「お母ちゃん!」
エルシエッタは、目の前の炎に立ち尽くした。
まただ…
身体の奥底から湧き上がって来る恐怖と悲しみに身体が震えるのが分かった。黒い何かが身体の奥から湧き上がり、這う蟲の様にエルシエッタの身体を侵食していく。それは彼女だけに見える絶望の蟲だった。身体を這う多足の感触が身体の表面と内面に同時に湧き起こり、エルシエッタは、体内のものを全て吐き出そうとする嘔吐に襲われた。
両腕で自らを抱きしめて、震えと吐き気を抑えようとするが、反発する様にそれは強くなるばかりだった。音と光が彼女の感覚から遠ざかっていく。
寄り添うロングは、その少し硬めの体毛でエルシエッタを温めようと身体を寄せるが、彼女にはそれも届いていなかった。
吐き気と寒気と不快感に上体を曲げて身体を縮めた。平行感覚も曖昧に、彼女の身体はグラグラと揺れた。その口元や目や鼻から、水分が流れ出た。自律神経を狂わせる程の負荷が彼女を襲っていた。唇を伝って流れた粘度の高い唾液が、ゆっくりと地面を目指して一筋の糸の様に伸びていった。
指先に力を入れて、飲まれまいと必死で耐えるエルシエッタだったが、自らの力では顔を上げることはできなかった。
今、エルシエッタの目の前で、ルイカたちの住む村が燃えていた。
十年前。
エルシエッタの生まれた村、ジロッカ村では、冬支度に向けて、狩りが盛んに行われていた。
ジロッカ村は、メッサ王国の南東部のヴァンティーユ連峰、その西側のゼネットラフト山の中腹にあった。村の周囲は岩ばかりで生活するには不便の多い土地だったが、数千年前には、この山を中心とした王国も存在していた。その生き残りとして、この地を守って生きてきたヴァンナットの民の村であった。
ヴァンナットは、山岳信仰の民で、ゼネットラフト山を神の山と崇め、その王国の中心があったのが、ジロッカ村より上方にある石造の神殿であった。今では、雨風の浸食や経年により、幾つかの柱跡と彫刻の残骸があるだけではあるが、ジロッカ村の人々には離れがたい場所なのだ。
水も食料も下方の森に入らなければ手に入らない為、やもなく森に近い場所に村を作って暮らしている。それでも、冬になれば、岩肌の山を雪が覆い風が凍らせ、ジロッカ村は雪に閉ざされてしまう。そうなる前に冬越えの準備をしなくてはならないのだ。
エルシエッタの父親も使役している魔獣のジンナを連れて森深くに仲間と居る事が多い時期である。その上、大人の女性も近くの村で肉や皮を野菜や穀物と交換するために出払っている為、日中、村に残って居たのは、老人や子どもばかりであった。
エルシエッタは、森に入るのが好きな子どもで、村で遊ぶよりも森にいた。その為、父親が常にランナを側に置いていた。
「ランナ!そっち!」
その日も森に入り、エルシエッタは、ランナとともに兎狩りをしていた。
まだ六歳のエルシエッタだったが、村から一グヘン(約一キロ)程離れたこの森には何度も入っており、勝手知った庭の様な場所であった。
以前父親に連れられて来た沢の周辺が彼女の狩場で、そこから離れるとランナが引き止めて連れ戻す為、その範囲は限定されていた。
エルシエッタは、兎皮で作った靴を履き、身体に合った短い槍を振り回して森を駆けていた。見つけた兎をバタバタと追い立てるものだから、すぐに兎は逃げてしまい追い付くことなど無理に思えた。しかし、そこはランナが上手くエルシエッタの目の前に兎が逃げる様に巧みに動き、まるで我が子に狩りを教える様に立ち回る為、エルシエッタの槍の腕次第の状況が幾度も訪れる。それでも槍は空ばかりを突き刺していた。そもそも、兎を槍で仕留めようとするのが無謀ではあった。それでも、罠や弓の扱いがまだ上手くできないエルシエッタは、今の方法が可能性があると考えていた。
結局、ランナが噛み付いて弱らせた兎を、エルシエッタがとどめを刺す事でエルシエッタの狩遊びは成立していた。それでも、この山の森で狩りをして生きるヴァンナットの民として、多くの事をエルシエッタは、学び取っていた。
森を駆け回り疲れて、沢で喉を潤して一息つくと、エルシエッタは、急に母親が恋しくなり村へ戻ろうと考えた。今日は、近隣の村に出掛けていた女性たちが帰って来るはずだった。それに、エルシエッタがランナと狩った兎は三羽になっていた。その達成感もエルシエッタを村に戻る事をせかした。日も傾き始めており、腹も空いていた。狩りに夢中になり、森で見つけた小さな果実しか口にしていなかった事をエルシエッタは、思い出した。
