魔王の休息と暴走科学者
鉄と煙に覆われたアレス軍事国家を抜け、荒れ果てた大地を西へ進む。
風は硝煙と焦げた土の匂いを運び、道端の枯れた樹々は魔力に晒されて黒ずんでいた。
その先に、ゆるやかな山脈が視界を遮り、山の頂に一際高くそびえる建造物の影が見える――魔王城。
西の魔王領の最奥に位置するその城は、まるで地形そのものから生えたかのように、岩を割って天へ伸びる尖塔を持っていた。
外壁は黒曜石のように光を吸い込み、光のない夜でも不気味に存在感を放つ。
城郭全体からは魔力の波動が漂い、近づく者の心をじわじわと蝕む。
アレス軍事国家の兵たちが持つ鉄と煙の戦争技術とは異なり、ここでは魔の力そのものが防壁となり、外敵を拒む。
そしてその中心、最も高い塔に鎮座するのが、この領域の支配者――魔王ルクシア・アビスクリムゾンである。
空は常にどんよりと暗く、黒雲の隙間から覗く月光は城の尖塔に反射して鋭く光る。
風が吹くたび、城壁からは低く唸るような魔力の音が響き、まるで生き物のように城自体が呼吸しているかのようだった。
ここが西の魔王領、最奥の砦――魔王城。
アレス軍事国家の科学と鉄に対抗するのは、魔の力で築かれた絶対的防衛の要塞である。
魔王城の研究塔――その暗く湿った実験室に、奇怪な人物がいた。
細身の身体に漆黒のローブをまとい、長く尖った耳が室内の影に溶ける。
その瞳の奥には計算と狂気が入り混じり、鼻筋の上にはぐるぐると回る奇妙な眼鏡が掛かっていた。
「フフ……実に興味深い反応だ」
ノクス・ナイトメアは、ガラスチューブの中で蠢く魔族融合兵を観察しながら、指先で微細な魔力回路を操作する。
「この改良を加えれば、より強靭で、より残虐な兵士が生まれる……」
机の上には鋼と魔力が融合した奇怪な武器や装甲の断片が散乱し、まるで生き物のように微かに震えている。
ノクスはそれらを手に取り、何度も角度を変え、光の反射と魔力の流れを確認する。
「なるほど、ここを改修すれば“魔力回路の過負荷耐性”が向上する……完璧だ」
その声には喜びも恐怖もなく、ただ計算と実験の純粋な陶酔が宿っていた。
魔王ルクシア・アビスクリムゾンの命令に従い、ノクス・ナイトメアは今日も魔王軍の新たな兵器を生み出す――戦場で無数の死を生むために。
「ノクス! ノクスはいるか?」
ルクシアが声をかけると、ノクスは慌てて振り向き、ぐるぐる眼鏡を押し上げた。
その瞬間、豊満な胸が思わず揺れる。
「は、ははっ! ルクシア様、このような場所でお呼びになるとは……!」
「これは……どうしました?」
ピンクの髪の少女、ルクシア・アビスクリムゾンが手渡すのは、《血鎖ノ魔剣》。
「僕の剣に付いた血を解析しろ! 対抗できる武器や防具を作るんだ!」
「わかりました。出来るだけ急ぎましょう」
ノクスはぐるぐる眼鏡を直しながら、書類と装置を手に取り動き出す。
「どうやら、僕より先にアレス軍が動きそうだ。偵察隊に戦場のデータを取らせろ」
「承知しました」
「僕は……汗をかいたから、先に風呂に行く」
「ルクシア様がお風呂へ行かれるのでしたら、わたくしもお供を!」
「ノクス、君はやることがあるだろう?」
ピンクの髪を揺らしながら、ルクシアが振り返る。
「で、ですがっ!ルクシア様のお体を、その……洗って差し上げなければと!」
「僕は子どもじゃないよ。ひとりで洗える。」
「ううっ!ルクシア様とのウハウハの機会を逃すとはぁぁぁ!」
ノクスは胸を押さえて床に崩れ落ち、ぐるぐる眼鏡をくもらせながら転げ回る。
ルクシアは思わず吹き出し、指先でこめかみを押さえた。
ノクスは立ち上がるや否や、魔導端末を操作しはじめる。
「対抗装備を早く完成させるんだ。」
「ひぃぃっ! 了解しましたルクシア様っ!」
ノクスの指が狂ったように魔力回路を走査する。
「……まったく、騒がしい技術官だな。」
ルクシアは小さくため息をつき、背を向けて歩き出す。
湯気の立つ回廊へ消えていく背中が、かすかに光を帯びていた。
「解析が終わったら、君も湯に来るといい。冷えた頭じゃ、いい発想も出ないだろ?」
「ルクシア様ぁぁぁ……尊いぃぃぃ!」
実験室の奥で、ぐるぐる眼鏡がきらりと光った。
魔王城・西翼、大浴場前。
紅蓮の魔力灯が揺らめき、蒸気が回廊の隅々まで漂っていた。
タオルと着替えを丁寧に抱え、漆黒の髪を高く結い上げた女が、無言のまま湯気の向こうを見つめて立っている。
――魔王軍参謀、ゼフィア・ヴァルグレイン。
湯気に混じる硫黄と魔力の匂い。
遠くで滴る水音だけが、時間の経過を告げていた。
「……おそい。」
小さく息を吐き、目元にかかる黒髪を指で払う。
無表情の中に、わずかに焦りにも似た陰が差す。
ルクシア様――
その名を思い浮かべた瞬間、ゼフィアの瞳が柔らかく揺れた。
「また、ノクスが騒いでいるのだろう。」
かすかな呟き。
彼女の声は、静かな湯気の中で淡く消えていく。
ルクシアの歩調が、遠くの回廊から近づいてくる音。
ゼフィアはすぐに姿勢を正し、タオルを両手で差し出した。
「お待ちしておりました、ルクシア様。湯の温度は、いつもより少し高めに調整してあります。」
「ありがとう、ゼフィア。君の気遣いは本当に助かる。」
「当然の務めです。……今宵は少し、お疲れのようですね。」
「ふふ、戦も研究も続くからね。少しだけ、僕も人間らしい時間を味わいたいんだ。」
湯気が二人の間を満たし、静かな熱を運んでいく。
その空気の中に、戦火を控えた魔王と参謀の、ほんの一瞬の安らぎがあった。




