『死者の日と花火 リメンバー・ミー』
炎を楽しむのはいかに数多い地球上の生物といえども、人間と妖怪くらいのものだ。
夏になると花火大会というのはどういった理屈なのか。
河童を楽しませて災難が起きませんようにと、川開きの行事に使用されていた名残だと伝えられている。
はっきりした理由はさだかでないが、妖怪が絡んでいるのは確かだ。
一般的には無条件に楽しむ為だけの花火だが、諸事情あって私は正直純粋に花火を楽しめない。
子供の頃、近所の鉄工所が燃えて、地上に広がる巨大な花火状態になったのを目撃した。
その工場が家の直ぐ裏手だったので、一家総出の消火活動で恐ろしい思いをしている。
もっとも、恐ろしい思いをしたのは家族で、自分はというと現場に行って火事見物をしていた。
炎に包まれるガスボンベを、消防隊員に指差し教えてあげ、爆発して野次馬が被災する大惨事を未然に防いだ功労者である。
この英雄の御帰還を家族はどの様に出迎えたか、予想だにしない拳固の嵐である。
もらい火を消すのに猫の手も借りたい大騒ぎの家を放っておいて、火事見物とはどういった了見だときた。
まだ五歳の子供に言う事か、やる事か。
この日を境に、火事とは実に恐ろしいものだと認識した。
戦前までは、夏に限らず花火が打ちあげられていた。
古くは室町時代、法事の後に花火が打ちあげられたとの記録があるから、いずれ供養絡みの行事に使われていたと考えられる。
精霊流しに花火にと、人は炎の揺らぎを永遠に見る事のない霊界の神秘と重ねているようだ。
いわゆる死者の祭り、リメンバー・ミーである。
花火と火事を切り離して考えられない者にとって、実に都合のいい話しがある。
江戸時代に鍵屋から分家した玉屋、本家を追い越す勢いの人気であったが、失火により一代で家名断絶している。
炎を操る職人、火炎を生業としている者が、炎で家名断絶の憂き目に遭うとは皮肉なものだ。
現代でも花火師は命がけの仕事で、一歩間違えば自分が作った花火で命を落す事もある。
花火職人だった友人の父親が、隔離された作業小屋の爆発事故で亡くなったのには酷く驚かされたものだ。
夏場に家の庭で花火をあげて、灯油を売っている隣りのスタンドに火の粉が降った時は酷く苦情を言われた。
その時は「すいません」と言って事は収まったが、よくよく考えてみれば話しは立場が逆だ。
花火の火の粉程度で引火するような施設であってはならない。
たとえ炎が私設を舐めても、燃えてはいけない。
簡単に炎上するような建物や地下タンクの設置は、ともに消防も行政も許可していない筈だ。
二十年も前から人が住んでいる住宅地のど真ん中に、最近になってそれほど危険な施設を造っておいて「危ないから花火をやるな」って、なんかしっくりこないな~。
火薬を使っている以上花火は危険な物である。
いくら厳重に管理しても、それを使う者が危険な状態では残虐な事態を招く。
したがって、戦後GHQに花火の製造は禁止された。
しかしながら、1946年7月4日の亜米利加独立記念日には、日本各地の米軍基地でアメリカ独立祭の打ち揚げ花火があげられている。
製造されていないはずの花火をどこから手に入れた。
勝てば官軍、何をやっても許される。
法律も何もあったものではない。
戦後初の花火大会は、1946年9月29日と30日に土浦市で開催された。
第14回全国煙火競技大会。
現在は土浦全国花火競技大会となっている。
1947年には、新憲法施行記念に皇居前広場でも花火が打ちあげられた。
製造を禁止したのは戦後間もない時期で【大日本帝国万歳・国民総玉砕】の残党に爆弾を作られ、無差別テロをやられたのではたまったものではないとの懸念があっての事。
しかしながら、打ちあげるのは許可するといった妙な現象が数年続いていた事になる。
長年続いた行事を一時に変えようとすると、何処かに妙なしわ寄せが生じるものである。
まだ学生の頃、近所の家が火事になったのを今でも時たま思い出す。
何件か新築が並んでいるところで発生した火事で、出火した家の隣りには完成したばかりの家があった。
家財道具を運び終え、明日越して来るという家だったので、家主は不在である。
「これは大変だぞ」と、隣近所の者が家の中に運び込まれた家具やらなにやら忙しく運び出している時、プロパンガスのボンベが爆発した。
ボンベは真上を向いていたから、幸い作業中の人には当たらなかったが、三四十㍍の火柱と同時に吹き飛んだボンベの頭が近くのカーポートに落ちて大穴を開けた。
私が今まで経験した炎で、最も悲惨で迫力のある打ちあげだった。
火事の現場には下手に近付いてはいけない。
勿論、この時の私は現場から百㍍ばかり離れていたから恐怖は感じなかったが、現場でボランティアをやっていた人達が蒼くなって逃げてきたのを覚えている。
どうしても花火は炎上・火薬は戦と連想してしまうのは、こんな色々があっての事。
火災で、花火で、知った者が災難に遭っていれば、ただ綺麗・凄いだけでは花火見物をしていられなくなってしまうものだ。
そんな者だが、毎年夏になると近所の海岸で開催される花火大会に出かけていく。
この花火、だいぶ前の大雑把な価格が三号玉三千四百円 五号玉一万円 十号玉六万円 二十号玉五十五万円 正三尺玉百五十万円 正四尺玉二百六十万円と、決して安い買い物ではない。
そして、一瞬で消えてしまう。
数年前には、長引く景気の低迷から花火を打ちあげるのにスポンサーがつかなかったり、祭の予算が組めなかったりで、花火大会はおろか祭さえ中止しようかどうかといった時期があった。
今でも地方は不景気との長い延長戦を続けている。
景気回復などと絵空事を唱えているのは、何処かの独裁者だけである。
歴史を振り返ると、決まって景気の低迷期には、景気回復を公約しておいて、平和的な法を蔑ろにした新法を作った政治家がいた。
きな臭い時代に成って来たなと感じるのは私だけではないだろう。
花火に限らず、あらゆる物には二通りの使い道がある。
破壊に使うか創造に使うか。
火薬を創造の花火ではない破壊の兵器として使い、揚句の果てに打ち上げ花火が見られない時代になってしまったのでは、これからの子供達が可哀想だ。
まかり間違って死者の日の花火大会が、死者だけの花火大会では洒落にならない。
いがみ合い憎しみ合い殺し合う戦争に、何の意味がありましょう。
鬼畜にも劣る蛮行の、どこに正義がありましょう。
私ごときの力では何もできませんが、天下泰平を願うばかりで御座います。