に濃く滲ませた家政婦長の言葉に、執政官は呆れたように言い捨てた。


「たかがメイド一人、躾られないのか。使えぬようなら追い出しても構わん」

「ええ、ええ。そのつもりですとも。しかしそのセリアというメイドが、執政官様へ珍しい沈香を献上したいと申しまして」

「……ほう」


 家政婦長から受けとった沈香に、執政官はわずかに目を見張った。

 田舎娘と聞いていたが、この沈香は希少なもの。王族御用達の高級品である。


 なぜ一介のメイドが……と疑問が頭をもたげたが、それ以上にこの沈香の香りへの興味が勝った。


 家政婦長に、手早く香炉の中の沈香を入れ替えさせる。

 火をつければふわりと香る上品な香りに、執政官は満足気に目を閉じ、それを堪能した。

 


 …………しかし。

 

「げほっ、げほっ、しっ……! 執政官様、これは……!!」


 家政婦長が激しく咳き込んで、その困惑ぶりに執政官も目を開けると、部屋中に白い煙が充満している。


「な、なんだこれは……!?」


 慌てて立ち上がるも、視界は真っ白。見開いた目に煙が沁みて、息を吸い込めば止まらない咳で息をすることもままならない。

 

 手探りで執務机の上のベルを掴み、勢いよく鳴らす。

 扉が開いて、数人の警備兵が飛び込んでくる気配がした。部屋の前では、メイドたちの叫び声も響いている。


 扉が開いても尚、煙はなかなか外へ逃げていってくれず、執政官と家政婦長は床に這いつくばりながら激しい咳を繰り返した。



 その隙に、ひとつの影が執務机の引き出しの中へと手を伸ばしたが、執政官が気が付くことはなかった。



 ◇



 セリアは城の顔であるエントランスホールを磨き上げていた。

 一見して掃除はきちんとされているように見えるものの、ホールを飾る壺の底には埃が溜まっているし、窓ガラスもくすんでいる。

 メイドたちの怠慢を象徴するかのような雑な仕事ぶりだった。


 たった数日でずいぶんと荒れてしまった手で窓を拭きあげていると、執政官と家政婦長が駆け込んできた。


「おい、貴様! どういうつもりだ!?」

「あら。なんのことでしょう?」


 手を止め、平然と首を傾げるセリアに、執政官は声を荒げる。


「とぼけるな! あの香はなんだ!! 何か手を加えたのだろう!?」


 激昂する声が響き渡って、警備兵やメイドたちが何事かと集まってきた。

 この城では誰も執政官に逆らえない。皆が恐れる執政官を怒らせているというのに、セリアは顔色ひとつ変えることはない。


「ふふ。お気に召していただけましたか?」

「ふざけるなぁぁ!! 貴様はクビだ! 今すぐこの城を出ていけ!! おい、誰か!この女をつまみ出せ!!」

 

 執政官の剣幕に、傍観していた数人の警備兵が慌てて足を踏み出した。

 セリアに足早に近付き、その腕を掴み上げようとしたところ──。


 横から音もなくさっと現れたカイが、警備兵の手を捻り上げて床へ押し付けた。驚いて足を止めた他の警備兵たちも、あっという間にカイの手でなぎ倒されてしまう。


 あまりに素早い動きと、圧倒的な強さ。

 ただの新人警備兵とはとても思えないその姿に、皆が呆気にとられて立ち尽くした。


 痛みに呻きながら、床に転がった警備兵の一人がカイを見上げて言った。


「おまえ……いくら惚れてるからって、メイド一人庇って身を滅ぼすなんて、馬鹿のやることだ……!」

「勘違いするな。俺が庇ってるのは、あんたたちの方だ。この方に指一本でも触れたら、どうなるか──」 


 カイが最後まで言い終わる前に、血相を変えた門兵が大慌てでエントランスホールへ駆け込んできた。


 

「執政官様、大変です!! でっ、殿下が……、第三王子殿下がおみえになっております!!」


 

 予想外のその言葉に、ホールがしん、と水を打ったように静まり返る。

 青筋を立てて怒っていた執政官も、突然の事態に戸惑いを隠せずに呟いた。

 

