『心揺さぶられる光景』
驚く事怒りや笑い総てを感動とするならば毎日がその連続である。
だが、それを感情の起伏喜怒哀楽と片付けてしまうと長い事感動していない。
心が揺れ動くか何の感情も抱ないかは、事態を目撃体験した受け手に総てがかかっている。
どんな事で人は心を揺さぶられるのか、分かっていたら物書きの苦労は半分で済む。
何時からかは定かでないが、感情をあまり表に出さない性格になっていた。
それが、交通事故に遭ってからというもの、特に怒りの制御が出来なくなってきた。
毎日が感情露わの生活である。
だからと言って心の内が大きく揺れ動いているかと言うとそうでもない。
簡単な表現をすれば、人様より表現の仕方が大げさなだけで、尚且つ本人の意志に反して隠しておけないだけだ。
したがって、何処へ行ってもついつい心の声が漏れてしまう。
不味い汚い五月蠅いといった不平不満は誰でもが感じる事だが、其の場で関係者が居るのに正直に本当の事を言う者は少ない。
結果として変な人になってしまう。
十年来こんな性格と付き合っていると、いい加減変な人扱いも慣れてきたが、役所と言う処にはどうしても馴染めない。
病院にはどうにかこうにか対応できるまでに訓練されたが、役所となると勝手が違ってくる。
つまるところ、病人に対する対応の仕方を知らないのが役所で、正直者は馬鹿野郎としか映らない。
今住んでいる街は以前住んでいた所にも増してフザケタ行政区で、何時ぞやはモラルの欠片も無く車椅子使用者が車の乗り降りに不便しないようにと車椅子マークをしてある駐車スペースが総て塞がっていた。
自分は杖を使えば歩行可能だから用の無いスペースだが、車椅子の人にとっては衝撃的現場である。
四つ有る内の一つにはバイクが停めてあった。
もう一つには軽トラックである。
他の二台については不明だが、如何にも車椅子は乗りませんと言う程にちっこい車が一台と、これから出ようとしている車の運転手は役所の正面玄関から歩いて出てきた。
他に乘っている者はいないのだから振るっている。
福祉課に用事が有ったから外の事態はどういう事かと抗議したが、聞く者は一人も居ないし外を見ようともしない。 車の持ち主を注意するでもない。
時々警察の車がこの障害者用駐車スペースを見ているのだが、何の障害も無い婆がこのスペースに停めていても、車を出す時に警官が誘導している始末。
警備員なんだか警官なんだか。
モラルも認識も欠落している職員が大半を占めている行政が行政だから、県の行政下にある県警察が市役所でやる事も押して知るべしである。
こんな事なら面倒だから、いっその事指定区域外駐車許可証を持った車は二台分の駐車スペースを使ってよろしいとしてしまえばいい。
そうすれば守られない法律で白線引きの仕事を増やさなくても、駐車場全体が障害者用駐車スペースとして扱える。 まあ、言っても叶うものではないが、こんなのは序の口がこの街の実体である。
相談に来た老夫婦が窓口に立ったまま待っている。
職員はと言うと、つまらん事を話し込んで老夫婦を無視である。
あまりにも腹立たしい光景に思わず「客が待ってるぞ! 早く話聞いてやれよ」と怒鳴ってしまった。
まさに心揺さぶられる光景である。
相談窓口に行っても、何々の申請のやり方が分からないと言っているのに、分からないのでは受付できませんと門前払いである。
分からないから相談に来ている者を、書けないから受け付けないでは相談の意味が無い。
審査する立場に無い者が、窓口で事前に申請者をふるいにかけて居るのである。
私は保険屋に、この手口で一度やられた。
事故後の法律相談ですと、頼んでも居ないのにお迎えの車が来て連れていかれた。
そこには弁護士先生が待っていて、相談も何も無く「諦めなさい」の一点張りで帰された。
帰りの車は自宅に行ってくれるのかと思えば、そのまま保険会社の事務所に横づけして、この書類にサインしなさい、さすれば何万かくれてやるからと署名捺印を迫られた。
