「うるさい、うるさい!うるさい!」
リーシアは、膝に手をつき大きく体を揺する様に呼吸をした。上手く息が吸えず、詰まらせたり咳き込んだらして目を瞬かせた。
「っ…ハーマク…待って…」
たどたどしくも何とか声を振り絞って、先を行く幼馴染に声をかけた。
ハーマクは、しばらく気が付かなかったがようやくリーシアが止まっている事に気が付いて、振り返るとリーシアの元に引き返した。
「街にいたら見つかっちまう。もう少し頑張れ」
ハーマクの励ましの言葉も今のリーシアには、意地悪く聞こえて彼女を苛立たせた。
こんな事になっているのも、あの王子の所為だわ。
と、リーシアは、足を動かして地面を引きかいた。それは、彼女の苛立ちの矛先としての理不尽な論理だったが、行動のきっかけとしては彼女にとって真っ当なものだった。
ただ、現状の混乱を誘い婚約話をうやむやにしたかった。
ただそれだけだった。
汗で不快さを増す粗末な服を指で摘んで眉をひそめた。その目の前にハーマクの手のひらが差し出された。その手のひらは力仕事を長年やっている、所々皮の硬くなった手だった。リーシアよりもひとつ上なだけな彼だが、それだけ真面目にひたむきに幼い頃から仕事をしてきた証だった。
リーシアは、その手を取ろうとはしなかった。
「大丈夫よ」
と、強がって膝から手を離すと、息が整わぬまま歩き出しハーマクの横を通り抜けた。ハーマクは、そのリーシアの背中に聞こえぬ様に息を吐くと何も言わずに続いた。
リーシアは、昨晩は眠れぬ夜を過ごし、朝になると王の部屋の近くに様子を探りに行った。
既に室内に王の気配は無く、通りすがった侍従に尋ねると、何かあった様子で昨晩から執務室に籠ったままだという。
リーシアには、その心当たりが有ったが、表情には王への心配を表そうと努めた。
リーシアが、執務室付近に行くと、長兄のシルバが険しい面持ちで出て来た所だった。
「リーシア、こんな所で何をしている!」
思いもやらぬ強い口調でシルバは、リーシアに尋ねた。
「い、いえ、王が昨晩から執務室に籠りきりだとお聞きしましたので…」
リーシアは、自分で思っている以上に震えた声で、目も合わせられずにそう口にした。
「お前には関係のない事だ。部屋に戻りなさい」
シルバの重い圧力にリーシアは、体が強張り動く事ができなかった。
シルバは、そのまま苛立った歩調で去っていった。
リーシアは、その姿が見えなくなるのを見計らい、受けた緊張感に浅い呼吸になりながら王の執務室の扉をほんの少し隙間を開けて耳をすませた。
「…争に発展しかねない事態も予測されます。王、シルバ様をお止めください」
大臣のヤカメの声が聞こえた。
戦争って言った?
リーシアは、その言葉の意味をどう捉えていいのか分からなかった。
「…しかし、指輪さえ見つかれば、問題なかろう」
「それでも、疑いを掛けられた各国の名誉の為に、誰かの責任を問わねばなりません。もし、犯人が晩餐会の出席者であった場合、どうなさるおつもりですか?シルバ様の様子では、各国の王子や王女であっても、重い罰を与えかねません。そうなれば、この国への侵攻の口実となりましょう。また、身内の犯行となれば、死罪を下す可能性も…」
「身内が盗んだと言うのか、貴様は」
ヤカメの言葉にさすがの王も語気を強めた。
「申し訳ありません。ですが、シルバ様をお止めして、捜索や捜査は秘密裏に行うべきだと進言させていただきます」
「お前のいう事は分かった。だが、シルバを止める事が果たしてできるだろうか…ヤカメ、捜索や捜査の指揮を頼む。シルバには私から今一度話そう」
リーシアは、そっと扉を閉めた。その顔は蒼白だった。シルバのあの様子ならば、ヤカメの言う通り、身内であろうと容赦はしないだろう。リーシアの仕業と分かれば、協力させたハーマクも巻き込まれるに違いない。罪を問われてハーマクは、極刑となるだろう。
