「行きましょう」
ナッサヘルク城。
サリーナは、かつての居城の成れの果てを目の前に、込み上げる感情と闘っていた。
ここに居る。
確かに感じるのだ。左手に繋いだランスの手をギュッと握ってサリーナは、深く息を吸った。
亡国の王、老王ライガス・ヴァンディアを中心として結成された反魔王隊は、各地から賛同して集まった戦士たちを迎え、千を超える軍となった。一国の軍としては余りにも脆弱な数ではあったが、その一人一人が確固たる意思を持った強靭な戦士である事は確かだった。
魔王軍の数十万の兵士と夥しい魔獣や死霊と相対するには、それでも勝ち目など無い。
この機を選んだのには理由があった。
レーナルスに向けて出兵したばかりである上に、南方でのパンスティーク国との戦況が激化していたのだ。
パンスティーク側が、レーナルスのソムスへの出兵を察知して、前線を押し上げようとしていた。その事で、同盟国であるソムスへの戦力を抑え様と言う目論見もあった。
二つの戦場を維持する為に戦力を投じなければならない魔王軍は、海路の中間地点であるこの地に一部勢力を残して事の流れを見なくてはならなかった。
そこに活路を見出したのだ。
魔王グナークは動かずに、旧ナッサヘルク城に居るだろうと言う情報も得ていた反魔王軍は、息を潜め準備を整えていった。少数精鋭であった事でかなりの距離まで詰め寄る事ができていた。
第四隊まで編成された部隊が夜明けとともに雄叫びを上げて、魔王軍に襲いかかった。
サリーナたちは、その混乱の中、十数人の戦士の護衛とともに、戦場の隙を駆け抜けて旧ナッサヘルク城へと辿り着いていた。
サリーナは、ナッサヘルク城の城門の前で、破壊されたまま放置されている城壁や荒れたままになっている前庭の草花や浮き上がった石畳を目の前に溢れる涙を流した。
時の流れを明確に刻み込んだその姿は、サリーナの記憶の中のそれとは明らかに違い、目を閉じれば色鮮やかに浮かび上がる景色はそこには無かった。ただただサリーナの瞳に無情に現実を見せつけた。
「行きましょう」
サリーナの手に力が入るのをランスは受け止めた。
ランスにも衝撃的な現実は、今、信じ切れていなかった時の流れを彼にも実感させていた。その茫然とした心は、目の前に突き付けられた現実を理解しながらも、感情的に追い付かない事のズレに埋まらぬ間隙に飲み込まれていた。
右手に伝わるサリーナの手の温もりと様々な感情を内混ぜにした指の動きが、ランスの心を現実に引き戻した。
「うん」
ランスは、涙を指先で拭うサリーナを横目で見ると、愛する女性の強さを実感しながら、一歩づつ城へと進んだ。
城の崩れ方と所々に転がる岩を見ると、時の流れによる崩壊だけでは無く、戦争による傷痕がかなり有るのだと分かった。
この場には、二人が経験していない歴史の真実が散らばって風化仕掛けていた。
二人が旅行に行っていた間に一体何が有ったのか、グナークが何故二人を眠らせたのか、サリーの問いかけの瞳に崩れた城は静かなまま、まだ何も答えてはくれなかった。
旧ナッサヘルク城へと入って行く二人の後を護衛の為に残った三人の戦士が周囲を警戒しながら付いていた。
その一人、銀髪の剣士セードルフは、ローデットと言うレーナルスの北東の国の出身である。武勲を上げ出世する為、ソムスの軍に参加したが、東海岸の戦闘で負傷して船ごと流された所を、メッサの海岸で命を救われた。そう言った戦士が数多くいた。セードルフの隣で弓を構えて警戒しているインナークもまた、同じだった。同じ様に取り残された兵士や商船に紛れて渡って来た戦士たちが、ルスカール内の反魔王組織に参加し、今回のライガスの号令に賛同し集まっていた。
そして、もう一人の岩の様な体のジンクは、ヴァンナット人である。
三人は、前を行く二人の事をどう捉えて良いのか計りかねてはいた。だが、ランスの剣士としての技量と、サリーナの魔法の力は、間違いなく戦力になる。サリーナが、この旧ナッサヘルク城にいるであろう魔王グナークの気配を捉えていて、向かって居る事が間違いなければ、魔王を討つ好機はやってくるだろう。しかし、罠や彼らの裏切りが起これば、三人は命の危険に晒される。
