「私の事、好きじゃないの?」
ハーマクにとって、リーシアは支える王国の王女というだけでなく、同じ乳を飲んで育った乳兄妹であり、幼馴染と言える。
幼い頃は、泣き虫で臆病なひとつ年下のリーシアを妹の様に思っていたが、時が経つにつれてその身分の差を理解していく事で、気持ちも体も距離を取る様になっていった。
それでもリーシアは、気分が晴れない時や孤独を感じた時、ハーマクの仕事場や母と妹と住む家に訪ねてきていた。
ハーマクの母は、それを大いに喜んだが、十を過ぎてから下男見習いとして働き始めていたハーマクは、複雑な思いだった。支える者と高貴な者、その立場の違いは、ハーマクにとって絶対的な壁に思えていた。それは、貴族の娘として生まれたはずの母が、その生まれの背景のせいでこうして使用人として生きている事がその証明としてハーマクに突きつけた。こうして仕事を与えてもらい、家族が生活できる事に感謝はしてはいたが、少年の心の根底に劣等感を刻んでいた。
リーシアの乳母を任されたハーマクの母のハミルは、ある貴族とその妾の娘として生まれ、縁あって王妃ロンナのメイドをしていた。その縁から、宮廷庭師のナクマと結婚した後、乳母の話が彼女の元にいったのだった。まだ幼いハーマクを連れて、再び王宮で働く事となった。王妃ロンナは、ハミルを年の離れた妹の様に思っていた。王妃は知らされていなかったが、実際腹違いの妹であった。ハミルの父親が誰なのかは伏せられた上で、ロンナの父親が使用人として働かせるためにハミルを紹介したのだ。
ハミルは、自分の父親が誰かを知っていた。母親から、誰にも話してはならないと注意された上で、教えられていたのだ。口に出すことは出来なかったが、姉の側にいられる事をハミルは心から喜んでいた。なれない憧れの自分を写していたのだろう。だから、リーシアの乳母を任された時は、かなりの喜び様だった。王女の母親となれる様なものだとハミルは嬉しかった。その思いが実子のハーマクよりもリーシアに愛情を注がせた。貴族の血を引く彼女の果たせないはずの華やかな人生をそこに見出していた。
そんな母親の姿をハーマクは、哀しく見ていた。愛情を注がれなかった訳ではなかったが、リーシアを愛しむ母親の姿に嫉妬せずにはいられなかった。守るべき妹と思いながらも、疎ましく思う自分の心にハーマクは戸惑った。成長するほどに整理できずに、わざと泣かせる様な意地悪もした事もあった。だが、生来の彼の優しさは、それを罪として自らを責め、苦しめた。だからだろう、使用人として仕事を始める事で、立ち位置を知り、大きな壁がある事を認識する事で恵まれる者と恵まれきれない者と隔たりがあると理解した。リーシアと自分は違うのだとようやく理屈がついたのだ。
今、ハーマクは、そのリーシアの気配を感じながら西へ向かうクハラナ街道を進んでいた。街道は、メッサリア中央にあるタライラ公園と呼ばれる直径約ニグヘン(二キロメートル)の公園を横断している。その辺りまで来れば人の目も気にならず歩くことができた。そして、公園を抜ければ、一般市民の住宅地や小規模な市がある。人の目はあるが、庶民的な服に着替えたリーシアの事を王女だと認識する者はいないはずだ。
逃亡の算段を頭の中で考えている自分に、ハーマクは、改めて深くため息をついた。
どうして、僕がこんな目に?
ここまでの道中に何度思った事だろうか。ハーマクは、ボリボリと首の後ろをかいては、自分が背後を歩く少女に従うしか無い人生を呪い、それが自分の生きる術であると知っていた。
ハーマクは、再び立ち止まりリーシアが追いつくのを待った。
「ハーマク…お腹空いた」
リーシアは、大きく息を吐きながら空腹を訴えた。昨晩の晩餐会も食事が喉を通らず、今朝も朝食を食べずに茶を飲んだだけだった。
「分かった。もう少し行ったら庶民区だから、何か食べられるものを買おう」
ハーマクは、自分の手持ちの金の事を考えた。それ程持ち出せなかったが、ある程度の食事なら大丈夫だろう。と、計算したが、もしリーシアがしばらく帰る気になってくれなければ、到底足りない。この気まぐれが早く終わる事を願った。
「ハーマク…なんか、冷たい…」
「は?」
「前はもっとちゃんと話してくれた。でも、最近は何だか遠くにいるみたい」
そんなのは当たり前だと、ハーマクは思った。
「たくさん遊んでくれたし、優しかった。足痛い時はおんぶしてくれたし」
「背負って欲しいのか…のですか?」
ハーマクは、言いながら言葉使いも昔のままじゃダメだと反省した。つい、幼い頃の話し方をしていた事に気付き、自分は使用人であり、立場をわきまえなければならないのだと反省した。
ハーマクが語尾を言い換えた事で、リーシアは、目を見開くほどショックを受けた。
「違うわ!!背負ってなんか欲しくない!」
ワナワナと震えながらリーシアは言い放つと走り出した。
「待てって…待ってください」
ハーマクは、その後をすぐ追ったが、リーシアは、少し走っただけでヨロヨロとなり、石畳の少しのズレに脚を取られて転んだ。
ハーマクがすぐに駆けつけ、腕を掴んで助け起こすと、リーシアは、泣いていた。
