「メルリ、魔法は?!」
サナエは、走った。
自分が今何処にいるのかなど、そもそも分からない。目の前の脅威から、とにかく離れなければと身体が動いた。本能が逃げよ足掻けと急き立てていた。
息が上がり、足の疲労がそれ以上の逃避を拒み始め、サナエは木に手を突き体を支えた。そうして、ようやく思考する為の血が巡った。
メルリは、何処に居るだろうか?
激しい鼓動の中で何とか思考を回す。
メルリの姿は、視界には無い。
獣の姿も見えない。
ひとまずサナエは、木の影に隠れて周りの様子を探った。
人の気配も獣の気配も無い様だった。どれくらい走ったかもよく分からない。メルリとは、どのくらい離れてしまったのだろうか。サナエの思考が冷静になる程、メルリの事が心配になった。
サナエは、自分の破れたスカートを見てあの時の事を思い出した。
手を取り合って逃げ出した二人は、とにかく走った。それでも背後から迫ってくる気配は早く、追い付かれるのは時間の問題の様に思えた。
「サナエ!もっと速く!」
メルリの手に力がこもって、グッとサナエの手を強く握った。
「メルリ、魔法は?!」
「そんな状況じゃ無いわ!発動する前に二人ともやられちゃうわ」
物理障壁を展開して、やり過ごしながら攻撃をすれば…
メルリも頭の中で対処法を考えていた。しかし、できる確証は無かった。メルリには、初めての危機であり、初めてのモンスターとの対峙だった。今は、足が動くだけましな状況だった。逃げる以上の打開策が見つからない。メルリは、悔しくて唇を噛んだ。こんなはずじゃ無かった。
「きゃっ!」
メルリの後ろで、サナエの声が聞こえたかと思ったら、繋いでいた手が引っ張られた。
「スカートがっ!」
サナエのスカートが木のささくれに引っ掛かってしまっていた。サナエは、混乱しながらもスカートを引っ張っているがどんどん食い込んでしまっている。
これでは、二人とも…
メルリは、サナエの手を離すと、
「ナイフでスカート切って!走って逃げて!」
そう言って、向かってくる獣の左側に動いた。
そして、落ちていた石を獣の方に力一杯投げた。
獣は一瞬怯んで動きを緩め、メルリを見た。その目に怒りが増したいる様に見えた。
サナエは、ナイフを抜きスカートを引き裂いて木から逃れた。
メルリの方を見ると、獣は追い詰めた事を悟ったのか、メルリの方にゆっくりと近付いていた。
ググググ…と、喉の奥を鳴らしてメルリを牽制して、剥き出しにした鋭い牙を見せて戦意を喪失させようとしている。
メルリは、真っ青な顔で体全体がガチガチと震えていた。それでも、眼は真っ直ぐに相手を見ていた。
これで、わたしは死んでしまうかも知れない…
メルリは、目の前に死を見ていた。
太腿を伝いふくらはぎを流れる生暖かいものにすら気付けないまま、目や鼻から流れるものもそのままに、迫り来る死の恐怖に何とか対峙していた。
「…サナエ!走って!」
メルリは、絞り出す様にそう叫んだ。
巻き込んだのはわたしだ。自分の都合でこの世界に呼び寄せて、巻き込んだのはわたしだ!わたしが守らなきゃ!
その気持ちが、何とかメルリを立たせていた。
獣は、メルリをその強靭な爪で捕らえられる距離まで近付いていた。
獣は、後ろ足で立ち上がると、その口から唾液を迸らせながら、目の前のメルリに向けて森に響き渡る程の唸り声を上げた。
そして、そのメルリの体以上の太さの前足を振り上げた。
「風よ我を守護する盾となれ」
「だぁめぇぇぇぇぇ!!」
その時、二つの声が二人の口から放たれた。
一つは、メルリが何とか口にした呪文。もう一つは、サナエの悲鳴の様な叫び声。
一つは、渦巻く風が起こり、振り下ろされた獣の爪を弾く様に退けた。
もう一つは、見えない力の塊となり獣の脇腹にぶつかった。獣は、突如襲い掛かった衝撃に不意を突かれて横に倒れた。
それを見ていた二人は、同じ様に目をしばたたかせた。
何が起きたか分からなかった。
メルリは、自分が何とか咄嗟に風の障壁を作った事は自覚があったが、その後の獣に起きた衝撃の意味が分からなかった。サナエもまた、目の前で何が起きたか分からなかった。
「助かったの、かな?」
サナエは、倒れた獣を遠巻きに見て、そう口にした。が、その認識は甘かった。
獣はよろりと起き上がり、サナエを睨みつけた。
その獣の脇腹が抉られて、血が滴っているのが見えた。
サナエを捉えた獣の目は、その血の様に血走っていた。
まずい、絶対さっきより怒ってる。
サナエは、自分に向かって動き出した獣が、自分を標的にした事に気付いた。
サナエは、もう逃げるしか無いと悟り走り出した。
こうなったら、こいつをメルリからなるべく遠ざけるんだ!
