「助けて!タイナ!」
ネッテは、自分を獲物として見ているその魔獣の目に足がすくみ、自分がどうしたら動けるのかも忘れてしまった。
グルルルル…
それは、唸り声を洞穴内に響かせながら、ゆっくりとズシッズシッと近づいて来る。
「お姉ちゃん…」
同じ様に怯えている妹のルーは、震える手で姉の服を掴む事で何とか保っていた。
あたしが護らなきゃ…
頭の中では、ルーをどうにか護らなければならないと思うのだが、体が思うようには動いてはくれなかった。このままでは、何の抵抗もできずに死を迎える事が分かっているのに、指先一つも動かせなかった。
斑熊は、様子を窺っているかのように、少し体を振りながら、目の前の人間を見ていた。それはもう一つ、逃げ道がない事も見せつけているかの様だった。
鼻を持ち上げて牙を剥き、相手を追い詰めるのは、敵意を示すと同時に、戦意を喪失させる意味もあるのかも知れない。その牙から滴り落ちる唾液が、燻った焚き火に光り、垂れ落ちてその熱を消した。
獣の酷い体臭が、近付いて来るのを感じ、二人の少女の背筋に冷たい汗が流れた。総毛立ち、ガクガクと顎が噛み合わせを忘れて鳴った。
斑熊が、足下の燻った焚き火の跡の熱さを嫌がって、避けようとするのが見えた。だが、その巨体では、どうにも避け切れずに躊躇していた。
ルーは、何とか足を引きずって、姉の体を引っ張った。
「お姉ちゃん!」
妹に引っ張られてようやく、足が動いたが、恐怖は強く彼女の足を引っ張った。ズルズルと引きずりながら後退りする様に何とか奥へと入って行く。
その時だった。
斑熊が、右前脚を振り上げて横薙ぎに焚き火跡をかいた。その事で、燻っていた焚き火の木屑が舞い上がり、空気に触れて赤熱した。一瞬弧を描く様に光が舞い上がった。
舞い上がった火の粉が幾つか斑熊の鼻先や目元に飛び、獣は驚いて怯んだ。
姉妹は、まるで金縛りから解かれた様に、駆け出した。駆け出したと言っても、洞穴の奥は真っ暗でどんどん狭くなっており手触りを頼りに進む事しかできない。そして、知っている限りでは、子どもが屈んでようやく入れる場所がある。
二人は、最後は這う様な状態で奥へと進んだ。明かりはなく、真っ暗な中を頭や肩をぶつけながら、入り込んで行った。最奥で姉妹で横並びに腹這いになった。これ以上先は、水が有り進むことはできない。天井は、腕立て伏せの姿勢で頭を上げると付くほどの高さは有る。
ネッテは、何とか体を捩って来た方に頭が向く様に体勢を変えた。
振り返ったつもりでは有るが、真っ暗で何も見えなかった。
こんな状況になるなら、タイナに強がって見せなければ良かった…
…違う。タイナの所為だ。タイナが分かってくれないからだ!
ネッテは、恐怖の時間の中で、何とか自分を失わない様に震える唇をぐっと噛んで、思考を回した。
頭に浮かんだ幼馴染の顔に弱気になる自分を何とか立て直そうとした。
その目に微かな光が動いた様に思えた。
グルルルル!ガァ!
その気配は、驚くほど近くに居た。
狭さに進めず、二人の所には来られないのか、洞穴の壁や天井をガリガリと爪で削る音と、人間の気配に攻撃をしようとする息遣いが聞こえた。
音の気配から、魔獣は、狭さに苦戦して二人に到達するのは、難しそうに思えたが、何分暗くその距離感は正確には測れない。もし、諦めずに続けるのならば、いつかは二人の元に到達する事はあり得る様に思えた。
このままでは、いつかは殺されてしまう。逃げ道も無いし、どうにか諦めて…
ネッテは、祈ったが、脳裏に浮かぶタイナの顔が、「やっぱりネッテは、反魔王隊なんてなれないな」と言っている様で、泥と涙でぐちゃぐちゃになった顔を歪めて、声を上げて泣きそうになった。
「お姉ちゃん!怖いよ!怖いよ!」
隣で同じく泥と涙に顔を汚しているであろう妹が、姉の服を掴んだまま、悲鳴を上げている事に気が付いた。
あたしは、一人じゃ無い!この子を護らなきゃ!
ネッテは、背負っていた弓を持つと、矢筒に手を伸ばした。手に当たった感触では、残りの矢は、後二本しか無い。
当たれば、怯んで諦めてくれるかも知れない。
それは、分の悪い賭けにしか思えなかった。暗闇の中で、敵の位置も明確では無く、体勢も悪い。当てずっぽうで矢を放って、相手を怯ませる事など、不可能に近い。それでも、今できる事をやらなければ、死は確実に近付いて来る。
それだけはごめんだった。
タイナに大きな獲物を仕留めると息巻いて暴走した挙句に、妹のルーを巻き込んで、結局何の抵抗も出来ずに逃げ惑って殺されるなんて、彼女の誇りが許さなかった。
これ以上無様な姿を晒して終わるなんて、嫌だ!
胸を張って、タイナに会えない!
違う!
生きてタイナに会いたい!
会って、酷いこと言ってごめんなさいって言わせるんだ!
だから、あたしは死にたく無い!
ネッテは、力を振り絞って、上半身を持ち上げて、弓を番えた。
弓を引き絞り、ガリガリと岩肌を削る音のする方へ狙いを定めた。
当たって!
