ムーンスペースの傍から
「みなさんこんにちはー! 小谷 真一です。ここ御宮下市は今年の夏は大勢の期待や注目や熱気や、その他いろいろで暑さが凄いですよねー。ねえ、広瀬さん。なんといっても今日でもう工事を始めてから2年は経ちました……。アハハハハ。待ちに待った超巨大施設『ムーン・ゆれあいスペース』の竣工式がもうそろそろになるようですから。皆さん熱中症にはご注意くださいね。アハハハハ」
「そうですねえ。これで御宮下市は太陽系初の月がもっとも近い市になりますね」
「アハハハハ。この『ムーン・ゆれあいスペース』は簡単にいうと月と御宮下市を繋ぐゴンドラです……日中建設。谷ノ瀬木重機などの多くの建設会社による大規模な資本によって実現しました……」
月と地球を繋げる場の超巨大施設が建ってから、ぼくの日常は変わった。いつもの高校への通学路。いつもの通り過ぎる八百屋に文房具屋。近所のおばさんたち。いつもの街の景色。いつもの夏の空。みんなは超巨大施設を「ムーン・スペース」と呼ぶようになったのもいつもが変わったからだろう。
空を見上げる。
太陽の熱によってぼくの頬に一筋の汗が流れた。
月とここ御宮下市が幾本のレールで繋がっている。
これは、その日から始まる彼女との月での恋物語だ……。
ゴンドラがやっと月にたどり着いた。
ぼくは御宮下市から月まで丸一週間もかかる運行時間に辟易していた。でも、その間に地球という青い星をずっと眺め続けていた。何故だろう。ぼくの心の奥底で、もう地球へは戻れないとでも思ってしまったのかも知れない。
今日は朝からムーン・ゆれあいスペースの竣工式で御宮下市全体が賑わっていた。幸い。月旅行にはぼくは一番乗りができた。他の観光客もそれぞれゴンドラで月を楽しめる日がくるはずだった。
それと、ぼくは人見知りだからみんなと違うコースを選んだ。
みんなとは違い。
月の裏側を散歩するコースだ。
ゴンドラから宇宙服に着替えて月の地面に足を着けた。
月の気温は夏の御宮下市内と比べると信じられないくらいに寒かった。真っ白い息を宇宙服の中で吐き出すと、宇宙服の中が寒い息で一杯になった。
地球という名の青い星をぼくは振り返って。
東の空から星々が降り出す。
ぼくは地球に向かって「さよなら」と手を振った。
月の裏側は、いや、月に裏も表も元々ないんじゃないかな。
かなり歩くと、もう地球が見えなくなっていた。
辺りは暗闇と眩い星雲が覆う。
もう、ここはだれの世界でもない。ぼくだけの世界なんだ。と、ぼくが勝手に思っていると、後ろから声を掛けられた。
「ねえ、地球はどこ? 道端で寝てたら道に迷っちゃって……」
振り向くと、綺麗な人だった。
今まで見たことのない綺麗な女の人だ。
ぼくは辺りを見回し、即座に首を振った。
「いや、ぼくも知らないんだ……君と同じく道に迷ってしまったよ」
「あら、そうなの……困ったわねえ」
「ところで、宇宙服はどうしたの?! 普段着のようだけど?」
「ここなら息もできるのよ。地球とあまり変わりないわね」
「ふーん……」
ぼくも宇宙服を脱いでみた。
途端に、寒くて仕方がなかった。
「ずっと、一人? もしかしてここに住んでるの?」
「やあねえ、家族と一緒よ。今ははぐれたけれど……」
「ふーん」
「ねえ、私と一緒に地球を探さない?」
「うん。いいよ……」
「私の名前は……月ノ瀬 かぐや」
「ぼくは星野瀬 ひかり」
「少し歩こう」
「ええ。このまま月の果てまで……」
――――
かぐやと月で出会ってから御宮下市での学校生活が一変した。
かぐやはあろうことか、ぼくの家の隣に引っ越してきたからだ。
だけど、学校は同じじゃなかった。