今時、ヤクザでもここまであからさまな事はしないのだが、田舎のそれも農業従事者が多く加盟している共済ではまかり通っている。
「くれてやる」だよ、保険金を。
言い回しではなく【くれてやる】はそのままの言い方だから驚いてくれ。
役所も保険屋も何処も彼処もこういった風潮が未だに根強く残っている地域で、回覧板はまだ良いとしても、祭の為の寄付がここ等では強制である。
それも一万円。
神社の祭りに関わる寄付となれば、宗教団体が寄付を募るのと同じだから強制できないぞと教えてやったが、集金に来た者が呆れ顔になって「役員会で決まった事だから払ってもらわないと困る」だそうな。
違法だろうが金が無かろうが、役員会で決まれば強制的に金を貧乏人からむしり取れるし逮捕もされない。
高利貸しより性悪だが、安全確実な銭儲けだ。
当然普段が普段だから、やる気も倫理観も正義感も無く、法律なんかクソクラエの市役所に行って相談しても門前払いされるだけである。
昔からの住人はそれをよく知っているのだなとつくづく思う。
こんな社会なのに、不平不満を一言も言わない。
影の権力者が怖いのか。
何十年何百年と続いた習慣とは恐ろしいものである。
防災何とか避難訓練の時、避難場所になっている市役所に行ったら「何処の部落から来た」と聞かれた。
今時、それも市役所のど真ん中で、当たり前の様に部落などという言葉が通じているし使っている。
「そんな言葉まだ使ってんのかよ」とつい心の声が出てしまった。
直ぐに他の担当者が「どの地域からいらっしゃいましたか」と聞き直してくれた。
やればできるじゃねえかよ。
こんな言葉が現代になっても生きて居る地域なんだと恐ろしくなったものだ。
これもまた心を大きく揺さぶられる光景だった。
ついこの間は自分がどうやって申請書類を出したのか忘れてしまい、市役所の関係者に聞いてその経緯を書き出した書類を貰って来た。
そこに書いてあるのは突き詰めれば、相談に来たがもう一度医師と相談しなさいと言って追い返した。
その後また来たが、診断書だけでは申請出来ないと教えたのに、どうしても診断書だけでも申請書をくれと言うから、書類を渡して帰したと言う事を、オブラートにガッチリ包み込んだ文章だった。
どうにもならなくて思い切って相談している者を、ふりだしに戻ってもう一度医師に相談してと言っているあたりが、相談する意味の無い次元の話になっている。
医師と司法の意見が違っている時に、行政に提出する申請書類なのだからと相談している。
その相手の行政が、権限も無いのに【相談窓口で受け付ける相談者を選んで追い返す】のが当たり前になっている。
だから他の職員に調査を頼んでも、その行為がさも当然であるかの様な資料を出して来て平然としている。
兎に角、この街に住んでいるとある意味心揺さぶられる光景によく出会える。
話のネタが作れるから満更駄目ばかりではないが、この様な町の実態が小説やエッセイになるかと言ったら、読んでいる人が気分を害するばかりの愚痴になってしまうから使えない。
精々愚痴の垂れ流し文で披露するしかないのは分かっていても、書かないと脳ミソがパンクしそうだから書いている。
そんな怒文を最後まで読んでくれた貴方は、恐ろしく人間離れした辛抱強さを秘めている。
きっと、絶対、必ずや、この街に来ても幸せに暮らせるに違いない。
一度住んでみなさい。
ロクなもんじゃねえから!
道路端はゴミだらけ、歩道に犬の糞なんてので驚いちゃいけない。
糞があちこちに転がっていて当然なんだよ、犬は放飼いが当たり前の地域だから。
人の家の庭に入り込んでタケノコ採りは行楽シーズンの御決り行事、栗や柿なんかが生っていたいたらば枝ごとバッサリ無くなる。
庭先の車はもとより、使っているクーラーの室外機が朝になったら消失していたなんてのが一軒や二軒の話ではないのだよ。
良い所だから、一度住んでみなさいって。