願いを込めて矢を放つ。
矢羽根が風を切る音が聞こえた。
ガッと鏃が何かに当たる音がしたが、獣の爪が壁を掘削する音は続いている。
外れた?!
信じられなかったが、それが事実だと迫る唸り声と爪の音が物語っていた。
どうしよう…
矢は、あと一本。ネッテは、弱気になりながらもその最後の矢を矢筒から引き抜いた。
あと一矢。これを外したら、もう無理かも知れない。
襲い掛かる重圧に、矢を番る手がひどく震えた。
ガッ!
そのネッテの鼻先に鋭い風が襲い掛かった。
その瞬間は、何か分からなかったが、少し遅れてそれが斑熊の爪が近くを抜けた風だと気が付いた。
「ルー、もっと下がって」
慌ててルーを下げさせて、自分も下がった。足が冷たい水に浸かるのが伝わった。
これ以上は下がれない。
ネッテは、覚悟しなくてはならなかった。
もし最後の矢が外れたら、ナイフを手に前に出ようと考えた。自分がやられている隙にルーだけは逃がせるかも知れないと。
でも、そんなのはごめんだ。
生きたい!
ネッテは、矢を番えた右手を一度離して、自分の口元に持ってくると、その手の甲を噛んだ。血が滲む程強く噛んだ。
口の中に自分の血の味がした。
あたしは生きてる。これからも、生きる!
強い意志で、再び矢を掴むと、引き絞った。
手に痛みが走ったが、先程の震えは止まっていた。
矢よ!応えて!あたしに生きる力を!
その時だった。洞穴の所々に淡く光が生まれた。
洞穴内を微かな光が照らし、斑熊の影が浮かび上がった。
ネッテが想像していたよりもその姿は遠くにあった。巨体は、狭さに入り込まずに居たのだ。だが、その長い腕は、ネッテに迫る程近付いていた。爪が削っていたのは、その周りの岩肌だったのだ。だからさっきの矢は、すぐ天井に当たり、敵には届かなかった。
突然洞穴が明るくなったのは、どうしてなのかネッテには分からなかったが、これで矢が当てられる条件が一つ得られた。あとは、狙いとその腕に打ち落とされないタイミングを図ることだった。そして、たった一矢で怯ませられる場所を狙う事。
ネッテは、荒れていた息を深くしていった。集中して、一点を見る事で、余計な情報による思考遅延がない様に、その瞬間を待った。
あたしに力を。一点を射抜く力を!
時が止まったかに思えた。
ネッテは、自分の体の中に何かが入り込み、そしてそれが指先を抜けて矢に宿った様に思えた。
その時、鏃の先に彼女の視界が同調した。
今!
ネッテが、矢を放った。
矢は力の勢いに震えながらも真っ直ぐに飛んだ。そして飛びながら、ネッテの意思を乗せ、洞穴内に浮かび上がった光を束ねながら突き進んだ。
ゴウッッ!
ただの矢とは思えぬ音を立てて、ネッテの狙った斑熊の右目に迫り、射抜いた。いや、抉り取る様に突き抜けた。
「えっ…?」
洞穴内の光が消える一瞬前に、その矢の起こした効果を見たネッテは、その光景に目を疑った。
だが、すぐに訪れた暗闇に確認する事はできなかった。
「やった?」
それでも当たった事は確認できて、ネッテは少しホッとしていた。
グオォォォォォォォ!!
斑熊の咆哮が洞穴に響いた。
フッフッフッと、短く強い呼吸が聞こえた。斑熊は、怯みはしたが戦意は失っていなかった。
ガフッガフッガフッガフッ!!
と、怒りにより激しく姉妹の居る奥に向い腕を伸ばしてきた。今度は、傷つくのも構わずに、体を狭い天井と壁にぶつけながら。
その勢いにパラパラと、姉妹の周りの天井や壁が崩れそうになっていた。
「きゃあぁぁぁぁ!!」
姉妹は大きな悲鳴を上げた。
迫り来ているであろう魔獣の爪を避ける為、後退り、水の中に体を入れざるを得なかった。
それでも、勢いを増した爪は、二人に迫りつつあった。
「助けて!タイナ!」
ネッテは、水から顔だけ出して、助けを求めた。
もうだめ!
ズウゥゥゥン。
ネッテの顔に、風が届いた。
暗闇で何が起きているのか分からずに、ネッテは、必死で妹の体を抱きしめて護っていた。
そこに、暖かい灯が、大きな影を越えて届いて来た。
「ネッテー!」
聞こえた声は、助けを求めた少年の声だった。
「タイナ?!」
水が口に入りながらも、その名をネッテは呼んだ。
「ネッテ!」
大きな影を越えて小柄な影が見えた。狭い洞穴を身を屈めて、松明を持った少年が姉妹を見つけて、手を差し伸べた。
ネッテは、その手を取ろうと、水から手を伸ばしたが届かなかった。
「待ってろ!今助けてやる!」
松明の灯に浮かぶ幼馴染の顔が、いつもとは違い真剣で頼り甲斐のある顔に見えた。何よりも、体から全部抜け落ちたと感じる程、ネッテは、安心した。
体から力が抜けて、地面を掴んでいた手が緩み、姉妹は水に沈み掛けてしまった。
「ばか!気を抜くな!」
幼馴染の優しい叱り声と手が、ネッテたち姉妹をしっかりと掴んでいた。
水から引き上げられた姉妹は、幼馴染にしっかとしがみ付いて、大声を上げて泣いた。