「お腹すいた!」
エルシエッタは、おもむろにそう叫ぶと村の方へと歩き出した。
森を抜けた所で、山の風が変わった。
横薙ぎの風が一変して山から吹き下ろす風に変わった。
「!?」
エルシエッタは、その風に嗅いだ事の無い臭いが運ばれているのに気が付いた。正確には、嗅いだ事はある匂いだが、その匂いに混じって不穏な匂いが混ざっていた。
何かが、燃える匂い。焦げて崩れる匂い。吐き気を催す不快で悲しい匂い。
それが、人の生活が燃える匂い、そして、人の髪や脂や肉の燃える匂いだとは知る由も無かった。
風が運んできたのは、村が焼かれる匂いだった。
まだ村まで遠いが、知らぬ男たちの怒号と狂気の叫びと知っているはずの、だが聞いたことの無い苦しみと怒りと悲しみの叫びが、風に乗ってエルシエッタに届けられた。
そこに危険があるとすぐに察したのはランナだった。
エルシエッタの服を軽く噛み森に引き戻そうとした。
だが、エルシエッタは、それを振り払い走り出した。
エルシエッタが村の入り口に辿り着いた時、村のあらゆる所から火の手が上がり、熱風が彼女を襲った。村の家は、石造りではあったが、冬支度のための大量の薪をそれぞれの家が準備していた為、火を放たれた家は、内外から火に包まれていた。その火の海の中を馬に乗った黒いローブの様なものを纏った十数人の男たちが死霊の様に村を駆けていた。
その様子から、ほとんどの村人は抵抗する間も無く家に放たれた炎に焼かれた様である。数人の火を免れた者たちは、農具などで抵抗したが、馬上からの槍や剣の攻撃には太刀打ちできなかった様だ。村を守っていた犬種の魔獣も、大鳥の魔獣も、熊種の魔獣も、殺されて所々に転がされている。そして、エルシエッタの目の前にも血を流し倒れている隣人の女性の遺体が見えた。
エルシエッタは、恐怖で足がすくんだが、自分の家の事が気になって、馬の上の男たちに気付かれない様に小さくなって進んだ。ランナは、警戒しながらもエルシエッタを気遣う様に後に続いた。
エルシエッタの家は、山側の少し高い場所に有り、階段状になった道まで来れば身を隠す壁があった。
何かを探す様に村内を動く馬上の男たちは、エルシエッタの動きに気付かず、何とか彼女は家の前まで辿り着くことができた。
お母ちゃん。
エルシエッタの家も火が放たれて、燃えていた。もうほとんど火は家を焼き尽くし、壁は煤で真っ黒くなり、入り口があった場所は、扉が焼け落ちて中から炎の舌がチロチロと大蛇の口の様にエルシエッタを威嚇した。
その周囲に黒ローブは、居ない様だった。
エルシエッタは、恐る恐る自分の家に近付いて行った。
窓と言う窓の鎧戸が燃え、そこから黒い煙が漏れ出している。
エルシエッタは、恐怖と悲しみと不安にグズグズと、涙を流しながらも声を殺して、辺りを探った。
裏手に回ろうとすると、ごそりと音が聞こえた。
エルシエッタは、ビクリとしてそちらを見た。
焦げて真っ黒くなった何かが、家の裏手で崩れた。
「お母ちゃん!」
エルシエッタは、驚きと心配で思わず声を上げてしまった。
それは、焼け焦げた服のエルシエッタの母親だった。全身のほとんどに火傷を負いながら、何とか這い出して来たのだろう。息はもう尽きかけていた。
焼け爛れた顔の残った左目で我が子を見つけると、苦しみと死に歪みながらも、一目見る事ができた事に涙を僅かに滲ませた。
エルシエッタは、その惨たらしい母親の姿に母親だと分かりながらも恐怖し、悲鳴を上げた。足腰が立たず、尻を突いて座り込み、しかし、母親であるものから遠ざかろうと足は体を押した。エルシエッタは、手で顔を覆い爪を立てる勢いでその手に力が入った。体がブルブルと震え、呼吸がうまく吸えないまま加速していく。何も見えない目は大きく見開かれて、あらゆる粘膜から水分が流れ出した。
理解できない現実が彼女に襲い掛かり、何も分からぬまま彼女の心を闇の中に引き摺り込もうとしていた。
「生き残りがいたぞ!」
エルシエッタの背後で、太く汚い男の声が響いた。
呆気なく終わってしまった殺戮の憂さを晴らそうとする残虐に満ちた喜びの雄叫びの様にエルシエッタには聞こえた。
男の乗る馬の蹄が山の岩の地面を叩く音がエルシエッタに近付いて来ていた。