「大丈夫ですか?」
「やめて!」
「は?何をですか?」
「敬語やだ!そんなのハーマクじゃない」
「でも…これが現実なんです」
ハーマクは、苦しそうに言った。
「現実って何?ハーマクは、ハーマクでしょ」
「分からないならいい。帰ろう」
「絶対嫌!何でよ、ハーマクまで!ハーマクなら分かってくれると信じてたのに!したくないお稽古もお勉強も踊りもお作法も我慢してやってきたわ!でも、好きでも無い、好きにもなれない男の人と結婚するためじゃ無いわ!国の為のお人形になんてなりたく無いわ!私はわたしだもの!ずっと一緒にいてくれたハーマクなら分かってくれると信じてたのに!どうして分かってくれないの!どうしてそんなに冷たくするの!」
リーシアは、涙を飛ばしながらハーマクに訴えた。
ハーマクなら分かってくれて、優しい言葉を掛けてくれて、抱きしめてくれると信じていた。だから、王の指輪を隠して混乱させる計画に巻き込んだし、事態が大きくなって怖くなったら一緒に逃げた。それなのに、ここまで来るまでにハーマクとの間にずっと距離を感じてリーシアは、辛かった。
「同情はするよ。でも、リーシアは、王女なんだ。…だから、城に戻るべきです。皆、心配しています」
「そんなのは嫌よ!どうして?!ねぇ、ハーマクは、私の事、好きじゃないの?他の人と結婚しちゃうんだよ?!」
「え?いや、結婚は王様たちが望んでいる事ですよね」
ハーマクには、リーシアが言っていることが分からなかった。望まれた結婚ならば、彼女は幸せになれると思っていた。それに、彼女の問題であって、祝福こそするが、彼には関係の無い事だった。
「…好きじゃ…無いの…?」
「?…リーシア様は、お支えする方ですから」
リーシアには、その事実こそ想定外だった。
ハーマクに恋しているかは、自覚も実感も無かったが、ハーマクが好いてくれているなら、それも良いと思っていたリーシアは、信じ難い事実だった。
リーシアは、頭を抱える様にしたまま立ち上がった。
「聞きたく無い…」
「リーシア、様?」
「いや!そんなの!聞きたく無い!」
リーシアは、そのまま再び走り出した。今度は、何度も転びそうになりながらも走り続けた。今はハーマクと言う現実から逃げる為に。
「リーシア!」
ハーマクは、走り続けるリーシアを追った。
だが、近付けば逃げて行くリーシアを強引に引き止める訳にはいかず、困っていた。
リーシアは、庶民区の街道脇の露店街の人混みを見つけるとそこに入って行った。昼前の露店街は、食材や昼食を求める人々で混雑していて、すぐにリーシアの姿をハーマクから見えなくした。
慌てたハーマクは、人混みを強引に分け入った。だが、その姿を見つける事はできなかった。
ハーマクは、もしやと思い、引き返した。
街道に出て、西に走った。
いた!
視界の遠く、街道をフラフラと力を振り絞る様に足を引きずりながら走るリーシアの背中が小さく見えた。
リーシア!
本当に面倒臭い!と、ハーマクは、ギリリと奥歯を噛んだ。そして目一杯の速度で走った。
その視界の中で、リーシアに迫る数人の影が見えた。灰色の影がリーシアの行先を塞いだ。
「リーシア!」
ハーマクが振り絞る様に声を掛けると、灰色の影の一人が察知して、彼に向かって音も無く走り近づいてきた。
「リーシア!」
リーシアに何かあったら不味い。とハーマクは、必死だった。灰色の影が近付いて来た事は、よく分かってなかった。リーシアの事しか見えていなかった。
その中の一人が、リーシアの腕を掴むのが見えた。その手に向かってハーマクは腕を伸ばした。
後少し、と言うところで、体を熱い何かが襲った気がした。が、構わず腕を伸ばした。灰色の影の腕を倒れ込みながら掴んだ。リーシアの腕からその手が離れるのを見た。
「リー…シ…!」
リーシア逃げろ!
そう言ったつもりだった。
だが、声にならなかった。ハーマク腹から喉に掛けて切り裂かれていた。倒れ込んだ自分の体からおびただしい血が流れるのが彼に見えた。
「ハーマク!」
リーシアは、ほとんど悲鳴でその名を叫んだ。
ハーマクの腕が動いて、リーシアに逃げろと訴えた。
リーシアは、状況にパニックになりながらも、恐怖から逃げる為に既に限界の体から力を振り絞り逃げた。それを追おうとした灰色の影の足をハーマクは、掴み倒した。
「何しやがる!」
倒された灰色の影が声を上げた。
ハーマクを斬りつけた影がハーマクを横から蹴飛ばし、仰向けにすると、その腹にナイフを突き立てた。
「!!」
ハーマクは、死ぬと自覚した。
嫌だ!嫌だ!嫌だ!
ハーマクは、体を引きずり逃げようとした。街道脇の高くなった丘に向かった。
きっとこのままでは、リーシアは殺されるか攫われる…助けを呼ばなくては…
朦朧とする中で、失い掛けた意識を手繰りながら動く腕を何とか動かした。
灰色の影たちは、ハーマクを置いてリーシアを追った。すぐに追いつかれるだろう。ハーマクは、不甲斐ないまま死んで行くであろう自分が歯痒く泣いた。
その頭上に大きな影が降りて来た。
それは、ハーマクの近くに降り立つと、ガァーガァーと鳴いた。
ハーマクの意識はそこで途切れた。