「……まさか……。着任まで、まだひと月近くある。なぜ急に……」



 混乱の中、猶予もなく城の扉が両側から大きく開かれた。

 外の眩しい光がなだれ込み、その中心には一人の青年の姿。淡い金色の髪の下の瞳は、冷たく鋭い。

 こつ、と石の床を踏み鳴らし、ホールへ進み出たその人こそ、第三王子ルーカスだった。


 空気がぴりっと張り詰めて、メイドも警備兵も、皆が一斉に姿勢を正す。

 息苦しいほどの緊張感が漂う中、執政官は驚きに目を見開き、ルーカスを凝視していた。信じられないものを見るような目で。


 

 ルーカスがこの城を訪れるのは初めてではない。

 結婚前から、いずれ公爵としてこの地を治めることになるであろうということは予想されていた。そのため、視察訪問があったのだ。


 しかしその時のルーカスは、噂通りの馬鹿王子に違いなかった。

 領内の特産品、税収の推移、領主代理として執政官が長年担っていた仕事について、調べればすぐわかるような当たり障りのない内容を説明したところ、返ってきた返事がこれである。

「そうか。よくわからないから、これからもその調子で君によろしく頼むよ」


 

 やはり馬鹿だ、と。

 この王子を御することは容易である。公爵という地位を得てこの城にやって来たところで、何も出来はしない。自分がこれからもこの城の、領地の全てを意のままにし、この王子は飾りとして置いておけばいい────。

 執政官は、そう思っていた。

 

 だが、どうだ。

 目の前の王子は、以前見た時のようにへらへらと笑っていない。そればかりか王族として相応の威厳を放ち、この場の空気を支配している。

 まるで別人のように。


 動揺を隠し、執政官は恭しく頭を下げた。挨拶の口上を述べながら、徐々に冷静さを取り戻していく。

 …………まだだ、と。

 王子はまだ一言も言葉を発していない。黙っていればそれなりでも、口を開けばどうせ化けの皮が剥がれるだろう。


 


 ルーカスは執政官の挨拶など耳に入っていないように、別のところから視線を離さなかった。

 床に倒れたままの警備兵たち。そしてそのそばに立つ、カイとセリアである。

 その瞳には、怒りにも見える強い感情が滲んでいる。

   


「…………何をしている?」


 はっきりと苛立ちを含んだ低い声が響いて、執政官は息を呑んだ。警備兵やメイドたちも、顔色を悪くして頭を垂れている。


 重苦しい空気の中でただ一人、まっすぐにルーカスと向き合うセリアは、手にしたままだった雑巾を軽く持ち上げて微笑んだ。


「ご覧の通り。メイドの仕事を」


 いつもの調子で、人の神経を逆撫でするような物言いと生意気な態度。

 間違いなくルーカスの怒りを買うであろうセリアのそれに、執政官は慌てて声を上げた。 

 

「殿下、申し訳ございません! これは先日雇い入れたばかりのメイドで……。しかし問題行動ばかり起こし、今しがた解雇したばかりなのです!」

「本当にメイドの仕事を……? 一体どういうつもりだ?」 


 苛立たしげに問い詰めるルーカスに、セリアは笑みを崩さぬまま、しかし困ったようにカイに助けを求めた。 

 

「まぁ。もしかして怒っていらっしゃる? 私はカイの仕事の邪魔をしていないと、殿下にきちんと説明して差し上げて」

「そうですね……。セリア様が派手に暴れてくださったおかげで、非常に動きやすかったのは間違いありません。このように、不正の証拠も簡単に手に入れることができました」



 そう言って、カイがルーカスへ一綴りの帳簿を差し出した。

 それは紛れもなく領地経営に関する帳簿。使い込まれた革表紙の帳簿の中には、ルーカスの着任にあたって王家より下賜された準備金の使途明細も綴られている。

 机の引き出しに大切に保管されていたそれは、執務室が白煙地獄と化したあの時、カイがこっそり持ち出していたのだ。


 執政官の顔からさっと血の気が引いた。


「なぜ……なぜ、それを貴様が!!」

「俺が警備兵としてここへ来たのは、殿下の命令なんで。アスヴェル城を探り、もしも不正があればその証拠を見つけて来い、と」



 カイが王子の密偵だった────。

 衝撃の事実に、執政官は口をぱくぱくとさせるばかりで、次の言葉が出て来ない。


 それだけではなく。

 ルーカスはカイから受け取った帳簿をぱらぱらとめくり一通り簡単に目を通すと、不快そうに眉をしかめた。


「これは酷い。王家への報告では、年々税収が微減していたというのに、減るどころか増えている。この差額は一体誰の懐に入れられたんだ? 支度金の使用用途も、曖昧なものが多すぎる」


