「貴方が助けてくれたの?」
メルリは、その声の場所を木の影から探った。
声の主の姿は見えない。
しかし、確かにあの唸り声が聞こえた。
「風よ運べ其の声を」
メルリは、そう呟く。
するとメルリの耳に周囲の音が響き聞こえて来た。
ガサッ
右手側の奥に乾いた草を踏む音が聞こえた。メルリはそちらに意識を向ける。
グゥルルルル…
ゆっくりと進む足跡と共にその唸り声が聞こえた。
居る。
メルリは、その場所を見た。木と木の間を動くものがあった。
あいつだ。移動している。
メルリがその動向に注視していると、別の気配を感じた。
獣よりも軽い気配。
獣の方に意識を残しつつもそちらを見た。そこには、キョロキョロと辺りを見ながら歩くサナエが居た。まだ、獣には気が付いていない。双方まだ距離はあるが、このままでは獣にサナエが気付かれてしまう。
メルリは、サナエにその事を告げる方法を考えた。
そして、
「風よ運べ我が声を」
と、呪文を呟いた。
[サナエ、近くにあいつが居る。引き返して]
そう、メルリの声をサナエの耳元に直接届けた。
サナエが離れてさえくれれば、近付いて魔法であいつを攻撃できる。
メルリは、意を決して動き出した。ここからでは、木が邪魔で獣に確実に当てられないと判断したからだ。
「メルリ!居るの?!どこ?!」
サナエは、メルリの声が耳元でした事の方に反応して、メルリを探して声を上げてしまった。
「サナエ!だめ!」
サナエに向かって声を出したメルリの視界の端を獣が動き出す姿が見えた。
しまった。
メルリは、走った。
咄嗟に口の中で、
「炎よ…」
と、呪文を紡ごうとするが、阻む木々が標的を上手く絞らせてくれない。
獣は、既にサナエにあと一呼吸の位置まで迫っていた。
っだめ!
メルリの目の端に涙が溜まった。恐怖と無力さに溢れた涙だった。
あともう二歩近付けていればっ!
「きゃぁぁあああ!」
サナエの悲鳴が響いた。
獣の接近と既に逃げる事のできる機会を失った事を、獣の血走った目と剥き出しの牙から迸る唾液と迫り来る太い前足と爪が彼女に嫌と言うほど伝えた。
サナエは、何もすることができずにただ恐怖し、それを見る事しか出来なかった。
もうだめだ。
サナエは、絶対的な死を突き付けられた。
しかし、サナエの身体を抉り取る爪は来なかった。サナエのまさに目と鼻の先まで来たそれは何かに弾かれた。そしてそのまま、獣は体ごと吹き飛び後ろの木の幹に叩き付けた。
「え?!」
サナエは、何が起きたのか分からなかった。サナエは、呆然とした。
そのサナエの目の前に立ち塞がる様に小さな綿毛が居た。獣を威嚇する様に尻尾と耳をピンと立てて、小さな牙を向いて唸っている。
「貴方が助けてくれたの?」
信じ難かったが、そうとしか思えなかった。
「穿て七の矢!」
サナエと獣の方にかけて来たメルリが声を上げた。メルリの正面に七本の炎の矢が現出し、そしてそれぞれが、空を走り獣へと迫って行った。
吹き飛ばされた獣は、既に起きあがり体制を整えつつあった。その口元に血が流れて、激しい怒りの呼吸で地面に飛び散っている。
グァァァアァァ!
腹の底から怒りを吐き出す様に、その勢いで首を振りながら獣が声を上げた。
その体にメルリの放った炎の矢が数本突き刺さった。刺さらなかった矢は、獣の居た場所の木に刺さったり地面に刺さり炎を上げた。
獣に刺さった矢は、その火力を上げて獣の毛皮と肉を焼いた。火の恐怖と痛みと熱さに獣の身体がぐらついた。しかし、命には届かず獣は踏み止まりそのままサナエを見ていた。
サナエは、綿毛を抱き上げた。サナエを守った後、力を使い果たして倒れてしまったのだった。サナエは、その綿毛を抱き獣を睨み付けていた。
許さない。
サナエの心に怒りと憎しみが溢れていた。
サナエに迫っていた獣は、その瞬間に躊躇した。野生の直感が怒りの忘我の奥で、目の前のそれに牙を向けてはいけないと言っていた。
メルリもその様子に背筋を凍らせた。体の芯を冷たい物が貫く様な感覚をサナエから感じた。
時が凍りつく様な感覚が、その場を支配していた。
その場を鋭い足音が切り裂いた。
その足音は、獣へと迫り飛び上がると、抜き放たれた剣をその首に突き立てた。獣が痛みに身体を捩ると、その剣を横倒しに体ごと滑らせた。
獣の血が剣の刃の後を追い噴き出した。そして、獣の頭が皮を一部分残しゴトリと落ちた。胴体も続けて崩れ落ちた。
「よっしゃ!やったぜ!」
足音の主は、拳を握りしめて喜びの声を上げた。
「大丈夫か?」
剣を拭いて鞘に納めながら、サナエに声を掛けた。
サナエは、目の前で起きた事に衝撃を受けて腰を抜かし、ペタリと座っていた。