違う学校へとかぐやは通っていた。
そして、すごいことがわかった。
かぐやは完璧な夜型人間だったんだ。当然、学校も夜間学校だ。
瞼に直射される日光で、真っ白な布団から起き出した。目覚まし時計は使ったことがないけど、今日も窓から新品特有の輝く「ムーン・スペース」が見えた。
月と御宮下市をひっきりなしに行き来しているゴンドラ。
確か、運行時間は朝の5時から22時までだったはずだ。
階下のキッチンで母が用意してある朝食を食べて、学生鞄は忘れないためにキッチンの上に置いてある。
きっと、かぐやはこの時間はぐっすりと眠っているはずだ。
ぼくが通学している時も。
ぼくが学校で勉強している時も。
ぼくが図書室で本を読んでいる時も。
眠いけどかぐやと話せるのは夜だけなんだね。
そんなある日のことだった。
「ねえ、今日よね」
「何が?」
「御宮下商店街の角のケーキ屋さん」
「ああ、今日開店だったっけ」
いつものこの時間に二人で話した。今日は星空が空を覆っていた。
窓際のハンモックに寝ているかぐやは、ぼくの家の窓から会話が筒抜けだった。ぼくは窓を開ければかぐやと話せるんだ。
「ふーん。じゃあ、明日日曜だし。一緒に行こうよ」
「駄目よ。明日は塾」
「そっか……ぼくは休みさ……」
「来週の日曜なら」
「じゃあ、その日で決まりだね」
笑ったかぐやの顔を見た。
ぼくは来週が早くも待ち遠しくなっていた。
今週末になったので、早めにぼくは寝床に就いた。今夜はかぐやとも窓際で話さなかった。かぐやの両親もぼくの両親もムーン・スペースで月に行ったきりだった。
とても静かな夜だったんだ。
かぐやも明日のケーキ屋さんに備えたんだろうとぼくは思う。
一体、御宮下商店街の一角にはどんなケーキが並んでいるんだろう。
だけど、日曜日の朝に目が覚めたら、街のようすが一変していた。
どんよりとした曇り空の日だった。
そこは、崩壊した御宮下市。
きっとムーン・スペースが倒壊したんだ……。
早めに商店街へと出たかぐやともはぐれてしまった……。
巨大なムーン・スペースが倒れた御宮下市でぼくはかぐやを探した。
みんなが乗っていたはずのたくさんの大きなゴンドラも、御宮下市の至る所に落ち散乱している。
ムーン・スペースの銀色のパネルも地面に散らばっている。
でも、怪我人もいない。
人もいない。
みんな竣工式の賑わいから月に行ってしまったようだった。
もう地球へと戻れることのない月へ。
大勢の笑顔はもう帰ってこない。
どんよりとした曇り空を見上げる。
ぼくは月とみんなに向かって「さよなら」と手を振っていた。
涙が突然零れ落ちる。
ここ御宮下市でぼくは独りぼっちになったような錯覚を抱いて……。
曇り空の隙間から虹が覗いた。
御宮下商店街まで無人の大通りを歩いた。
その一角にあるケーキ屋さんは、空から降ったゴンドラによって倒壊していた。
「ひかり!」
「え?!」
ケーキ屋さんの傍でかぐやがぼくを待ってくれていたようだ。
ぼくはもう独りぼっちじゃないんだね。
「よかったー。君を探してよかった」
「ほんとよね。また会えたわね」
「ケーキ屋さん。店員さんもいないんだね」
「そうね。ここへ来た時はまだ開店もしていなかったわ。明日開店する予定に変更していたみたい」
「ムーン・スペースの竣工式?」
「そうかもね」
「ねえ、ちょっと……誰かいないか探してみましょうよ」
「ああ、そうだね」
これから二人だけの旅が始まる。
ぼくはそう確信した。
月にはもう戻れないけれど。
食料もあるかわからないけど。
人がいるかわからないけど。
そうここ広大な御宮下市は今では、あの月と同じだった……。