「冒険って危険が付き物でしょ」
ロレンソ川。
王都ナッサヘルクの東側の防壁を貫いて流れる川幅、百ヘンテ(百メートル)の川である。南東のスナポッロ山脈に源流を持つナッサヘルクの東側を流れる川の一つである。
川は、都市内を進み職人街を通り、リゾン湖に流れ出る。市民の生活用水や工業用水として利用されている。都市には、それともう一本、北から流れるシャネス川が有りその川は北側の防壁を抜け、同じく職人街を流れている。
そのロレンソ川を約四グヘン半(四キロ半)遡って行くとその先は森が広がっている。
その森をロランシアの森と呼んでいる。森を母、川を息子として、この土地の者は親しみと敬意を持って暮らしている。森と川の恵みは、内陸のこの地には欠かせない物なのだ。
ロランシアの森は、広大でスナポッロ山脈の裾まで広がっている。その中には幾つかの魔獣の巣窟が点在している。冒険者か頻繁に出入りするものから、千年近く放置された物も有り、また、人の手の入った事のない場所もあり、総じて魔鉱窟とも言われている。この森は、奥へ入れば入る程、森自体が大規模な魔獣の巣窟と言えなくもないのだ。その為、森の中には三箇所の駐屯基地が置かれており、森の安全を維持している。とは言え、森の最深部は、未踏の地であり調査も未だ進んではいない。
「ここから森に入るわ」
メルリは、緊張感の有る声でサナエに言った。
二人の目の前には、大きな森が深く広がっていた。二人の目にしている森の切れ目には、二人の手の長さでも回し切れる程度の木ばかりでは有るが、きっと奥には、二人が手を繋いでも回し切れない程の大木が数え切れぬ程ある事が想像できた。
サナエは、ゴクリと唾を飲んだ。
職人街でノマトに近付くなと言われた場所だ。そして、メルリの目的地はきっとこの中なのだ。
「何があるの?」
サナエは、恐る恐る尋ねた。
「分からないわ」
メルリは、真面目な顔でそう答えた。
「何しに行くの?」
「決まっているわ。冒険よ」
「絶対危ないよね。職人のおじさんも近付くなって言ってたし…」
サナエは、声を震わせながらメルリの方を見た。メルリの目は、真っ直ぐに森の中を見つめていた。サナエは、その目が期待に輝いている様に見えた。
「だからこそ行くのよ!」
やっぱり。と、サナエは涙目になった。
「ここからが、わたしたちの冒険の始まりよ!伝説が今動き出すのだわ!」
「でも、でも、危ない目に遭うかも知れないし、怪我でもしちゃったらそれこそ…」
サナエには、嫌な予感しかしなかった。森はどう見ても深いし、歩くだけで怪我をしそうだし、迷子になって出られなくなるかも知れない。何が起きても不思議ではないのだ。
「臆する事はないわ!わたしには魔法だってあるのよ!本当に怖い目に遭ったら逃げれば良いのよ!」
そう言って、メルリは森の中に一歩踏み入れた。
先を進み始めたメルリの後をサナエは仕方なく付いていった。
その手には、鞘に収められたナイフが握られていた。それは、森の近くの東家で昼食休憩をしている時にメルリに渡された物だった。
「ここから先は、何が起こるか分からないから護身用に持っていて」
メルリはそう言ったが、ナイフなど扱ったことの無いサナエは、それを持つだけで怖かった。
それでも今は、何かあったらこれでメルリを守らなければとナイフを持つ手に力が入った。
「そう言えば」
と、先を行っていたメルリが速度を落としてサナエの側にきた。
「サナエは、いくつなの?」
「?…どうなのかな?メルリよりも少し背も高いし…」
ぼそりと言ったサナエにメルリは、不機嫌な顔をした。
背の事を気にしているのかな?と、サナエはその表情から感じて、この話題は避けようかと考えた。
「わたしが、十三歳だから、一つか二つ年上かしら。わたしよりも背が高いしね。胸だってわたしよりもすこーし成長してるみたいだし」
メルリは、そう言って頬を膨らませた。
「変なこと言わないでよ」