サナエは、声をかけて来た少年を見上げた。
腰に剣を携え軽装の鎧を身につけた、サナエと同い年位の少年は、鼻先に返り血を付けてにかっと笑っていた。
サナエは、目の前の命のやり取りの現実に気を失った。
ガタガタと揺れる振動の中、サナエは目を覚ました。
そこが馬車の中なのだろうと、サナエはぼんやりと思ったが森の中に居たはずの自分が馬車に乗っている理由が見つからなかった。
対面に座っているメルリは、不機嫌そうな顔で流れる景色を眺めていた。
サナエは、硬い馬車の座椅子に手を突いて体を起こた。
体に疲労感はあったがそれ以外の違和感は無かった。多少の擦り傷は有ったが、怪我はしていない様子でサナエはほっとした。
「メルリ」
サナエが、気遣う様にメルリに声を掛けると、サナエを見てホッとした笑顔を見せた。しかし、何処となく上の空にサナエは感じた。
「やあ、起きたね」
メルリの隣に男性が座っていた事に、その時初めてサナエは気が付いた。
サナエは、ハッとして目を伏せた。
男性は、参ったなと耳の後ろを触って笑った。
「私は、近衛騎士副団長のラナック・ロッド・ライナットです」
「近衛騎士副団長…さん…」
目の前の赤み掛かった髪の背の高い男性をサナエは、控えめに見つめた。目鼻立ちが整っていて、茶色い目は深く優しい。左の耳元から顎にかけて大きな傷跡があるのが見えた。
サナエの見方が不審な相手を見る様な視線に感じたラナックは、笑顔を崩さないまでも小さく息をついた。
サナエは、状況が分からないまま記憶を辿った。そう言えば、獣の首を切り落とした少年が居たはずだ。あの少年はどうしたのだろうか?とサナエは思い出した。と、同時に獣の首が落ちた光景と流れた血を思い出して顔色が悪くなった。
「あの、助けてくれた人は…」
サナエは、何とかラナックにそう質問した。
「あぁ、マルスかい?彼なら、御者台に居るよ」
御者台。つまり、この馬車を動かしているのだろうか?とサナエは、馬車の前側の壁を見た。馬車は個室の形をしているので、その姿は見えない。でも、礼を言わなければとサナエは思っていた。
「もうすぐ市内に入るよ」
「何処に向かって居るんですか?」
「王城だよ。メルリルーク様をお送りする為にね。もちろん、サナエ、君もね」
この男性は、二人の事を知って居るのだ。メルリの変装?も意味を成していなかった事になる。
「今まで気付かれた事無かったのに、ラナックおじ様に会うなんて不運だわ」
「メルリルーク様。おじ様は、ちょっと傷付くのですが…」
ラナックは、困った様にそう言った。しかし、目元は柔らかに笑っていた。
サナエは、彼の見た目からもおじさんは可哀想だなと同情した。
「おじ様はおじ様よ。お母様の弟なのですから。昔はあんなに遊んでくれたのに、そんな他人の様な扱いは嫌だわ」
「お気持ちは嬉しいのですが、私は近衛騎士、メルリルーク様は、この国の王女であらせられます。それにもう立派な女性です。立場をご理解ください」
メルリは、不機嫌なままそっぽを向いた。
「ラナックは、にやけ顔の癖に変に硬くて嫌になるわ。奥さんのレーネもきっと苦労している事ね。あ、そうだわ、今度レーネをお茶会に誘いたいわ。都合の良い日を聞いておいてくれないかしら」
メルリは、ラナックの妻の事を思い出してそう提案した。
「それは妻も喜びます。伝えておきます」
サナエは、メルリが嬉しそうにしている事に少しほっとした。怖い目に遭って、メルリが落ち込んでいるのではとサナエは心配していた。
サナエは、自分の気持ちも落ち着いた事で、あの綿毛の子はどうしたのだろう?と思い出した。
キョロキョロと身の回りを探したが、綿毛の子は見当たらなかった。と、胸に抱いていた自分の鞄を見た。もしかしたらと思い、中を覗くとその子が居た。呼吸で腹部が動いているのも見えて、サナエは安心した。
連れて来て良かったのだろうかと不安は過ったが、メルリだったらきっと、ダメとは言わないと確信していた。マルナに知られたら怒られるだろうとそれも確信した。
そしてサナエは、さらに思い出して青ざめた。
そうだ、送って貰うと言う事は、城を抜け出した事が知れてしまって、絶対怒られる。
それを免れる術は、どこにも見当たらない。とサナエは気付き身体の血が引くのを感じた。
目を潤ませてメルリを見た。サナエの表情から何かを察したメルリは首を横に振って諦めた顔をしている。
馬車は、もう城門をくぐって城内へと入っていた。
メルリとサナエは、その後長時間に渡るマルナの小言を聞かされ、さらにリリーナとサナエは、長いお説教をされる事になった。