水辺の禁忌
「雨の日に井戸は覗いてはいけないよ」
私にそう言ったのは足を悪くして老人ホームに入る前の祖父だった。両親、祖父、私の四人で暮らしていた古びた一軒家の裏手には苔だらけで背景の一部と化していた井戸がある。裏手の庭は手入れが行き届かず、木の陰に隠れ、不気味ささえあり、私は普段から近づこうとすらしなかった。今から考えれば、なんで祖父がそんなことを私に言い残したのか、分からなかった。
でも、改めて駄目だと注意されると逆に好奇心をくすぐられるのは、仕方のないことだろう。だから、しんしんと雨が降り続く日、学校帰りに玄関に向かわずに、裏手に回り込んだ。いつも不気味と感じていた裏庭は更におどろおどろしい雰囲気を醸し出し、来る者を拒んでいるような圧倒感がある。ごくっと唾を飲み込み、一歩、一歩、ゆっくりと井戸へと近づいていく。間近で見る井戸は映画の中のセットにさえ、見えた。とても古い時代に作られたという石井戸は完全に苔に覆われている。某映画で見かけたポンプで汲み上げるものではなく、滑車式のものだったが、今やその滑車部分さえ朽ち果て、無くなっている。もっと、幼い頃には滑車はついていたと思うが、井戸の底に落ちてしまったのかもしれない。
井戸を覗き込むには、しっかりと井戸に近づかないといけない。傘は肩にかけたまま、決して落ちないように井戸の縁を掴み、覗き込んでみる。手のひらから伝わる苔の感触が気持ち悪い。早くここから離れたいという一心で目を凝らし、井戸の底を見つめる。しかし、井戸の底というのはかなり深いのか、雨天で視界の悪い状況だからか、ただただ真っ暗闇が続いているのみだった。
バクバクしていた心臓もゆっくりと落ち着き始めるのを感じて、私はゆっくりと井戸から離れた。手についた苔を落としながら、玄関に向けて歩き始める。
「何もなかったじゃん」
完全に裏庭から離れる前に振り返り、一度だけ井戸へと視線を向ける。そこには、私が触ったのであろう手形が残されている。そして、あることに気が付いた瞬間に私は慌てて、玄関へと駆け込んだ。
私が触れたのは井戸の縁だ! あんな風に遠くから手形なんて見えるはずがない!
落ち着いたはずの心臓がまたうるさく警笛を鳴らす。もう一度確認しに行く勇気はもう私にはなく、手の汚れを落とすために洗面所へと向かうしか出来なかった。
井戸に触れた手のひらは次の日には、真っ赤に腫れ、ただれていた。お母さんがところどころ血がにじむ私の手を包み込みながら、泣きそうな声で「すぐに病院に行くわよ」とすぐに車を出してくれた。この地域には病院の数は少ない。皮膚科ともなれば、必然的に待たされるのは仕方ない。3時間待って、やっと呼ばれた診察で先生は私の手のひらを見て、首を傾げた。
「酷くかぶれていますね。こうなったのは手のひらだけですか?」
医師の質問に対して私は少し緊張しながら頷いた。そんな私の様子を見てか、今度はお母さんの方に目をやる。
「今の時期は汗でかぶれてしまうことも多いですが、手のひらだけに症状が出るとなると、少し状況が変わってきますね。似たような症状でいわゆる水虫が手に感染するとこういった風にかぶれだったり、皮むけを起こすこともあります。でも、急激に症状が現れた理由がわかりません。お母さん、お嬢さんは何か、アレルギーをお持ちですか? 些細なものでも構いません。」
「いえ、特には……」
医師は診察机に並んでいるうち、ひとつの本を手に取り、私に見せていく。ウルシ、シダノキ、この辺でも植えられている植物でこういった症状を引き起こす可能性があるものを見せてくれる。私は、あの井戸のことは絶対に話してはいけないと思い、静かに首を横に振るしかなかった。
「手が治るまで学校は休みましょう」
「え?」
「だって、その手じゃまともに勉強も出来ないでしょ?」
お母さんは薬局で受け取った塗り薬の蓋を開けながら私の手のひらに塗ってくれる。なんだか、今日のお母さんはすごく優しい。しかし、こうなったのも全部、私があの井戸に行ってしまったから。申し訳なさに少し顔を下げると、飽きれたような溜息が聞こえた。
「本当のことを話してちょうだい、この手を見るとおばあちゃんのことを思い出しちゃうのよ」
キュッと私の手を包み込んで、祈るようにお母さんは言った。
おばあちゃん。私のおばあちゃんは、小学年低学年ごろ、急に亡くなった。変なにおいがするあの病室を思い出す。あの頃の私はおばあちゃんが死んじゃうなんてよく分からなくて、おばあちゃんに触ってあげてとお母さんに言われたけど、なんだか怖くて、そっとつま先を触るしか出来なかった。
おばあちゃん。そうだ、私がおばあちゃんのつま先に触ったのは、おばあちゃんの手のひらが同じように真っ赤で皮膚も剥けていたからだ。
「井戸……、おじいちゃんが、雨の日に覗いちゃいけないって言うから、気になって、昨日……」