サナエは、顔を赤くしてナイフを持った手を上げて胸元を隠した。
「でも、リリーナさんが十六歳だって言っていたから、それよりも下?かな?わたしの記憶が全部戻れば分かる事なんだけど…でも…」
サナエには、不安があった。本当にこの姿は自分なのだろうかと。
「?でも?」
メルリは、サナエの表情が曇った事に気づいて聞き返した。
「何でも無い…それよりも、どこまで行くの?」
「この森の奥には、魔獣が出るの。ノマトも言ってたでしょ」
「え?」
サナエは耳を疑った。魔獣が出るのを承知で来たと言うメルリの言葉を。
「冒険って危険が付き物でしょ」
「だからって、自分から近付くのは良く無いと思うよ」
「大丈夫よ、よっぽど奥に行かなければ凶悪な魔獣なんて、出る事はないわ。森には警備の兵士が三部隊も配置されていて常に警戒しているもの。わたしとしては、少しくらい危険な奴も見てみたいものだわ。それに、わたしは何度も来ているけど遭遇した事は無いの」
メルリは、笑ってそう言ったが、サナエは怖くなって辺りを見回した。ちょっとした物音も警戒しなくてはとビクビクした。
「…帰ろう」
サナエは、やっぱり引き返すべきだと思った。
「何を言っているの!冒険は始まったばかりよ!」
メルリは、再び速度を上げて歩き出した。
考えてみれば少し休憩を挟んだだけで、もう長い事歩き続けている。それなのにこの王女様は、疲れを知らないかの様に元気だ。と、サナエはため息をついて、彼女に付いて行くしかないのだろうと覚悟を決めた。
二人は、大分森を進んでいたが特に何も起こらず、サナエの緊張感も薄れていた。
それでも、この子はどこまで行くつもりなのだろうとメルリの背中を見ていた。
「わたしは、やっぱりレリアの焼く蜂蜜入りのカップケーキが好き。レモンピールのクッキーも捨てがたいけど、やっぱり、あれは最高ね」
メルリは、拾った木の枝をタクトがわりに鼻歌を歌いながら、お茶には何が合うか語っていた。
「サナエは、何が美味しかった?」
「チーズタルト、かな?」
「分かる!あれも美味しいわ!知っている?チーズタルトに隠し味で、蜜柑の皮を擦ったものを入れているのよ」
そう言って、くるりとサナエの方を見た。
「だからあんなに後味が爽やかなんだ」
サナエは、今度ちゃんと教えて貰おうと考えた。石室から出てから、それ程経って無いが食べた物の味はどれも美味しく、特にスティルルームメイドのレリアのお菓子は絶品だと感じていた。だから、メルリの言う様な冒険よりも料理やお菓子作りや刺繍の方が興味が湧いていた。
「わわっ!」
サナエの方を見ながら後ろ向きに歩いていたメルリが、木の根につまづき、尻餅をつく様に倒れた。
「いたたた…あはは…」
と、倒れた事にびっくりしてメルリは、笑ってしまった。
「大丈夫?」
サナエもメルリの様子に釣られ笑いながら、メルリに手を差し出した。
「もーびっくりした」
そう言ってメルリは、サナエの手を掴んだ。
その時、サナエの耳に何かが聞こえた。
地面を響かせる様な唸り声が。
「サナエ?引っ張ってよ」
一向に立たせてくれないサナエにメルリは、声を掛けたがサナエはメルリを見ては居なかった。メルリの頭の向こう側に視線を向けたまま、真っ青な顔で固まっていた。
「サナエ?」
グルルルルル……
メルリの耳にもその音が聞こえた。
メルリは、恐る恐る首を曲げてそちらを見た。
五、六ヘンテ(五、六メートル)先にそれは居た。
茶黒い獣毛に灰色の斑の模様の入った大きな獣だった。
その血に飢えた様な鋭い眼は、二人の姿を捉えている様だった。獲物を捕らえようと体躯に力がみなぎり、首から肩の毛が逆立ち身体が大きく膨らんで見えた。それがほぼ筋肉で、その腕の一撃で二人の様な少女の身体など引き裂かれるのは必至だと理解した。
「に、に、ににに、逃げるわよ」
流石の強気を見せていたメルリもすぐさま立ち上がり、サナエの手を引っ張って走り出した。
獣もまた、二人の後を追って走り出した。