リーシアは、そのままハーマクの住む外庭端の小屋に向かった。
とにかく、ハーマクと一緒に逃げよう。
その時リーシアは、その事だけしか頭に浮かばなかった。
昨晩、王の指から抜き取った指輪は、ハーマクに隠させてある。もしそれが見つかれば大変なことになると、リーシアは慌てた。
「やっぱり、指輪をこっそり返しておけばよかったんだ」
ふらふらと先を行くリーシアにハーマクは、ボソリと言った。
「だって、見つかったらハーマクは、お兄様に殺されてしまうかも知れないのよ」
「リーシア様が説明してくれれば何とかなるさ」
リーシアは、言葉を詰まらせた。
「わたしが間違っているの?ハーマクだって手伝ってくれたじゃない」
「それは、リーシア様が無理矢理…」
「何よ!その言い方!」
リーシアは、口を尖らせてズンズンと足を踏み鳴らした。
「ちゃんと説明すれば分かって貰えんだろ」
「他人事だと思って!…嫌よ…説明したって分かって貰えないわ」
「だからって、このまま逃げてもしょうがない。行く場所だってねぇんだ」
「うるさい、うるさい!うるさい!」
拳をぎゅっと握りしめて吐き出す様に言った。
自分がした事が最善策だと思いたかった。それはハーマクも分かってくれると信じていた。それなのに否定ばかりされてリーシアは、泣きそうになるのを堪えていた。
それでも、感情を吐き出した事によってそのタガが外れて、リーシアは、しゃがみこんでしまった。
「もうヤダァ!」
リーシアは、膝を抱えて腕に顔を埋めて泣き出した。
それをハーマクは、どうして良いのか分からず、ただ近くに行って見ている事しかできなかった。
ハーマクは、頭をかきながら、腹が減ったなの口にしたら余計に油を注ぐ事を考えていた。
その二人を遠目に様子を伺う視線がある事に、二人は気付く事もなかった。
幾つもの色の光が差し込み、その場所は光に溢れていた。
ホール状になったその空間は、広く高い天井が特徴的だった。天井には、色ガラスが絵の形に嵌め込まれていて、聖者やそれを意味する模様を表している。光を表す黄色い十字とその周りに鳥の羽と花の模様がシンボリックに幾つものモチーフとして描かれていた。愛と自由をもたらす光を表すその模様がヘンネルース神聖教の象徴である事は、誰もが知っていた。
このルスカール大陸では、まだそれ程多くの人が信仰している宗教ではないが、隣のレーナルス大陸から来た人々を中心に少しずつ信仰を広げていた。殊にパンスティークでは、国教とも言える程その信仰を推奨している。
普段なら信者の数人は、整然と並べられた長椅子の思い思いの場所で、神と対話する為に祈りを捧げている時間だが、この時は席はがらんとして静かに灯された蝋燭の灯りが揺れているだけだった。
その正面の祭壇の前に一人だけ跪き祈りを捧げる者がいた。
金の刺繍が施された紫色の法衣を纏い、頭を下げて祈っていた。
丸い頭は髪の毛が無いが、その眉は彼の意思の強さを表しているかの様に太く白髪混じりである。
その右眉が歪む様に持ち上げられ、ギロリとした右目が開いた。その目の小さな瞳は、いつの間にか音もなく現れた影を纏った様な男に向けられていた。
「王の指輪が何者かに奪われた様です。犯人は不明」
法衣の男は動かずにそれを聞いていた。
「門が開かれる事は阻止せねばなるまい」
「犯人もその目的も不明ではありますが、王城は閉ざされました」
「犯人がまだ城内にいるとすれば…魔女の仕業か…」
「あり得ますが、それとは別に私の『目』が興味深い者を追っています。リーシア王女です。城門が閉される前に城外に出た様です」
「なるほど…」
法衣の男は、クククと笑った。
「何かを知っているはずです。目的は分かりませんが、状況的に指輪を所持している可能性も考えられましょう」
「任せる」
それだけ言うと法衣の男は、再び祈りに戻った。
「は」
影を纏った男は、口元に笑いを浮かべ消えた。




