『医学は病に勝てたのか』
狩猟民族から農耕民族へ、そして定住した河川の地域。
これを文明地域と呼んでいるらしい。
それでは、遊牧民に文明は無いのか。
河の近くに定住し、麦を作った者達だけが文明を築き上げたのではない。
行商の民に文明は無いのか。
彼等こそが世界に散らばっていた文化文明科学を伝え、発展発達させた張本人である。
いわば文明の根源である。
世界の定義は間違いだらけである。
医学は多くの生きた人の犠牲の上に成り立っている学問である。
人を含め多くの命を生贄にしなければ、医学の神は人類に何も教えてくれなかった。
良い悪い正義だ悪だは別として、戦時下における多くの人体実験は現代医学に大きく貢献した。
そんな人類の悪行を戒めているのか、神は医学者に一つの真理を教えては十の難問を置いていく。
医学に限らず、学問とは解決と出題の繰り返しである。
現代の医学者がどれ程の難問を解決しようとも、人類が目指し求める医の境地には辿りつけない。
今、人類が医に求めているものは病の克服よりも、限りある生命の永遠であるからだ。
何とも愚かな行為ではあるが、多くの人が望むのであれば研究者は挑戦する。
果てない仕事であると解っていても、それが医学を志す者の使命であるならば、迷わず突き進むしかないのである。
医の根源が祈祷師であったように、現代医学は神の領域とも言うべき所にまで土足で踏み込んでいる。
尊厳死と言われる死は、発達し過ぎた医学の副産物である。
生命にとって広義の死は、事故を含めて総てが自然死である。
近代医学は本来在るべき死を生に変えてしまった。
心肺停止から、人工心肺によって限りなく生かされてゆく命。
古代ミイラのように扱われてもなお、この人は生きていると信じる近親者達。
医師の中には、例え脳が生きていようとも、機械に繋がれた彼等を死者であると表現する者もいる。
生きているとはいかなる状態であるのか。
脳波に現れない生命の根源たる魂をどう扱うのか。
死とはいかなる事態であるのか。
心音が無く、脈も無く、体温は下がり脳波が止まる。
放置すれば肉体は腐敗し、見るに堪えない状態となる。
肉体が滅びようともなお神学者は、人と言わず生き物総ての魂は浮遊し、命は永遠であると説く。
見た物総てが真実とは限らない。
科学・学問の総てが正しいとは限らない。
神学の総てを否定する事を今の人類には出来ない。
それは宇宙の広ささえ判らない人類の知恵が導いた、数少ない確定論だ。
人は常に何かを信じていなければ生きていられない。
そうでなければ、自分の目の前に広がる世界が現実なのか虚像であるのか区別がつかないからだ。
人は自分が虚像の中では生きられないと思い込んでいる。
自分は現実の世界に生きていると思い込んでいる。
これは、その様に教わって来たからに他ならない。
仮に、信じていた物が虚像であると知った時、人は行き続けられるであろうか。
勿論、本人の意識次第でどうにでもなる事である。
ならば、真実と思われている目の前の総てが虚像であるとした時、人は死してなお己の意志を持って生き続けられるのであろうか。
これもまた、本人の意識次第でどうにでもなる事としてしまっていいのだろうか。
知る者はいない。
誰も教えてはくれないから。
教えてもらえなかった事を、人はどの様に理解しているのだろう。
自分だけの経験と勝手な解釈でしかない。
真実とは、此の世の総てとは。
生きるとは、死するとは。
なにもかもが己の勝手な解釈の上に成り立っている虚像でしかないとしたら、人は病を克服できないだろうか。
医学者が数千年かけても解けなかった問題を、誰でも一瞬で解決できるのである。
囚われず、拘らず、感じたまま信じたまま。
それが生きるという事である。
自分以外の者が勝手に決める事。
それこそが死である。
これさえも自分以外の者が勝手に決めた事である。
人は本当に生きているのであろうか。