そのリスクを考えての少人数による突入だった。それを彼ら三人も理解していた。
二人を先行させて居るのも、警戒の表れと言えた。もっとも、それを提案したのは、サリーナだった。
セードルフは、二人の背中を見ながら、二人を信じたいと思っていた。二人の真っ直ぐな瞳と、柔らかな人柄が彼は気に入っていたのだ。
城の中庭に出た所で、二人は大きく息を飲んだ。
そこには、記憶の中にあるそのままの花園が広がっていたからだった。所々に瓦礫は散在しては居るが、晩夏の花が咲き誇る二人が語り合った庭園はそこにまだ息づいていた。
「なんて事…」
サリーナは、東家も健在である事に、口元を押さえて嗚咽を漏らした。
この中庭は、彼女の母が心を込めて育て家族皆が愛した場所なのだ。
ランスは、震えるサリーナの肩を支える様に抱いた。今にも崩れ落ちそうなサリーナは、ランスに支えられて静かに泣くと、涙を拭かぬまま東家に向かって声を上げた。
「お父様!何故なのですか!」
その場の全員の緊張が高まった。
中庭中央の東家に、人影があった。
その人影の目は見えなくても、こちらを見て居るのだと皆が分かった。
その視線は、深い悲しみと怒りで人を焼き尽くさんばかりの強い目だった。
「お父様!お聞かせください!」
その視線が揺らいだ。
「このサリーナにお聞かせください!」
影がよろめいた。
よろめく様に東家から現れたのは、全身を大きな黒いローブで覆った人物だった。
魔素を感知する事ができない護衛の三人にも、その禍々しい気配は、足の一歩を指のひと曲げを重くさせた。身体中にねっとりと汗が滲み、視線を動かす事すら死につながる想像をさせた。
圧倒的な恐怖と畏怖をその姿に感じさせた。
「…サリーナ…?!…何故ここに…」
ローブのフードの中から漏れ出したその声は、明らかに動揺していた。
「お父様、どうしてその様な禍々しい力を纏っていらっしゃるのですか?あのお優しかった貴方はどうされたのですか?」
サリーナは、哀しみに心を揺さぶられながら言葉を続けた。
信じられない現実と信じたくない現実と、それが紛れもなく自分の愛した父である事に困惑しながらも、ひと目会う事ができた喜びと、それ故に受け止めなければならない現実にサリーナは、体の芯から震えていた。
「早すぎる…何故今ここに…」
魔王グナークも動揺していた。その動揺が、魔素の奔流となって、中庭を吹き荒れた。
「グナーク王!もうおやめください!魔王となった貴方を僕たちは止めなくてはならない!」
ランスは、サリーナの手をそっと離して、剣を抜き放った。そこに光が宿った。
「神成りの剣。やはり扱えるか…」
グナークは、そう呟くと、両手を広げた。そして、魔素を拡散させた。
「来るが良い」
そのグナークの姿はあまりにも無防備だった。拡散させた魔素は、何かを発動させる動きも見せずにただ揺らぎ、まるで攻撃の意思など無かった。
ランスは、戸惑った。
僕は。この剣をグナーク王に突き立てる事ができるのか?
グナークを殺せば、サリーナは悲しむだろう。その明らかな現実にランスの剣先は震えた。まるでこの剣で殺されようとして居るグナークの態度にランスは、動かなかった。
「さあ、殺すが良い。我が愚行の幕引きを!ランス!」
「王よ!死でしか貴方を止められぬのですか!」
ランスは、涙を流しながら叫んだ。
「ランス!」
その背中に、温かな手の温もりが添えられた。
「お願いですランス」
サリーナのその言葉の先が王の命乞いである事をランスは期待していた。
「王を罪から解き放ってください」
だが、ランスの背に触れた手は、激しく震えながらも、彼の望んだ言葉とは違う決断をしていた。
「うあぁぁぁぁぁぁぁ!!」
ランスは、悲鳴の様に腹から雄叫びを発すると、剣を左下方に構え魔王グナークに向かって駆けた。