サナエは、目一杯の速度で走った。
はぐれてしまったメルリの身の安全を願いながらサナエは、木にもたれ掛かって座った。
バクバクと鼓動する心臓の音が、まだ耳のすぐそばで聞こえた。少し上を向き喉を開き、一杯空気を取り入れられる様に呼吸した。緊張が少し和らいだが、気は抜けなかった。あの獣は、まだサナエを探しているかも知れないし、サナエを見失いメルリを標的にしているかも知れない。
まだ落ち着かない呼吸のまま、木に寄り掛かりながら立ち上がると、自分が走って来たであろう方向を見た。
疲労でフラつく身体を引き摺り、サナエは歩き出した。
メルリが危険な状態だったなら助けなくちゃ。助ける力は無いけれど、とにかく合流しよう。
と、サナエは考えた。
獣が、二人どちらも諦めて何処かに行ってしまっていれば良い。
サナエは、近くに獣が潜んでいないか警戒しながら歩いた。
ガサッ
視界の右奥の方で何かが動く音が聞こえた。
サナエは、ビクッと身体を強張らせた。そちらを伺い目を凝らすが、獣の姿は無かった。
ガササッ
何かが居るのだろう。目の前の大きな岩の横の草が揺れるのが見えた。
危険があるかも知れないが、サナエは意を決してそこに近付いて行った。
森の中に横たわる岩の近くまで来ると、草は揺れて居なかった。それでもサナエは、岩の周りに生えた高い草をかき分けて調べてみた。すると、それは居た。
真っ白な綿毛にほんの少しエメラルドグリーンの混ざったふわふわしたそれがそこに居た。不安そうな緑がかった目が、サナエの様子を伺いながら頼りない唸り声を上げていた。よく見ると、ふわふわの一部が赤く濡れている。
「怪我をしているの?」
言葉など通じないのは分かっているが、サナエは声を掛けた。
そっと伸ばすサナエの手に小さな牙を剥き出しにして、威嚇している。
もしかしたら、さっきの奴にやられたのかも。
サナエは、そう思った。そして、助けなきゃ。と、考えた。
しかし、警戒が強くきっとこれ以上手を出したら噛まれてしまうだろう。
「大丈夫だよ。落ち着いて。貴方を助けたいの」
何故か分からなかったが、サナエは怪我をして苦しんでいるこの動物を放って置けなかった。
「お願い、大人しくして」
サナエが声を掛けると、次第に小動物は唸り声を止め牙も収めた。
サナエは、両手で傷のであろう所を避けて抱き上げた。綿毛の様な身体から伸びる長めの尻尾が緊張で丸くなっているのが分かった。
「どうしょう」
サナエは、少し考えて持っていた大きめの布で包むと、肩に掛けていた皮袋の中に入れた。
「傷が痛むかも知れないけど、ここでしばらく我慢してね」
そう言って、再び歩き出した。
メルリもサナエを探して歩いていた。
あの後、サナエを追ったあの獣が倒れたのを見た。しかし、遠目からもまだ息があるのが分かった。脇腹のダメージと失血で上手く動けない様だったが、怒りの呼吸と気配は消えてはいない。少ししたら動き出すかも知れなかった。
メルリは、この場から離れる事を選択した。サナエを追って合流して森を出ようと考え始めていた。この場を逃げる事に悔しさはあった。自分が気持ちも準備も足りなかった事を実感した。しかし、同時に希望も見えた。
あのサナエの放った力だ。魔法とも魔術とも言い切れない力の塊がサナエから放たれたのは間違い無かった。
何の術式も構築も介さない純粋なサナエの力だ。
凄い!
メルリは、唯純粋にそう思った。
そのサナエを探さなければ。メルリは、サナエと合流する事を考えて、獣から離れて大回りでサナエの行った方向に向かっていった。
その途中にそれを見つけた。
森の中に盛り上がった地面があり、人工物が崩れた残骸がその周囲に転がっていた。
その多くが散らばる残骸の中に真っ暗な口が開いている。
これは、魔鉱窟。魔獣の巣窟だ。
メルリは、その入り口であると確信した。あの獣はここから這い出して来たのだろう。
メルリは、その穴を調べたかったが、嫌な予感がしてそれを中断した。そして、穴の入口に散らばる残骸と大木の影に隠れて辺りを探った。
ゾクリ。
メルリの身体が、危険を感じた。
メルリの耳に微かにあの唸り声が聞こえた。