 

 何もわからないはずと侮っていたが、ルーカスの指摘は至極真っ当なもの。

 

 執政官の背中が粟立った。

 安泰な未来しか想像していなかった。まさか城内で足をすくわれるなんて考えもしなかったのだ。それなのに、決定的な証拠を奪われてしまった。


 

 家政婦長も、メイドや警備兵たちも。

 これまでの自分たちの行いを振り返り、それを全てカイに見られていたという現実に思い至って。

 これまで彼の前で一体どんな振る舞いをしていたかと、記憶を辿り思考を巡らせる。


 城の中は外から遮断されたひとつの世界で、執政官に媚びていればそれで良かった。仕事は適当に、弱い者に押し付けて楽をして、給金さえもらえれば良かった。

 そうやって働いていたからこそ、この場で胸を張って立っていられる者は皆無であった。

 たった一人を除いて。



「まぁ皆さん、いつもとってもお元気なのに、ずいぶんと憔悴なさって……おかわいそうに」


 首を傾げて呑気なことを言うセリアに、一斉に怒りの目が向けられるのも当然で。


 

「ふざけたことを……! 元はと言えば、貴様が! ……そうだ、全てはこのメイドが仕組んだことだ!! 執務室をめちゃくちゃにして、偽の帳簿を密偵につかませたのだ!」

「そっ、そうですわ殿下! 私たちは何も……!!」

「黙れ」


 縋るように言い募る執政官と家政婦長を、ルーカスは短くも鋭い一言で黙らせた。



「執政官マリウス・ヴァンデル。今この時をもって、領主代理の任を解く。この証拠をもとに王家が調査し、これまでの不正を全て明らかする。相応の罰が下るまで、覚悟して待て」


 厳しくそう告げると、ルーカスは控えていた護衛に執政官を連れていくよう命じた。

 護衛たちに掴まれながら、執政官は尚も声を上げる。


「そんな……! そのメイドはここへ来てまだ数日! 私は国から定められた執政官であり、こちらの家政婦長は貴族令嬢です! 私はそこのメイドに嵌められたのです! 殿下は我々よりも、身元の確かでない小娘を信じるとおっしゃるのですか!?」

「当たり前だ」


 ルーカスの即答に、執政官は目を丸くする。

 そんな態度がいかにも面白くないと言わんばかりに、ルーカスが乾いた笑みを零した。

 

 

「はは……。ずいぶんと侮られているな、セリア。不愉快だ。どうして正体を明かさずにメイドの真似事などしてたんだ? 酷い目にあっていないだろうな?」

「ご安心くださいませ。お返しは済んでおりますので」


 そんなやり取りで、その場にいる者たちはようやく思い至った。


 ────二人は、知り合いである。


 

 口を開くことも許されず、呆然と成り行きを見守りながらも、全員の視線は一斉にセリアに注がれている。ルーカスとの関係、そして彼女自身は何者であるのかと、頭の中は疑問でいっぱいだった。

  

 探るような沢山の目に晒されたセリアは、それに答えるべくメイド服のスカートの裾を摘み上げて礼をした。

 その所作は、磨き抜かれた貴族のそれで──。


 

「皆様、申し遅れました。私の名はセリア・アルディネ。第三王子ルーカス殿下の妻であり、この国の王子妃にございます」



 その瞬間、時が止まったようにその場の空気が凍りついた。




 ────セリアは元貴族令嬢。

 それも、国内では王家に次ぐ資産を有する侯爵家の令嬢であった。


 セリアはどれだけ自分が恵まれているのか、幼い頃からの厳しい教育で叩き込まれていた。

 

 同じものを得たとしても、その価値は人によって違う。例えばセリアが普段から好んで飲む紅茶葉ひとつとっても、他の貴族家では大切なお客様用として特別なものであったりするし、低位貴族や平民ではとても手が届かない。