してはいけないことをやってしまったのだと、嗚咽まじりにお母さんに本当のことを話し始めた。
お母さんは憤慨していた。それは私に対してではなく、おじいちゃんに対して。
「だから、早く埋めてって言ってたのに!!」
その発言を聞き、なんとなく分かった。お母さんとおじいちゃんが不仲だったのも。いくら杖が必要になったとはいえ身の回りのことが出来るおじいちゃんを追い出すように老人ホームに入れたのも。おばあちゃんと同じようなことが私に起こっていて、おばあちゃんはそれが原因で亡くなったのだ。
お母さんは台所に行くと、お皿と塩を持ってきた。慣れた手つきで盛り塩を作り、私の目の前に置く。きちんと三角形に盛られている塩を見て、私は少し恐ろしく感じた。
「あの井戸には、何か棲みついているの。お母さんも見かけたのよ……。雨の日だったわ、おばあちゃんが井戸の方に向かうから、ついていったの。おばあちゃんはすぐに家に帰ってきたけど、あの日、井戸には手形がべっとりと付いていた。
おばあちゃんもあなたと同じように手が真っ赤にただれていたわ。それから、すぐに亡くなった……。お医者さんは突発的な不整脈が出たとかなんとか言っていたけど、きっと、違う。お母さんはね、井戸から何かが出てくるように増える手形をみて、恐ろしくなった……。
雨の日だと折角の作った盛り塩も流れちゃう。でも、それでも、毎日、毎日、盛り塩を確認して、あの手形も消えて、やっと、安心して、暮らせると思っていたのに……っ!!」
お母さんは私のことを力強く抱きしめて、「絶対にお母さんが守って見せる!」と言ってくれた。私は軽率に井戸へ行ってしまったことを酷く悔いた。
少し痛む指でスマホをタップする。急に学校を休んだことを心配する友達には手を怪我しちゃったと返して会話を終わらせた。そして、雨と怖い話や、井戸などを検索していく。そして、いくつか気になるネット記事を見つけた。
・水辺の禁忌:雨の日に井戸を覗いてはいけない。異界と繋がりやすく、霊に憑りつかれる。
・水は「境界」:この世とあの世、日常と非日常をつなぐ象徴。
・雨は「不浄」:昔は災いや死者の気配を伴うものとして恐れられていた。
アクセス数を稼ぐような仰々しい話ばかり並べられていたが、今の自分の状況に当てはまりそうな話を見つけては、解決方法がないか探すしかなかった。
おじいちゃんに注意されたのに破ったのは自分だ。後悔に涙がにじんでくる。
異変は既に起こり始める。お母さんには言えなかったが、実は雨の音が、ずっと耳鳴りのように聞こえ続けている。今日が晴天であるにも関わらずだ。
簡単に記録をつけようと思い、スマホのメモ帳を開いた。
・0日目:雨の日に井戸を覗いてしまった。
・1日目:お母さんと病院に行った。手のひらがただれて痛い。雨の音が鳴りやまない。
・2日目:手が痛い。文字を打つのもつらい。雨の音が聞こえる。時々、ぴちゃんと水が落ちる音もする。
・3にちめ:もううてない。音声認識をつかってる。あめとみずおとおうるさい
・4日:あし、おじいちゃにあいいく
孫である栞が雨の日に井戸を覗いたと聞いて、俺は高揚していた。なんでも、明日面会に来てくれるとか。
栞なら必ず、井戸を覗いてくれると信じていた。俺は知っている、ばあさんや母さんに虐げられてきた俺を救ってくれるのは栞だと。あの井戸には美しい女性が住んでいる。この世の何を差し出しても手に入れることが出来ないであろう絶世の美女だ。俺はかつて、子供のころに見つけたあの人に言われた言葉を思い出していた。
「身体をちょうだい。そうしたら、あなたについていくわ」
年老いて醜くなったばあさんを唆し、井戸に向かうように言ってみたが、結果は駄目だった。きっと、ばあさんのようなやつをあてがっても器として認識しないのだろうと考えた。なら、母さんはどうだ? 子供を産み、少しずつ皺も増えてきたこの娘じゃ、井戸の主は満足しないだろう。
では、栞はどうだ? あの女どもと違って、顔立ちもよい。器としてあの井戸の主が認めてくれるのではないか。
俺が家を追い出される前に栞に好奇心を持たせるように言った言葉は思った通り、栞を井戸へと向かわせた。
面会室で出会った栞の表情は暗く、よく見えない。しかし、なんだか、神秘的な雰囲気を感じ取り、子供のころの記憶を思い出して、あの井戸の主が俺のもとに来てくれたんだと内心喜びに満ちていた。栞の両手には包帯が巻かれており、血が滲んでいるのが見えた。だが、それがなんだというのか。少しの傷すらももう気にならない。
「身体、ありがとう」
栞を顔を上げて、表情柔らかく、口角を上げながら、俺を見つめてきた。あの時の美女がやっと来てくれた!! 俺は、感動のあまり、言葉が出ない。やっと、長年の夢が叶ったのだ。
栞は包帯の巻かれた両手で俺の頬を撫で、首元に手をかけた。
「約束通り、あなたを連れていくわ」