 だからこそ。

 人から何か与えられたならば、それに報いなければならない。


 誕生日に友人からプレゼントを貰ったならば、受け取ったものよりもより価値のあるものを、好みに沿うものを贈り。

 茶会に招かれたならば、より高価で珍しい茶葉や茶菓子を用意し、招待客に気を配りながらこちらも招き返す。


 してもらったことは、それよりも更にたくさんのことを返す。なぜなら、セリアはそれが周囲よりも容易な環境であるから。多くを持っている者として当然のことである。



 そんなセリアは、やがて第三王子ルーカスと婚約を結んだ。


 ルーカスは、幼い頃は決して馬鹿王子などと蔑まれるような子どもではなかった。

 ただ、兄たちより手を抜くことが上手で、曖昧な態度でのらりくらりとかわすのが得意で、要領が良かっただけ。


 第一王子は次期王として不足なく、優秀である。国のためにと高い理想を掲げ、その思想は実直で高潔で、貴族の反発を厭わず改革に邁進するような男。

 そして第二王子はそんな兄を尊敬し、全力で支え、共に利権にまみれる貴族を排除しようという気概があった。


 当然、一部の後ろめたいことのある貴族たちには都合が悪い。


 一方でルーカスは対立を嫌い、曖昧な受け答えで波風を立てず、自らの思想を積極的に口にすることはしなかった。

 兄より目立たぬよう、無用な争いを生まぬよう。


 しかしそんな言動さえも裏目に出た。

 ルーカスを担ぎあげようとする者たちが現れたのだ。

 適当に愚かで意志主張のない王の方が、下から操りやすいと思われたため。

 ルーカスにそんなつもりはなくとも、支持する勢力は勝手にまとまり兄たちの粗を探し始め、追い落とそうと勢いを増していく。


 ルーカスは困った。

 確かに何事にも手を抜く癖はついてはいるが、だからといって本気を出しても兄には敵わない。能力も人望もやる気も、王としての器も。


 そこで選んだ道が。

 徹底的に馬鹿を演じること──である。


 今更優秀さをアピールしたところで逆効果になる可能性は高いし、兄たちと同じように高潔実直厳格なタイプへの突然のキャラ変もちょっと厳しい。

 それならばいっそのこと、こいつに王は到底無理だと思わせるほどの馬鹿になる方が簡単だった。


 

 そしてルーカスの目論見は成功した。

 しかしその結果、害を被ったのはセリアである。


 本来なら王子妃として人から羨まれるはずであるが、何しろ相手は馬鹿王子。

 セリアは恩をきちんと返すので、評判はいいし友人も多い。王家のお荷物を押し付けられた形となったセリアに、周囲は同情的だった。

 とはいえ、皆が皆そうではない。

 一部の人間はセリアのことを馬鹿にしてもいいと勘違いをしたのだ。立場を顧みずセリアを軽んじ、侮辱する者たちが次々と現れた。

 

 侮られ、屈辱的な言葉を投げられ、嫌がらせを受けて。

 セリアは思った。

 やられたことは、これまで通りきっちりお返ししよう。

 それが善意でも、悪意でも。受け取った以上のものを。


 それからずっとセリアは倍返しを信条に、自分を、そしてルーカスを守ってきた。



 平民ばかりの使用人はもちろん、社交を必要としない立場である執政官や、婚期を逃し社交界から足が遠のいた家政婦長は知る機会を得られなかったが。

 セリアは社交界では有名である。

 義理堅さで、苛烈さで。激しすぎる報復で。



 


 静まり返ったエントランスホールに、ルーカスの厳しい一言が落ちた。


「俺の妻への侮辱は許さない。その男を連れて行け」


 執政官ががくりを膝を折る。

 驚きと絶望がないまぜになった表情のまま、今度こそ護衛たちに引きずり出されていった。


 そんな様子などよそに、ルーカスはセリアに歩み寄ると、その手を両手でしっかりと握りしめた。 

 

「実家に帰ったはずの君がこの城にいると、カイから報告を受けた俺がどんな気持ちだったかわかる!?」

「ご心配をおかけしました。でも私は、あなたにお返しをしようとしただけのこと。あなたが私に内緒で動いていたこと、知らないとでも思っていて?」


 ルーカスがうっと言葉に詰まる。



 ルーカスとセリアの盛大な結婚式が行われたのは、セリアがここへやって来る少し前のこと。

 本来なら婚姻後すぐ、叙爵されこの地で領主となるはずだったが、ルーカスが渋った。


 公爵になればしばらく王都に戻ってくることはないだろうから、最後にひと月ほど王宮でゆっくり過ごしたい、と。

 また馬鹿が馬鹿を言っている、と多くの者は思ったが、セリアは快く受け入れた。

 そして思う存分のんびりできるようにと、その間自らも実家の侯爵領で過ごすことにする、と言い残して王都を去った。


 しかしセリアは気付いていた。

 ルーカスの本当の目的に。


 ルーカスは婚約中、セリアが自分のせいで周囲に侮られていることに、ずっと心を痛めていた。

 結婚し公爵となれば、もう馬鹿のふりをする必要はない。むしろ馬鹿にされたままでは、この先も舐められ続ける。

 そこでひと月の猶予の間に、兄たちの公務を手伝いなるべくまともなところを見せつけて、少しでも自分の評価を覆そうと考えたのだ。


 同時に、アスヴェル城についても探らせた。

 万一居城で使用人たちにまで軽んじられるようなことがあってはならない。また、領地経営についても気になる点があった。


 今まで苦労をかけた分、結婚後はセリアに何の憂いもなく過ごしてもらえる環境を整えるつもりだったのだ。



 そんなルーカスの思いを察し、更にその気持ちに報いるため、セリアはこの城へメイドとして潜入したのである。

 使用人の仕事ぶりを監視し、不足があれば教育してルーカスの着任に備えるつもりだった。

 まさか、ここまで腐敗しきっているとは想定外だったが。



「大変なことになってしまいましたねぇ。ルーカス様も、王都に戻れば大忙しでしょう。アスヴェル城の使用人については、ルーカス様の方でも侍女や護衛を選定してこちらに連れてくる予定だったのでしょうが、いっそ総入れ替えが必要かもしれませんわね……」


 セリアのその言葉に、使用人たちは一様に顔面を蒼白とさせた。

 たった数日ではあるが、セリアには都合の悪いところを見られている自覚のある者ばかり。

 クビだと言われたところで、言い逃れのしようがないのだ。


 震える使用人たちを横目に、セリアは優雅に微笑んでみせた。

 

「ルーカス様。ここは私に一任してくださいませ。引き続きここで働く意志のある者には、責任持って公爵家に相応しい使用人に躾けてみせますわ」 



 使用人たちが顔色を完全に失った。


 クビになるのは困る。王子の怒りを鑑みれば、きっと紹介状さえ書いてもらえない。

 が、ここに残ったところでお先真っ暗である。


 未来の公爵夫妻からは目をつけられ。新しくやって来る王子選定の使用人に、どんな扱いを受けることになるのかわからない。何をされても文句など言えないし、今まで通りの給金を受け取れる保証もない。

 その上、この公爵夫人から直接躾けられる……?


 最早アスヴェル城に残っても、ここを去っても、彼らの未来は安泰とは程遠い。 

 


 一方でルーカスも、不満を隠さず渋い顔をしていた。


「結局君に面倒をかけることになってしまうな。結婚したら、俺がこれまでのお返しをするつもりだったのに」

「何をおっしゃいます。婚約期間中、ルーカス様からはお心遣いや気配り、優しさをたくさんいただいておりました。だからこそ私は、いただいたものをお返ししていたのです。……もちろん、これからも」


 セリアが穏やかに微笑む。握ったままだった彼女の手を、ルーカスが引き寄せた。口付けしそうなほどの近い距離で、セリアの瞳を愛おしそうに覗き込んでいる。

 

「……君にはかなわないな。だが、俺にだって矜恃がある。一月後には全ての問題を片付けて、胸焼けするほど君を甘やかしてやるからな」

「まぁ。それは楽しみですこと」



 午後の柔らかな日差しが高い天井窓から差し込むエントランスホールは、今は静けさと緊張の残り香が漂うばかり。

 くるりと踵を返し、セリアのメイド服の裾が翻った。


「さぁ、仕事は山ほどありますわ。皆さん、覚悟はよろしくて?」



 善意には善意を。

 悪意には悪意を。


 倍返しを信条とするセリアの、公爵夫人としての仕事の始まりである。


 

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― 新着の感想 ―
全員解雇が妥当かな、と思います。何が何でも楽をしてサボること横領することに全神経を集中させてきた人間が真面目に働くなんて無理じゃないですかね。炭鉱に送られたってサボるでしょうし。
こも苛烈ながらも心遣いがわかって甘々と言う(ざまぁという)辛爽や(現実を叩きつける苛烈さの)辛さと(夫婦の気遣いでイチャイチャする)甘さが同居したような話面白かったです
現代の高度な殺菌処理を施された牛乳ですら一歩間違えれば凶器と貸すのに、この文明レベルかつ牛乳より臭みが強いとされるヤギの乳は…w
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