「お待たせ!」
エルシエッタの住んでいる納屋の様な家でルイカとトッツは、外に作られたかまどに火を入れるとお湯を沸かした。
村から持ってきたパンと塩漬け肉をその脇で炙り、皿に並べた。
その肉は、エルシエッタが森の奥に入り狩って来た鹿肉だった。エルシエッタがこの森に降りて暮らし始めてから、狩って来た獣の肉を村に持って行き、金や物を得て生活している。エルシエッタが村に住まないのは、魔獣であるロングと一緒に暮らしている事が大きかった。が、そこが自分の居場所に思えなかったからだった。それでも、村に出入りして居る事で交流があり、村の人間にエルシエッタの顔も知られている。多くの村人は、エルシエッタの明るい性格もあり、好意的に受け入れていた。ルイカたちの両親もエルシエッタの事を娘の様に思って居る節があった。
エルシエッタが森に降りて来たのは八年前の事だった。
村が無くなり、しばらくは父親の使役していた魔獣と暮らしていた。ランナは、エルシエッタの父親が使役していた赤毛狼の一頭で、人懐っこく優しい性格の狼だった。もう一頭は、ジンナでかなり警戒心が強い雄で森に降りる事は無かった。ジンナは、村が襲われた際に後ろ足に毒の矢を喰らい、自ら噛み切り一命を取り留めていた。その所為もあり、動き回る事ができ無いのも山を降りない理由の一つだ。
まだ当時七、八歳の少女は、それでも人恋しくて、山から村を見下ろしては亡くなった両親を思い泣いていた。そんな折、森を彷徨う四歳の童女を発見して、村まで送り届けた。それが、ルイカだった。
当時、トッツが生まれたばかりで、両親ともに弟に付きっきり人間なり、両親の特に母親の愛情を失ったと感じた喪失感と失望に家を出たものの、自分がどこに居るのかすら分からなくなって、不安に泣き伏して居るところに、森で狩をしていたエルシエッタが鉢合わせたのだ。見つけたのは、ランナだった。
その子どもを見てエルシエッタは、森の側のあの村の子どもだと察した。
村から離れてしまい心細くて泣いているその童女の気持ちにエルシエッタは、強い共感を覚えた。童女の村へ、その子を連れて行く事を考えたが、それはエルシエッタに抵抗を感じさせた。
森の小高くなった場所に身を潜めながら童女の様子をエルシエッタは見ていた。泣き止んで自らの足で村の方へ歩き出す事をエルシエッタは願った。しかし、童女が泣き止む気配も歩き出す様子もいつまで経っても見られなかった。
木の下で泣きじゃくる小さな女の子にエルシエッタは、どうするべきが判断する事が出来ずにいた。エルシエッタの隣に居るランナは、女の子を見ながらチラチラとエルシエッタを伺うように見た。エルシエッタにとってランナは一人になってからの相棒でもあったが、その優しい性質に守られて来たエルシエッタにとって、ランナの意見は大きかった。そのランナが女の子を心配している。しかし、村と関わる事で何が起こるのか想像もつかなく、軽度の人間不信もエルシエッタにあり、葛藤に煩悶した。
と、ランナに緊張が走った。
鼻をヒクつかせ、耳がピンと辺りを探った。微かに漂い始めた不快で危険な匂いにランナは牙を剥き出しに低く唸りを上げた。
ランナに遅れて、エルシエッタもその気配を感じた。ランナとは違う微かな獣臭と乱れた魔素の動きを森の中に感じた。ランナの様に人と生活して、魔素による契約を済ませた魔獣は、契約者の魔素と同調することによって、その流れが穏やかになり淀みも無くなる傾向がある。が、そうで無い魔獣は、乱れ荒れている事が多い。
それが近付いて来るのをエルシエッタは、視覚で確認した。
「山虎…」
遠目だが、体高が大人の男性程もある大きな虎だった。こちらに気付いているはずだが、その素振りも見せずに童女の方へと近付いていた。まだ距離はあるが、山虎が、彼女を獲物として狙っているのであれば、もう逃げられる距離では無かった。山虎は、巨体ではあるがその脚力は凄まじく、子どもの脚ではすぐに追いつかれてしまうだろう。
この時点で、童女の運命は絶望的なのは明確だとエルシエッタは知っていた。
だが、助けに入る事で、童女の命が助かる可能性も少なかった。エルシエッタに山虎を出し抜く能力も無く、ランナが山虎に勝てるとも思えなかった。ランナも大きな狼とは言え、体の大きさは半分も無い。
しかし、ランナは見過ごす気など無い様だった。落ち着かない様子で足踏みをしては、エルシエッタを見たり、鼻先でエルシエッタの身体を押したりして、決断を迫った。
鼻を鳴らす様な声を出したり、童女をじっと見て一二歩前に出てみたりしてランナは自分の意思を示した。
「分かった。…でも…」
視界の先で、山虎が前足を顔の前について、身を屈ませるのが見えた。ジリジリと童女の方にそのまま近付いて行く。今にも飛びかかる時を窺っていた。
もう!なる様になれ!
エルシエッタは、心の中で叫ぶとランナの背中をポンと叩いて飛び出して、坂を勢い任せに走った。
「あああああああああ!!」
なるべく大きく声を出して、山虎を威嚇しようとエルシエッタは、叫びながら坂を下った。その走る振動が声を震わせて小刻みな「あ」になっていた。
エルシエッタは、さらに手に持った槍を大きく振りながら身体を大きく見せようとした。だが、それは失敗だった。
振った槍が太い木の枝に引っかかってしまい、上半身が持っていかれた。が、坂の所為で足は止まらず進み、エルシエッタの身体は仰向けにバランスを崩して、童女の元に辿り着く前に枯葉の敷き詰められた地面に背中から倒れた。
「いっ痛っ!」
枯葉の下に木の根があったらしく、そこに頭をぶつけてエルシエッタは、目を白黒させた。もし、枯葉が無かったら後頭部をパックリ割っていたかも知れない。
エルシエッタは、ぶつけた後頭部を手で押さえながら、ゴロゴロと転げた。
その一連のエルシエッタの動きが、ある意味功を奏したと言えた。
その大声と派手な動きが、山虎の気を引き、警戒させた。その事で、童女に向けての攻撃体制が崩れた。だが、その意識を引きすぎた事で、標的がエルシエッタに向いてしまった事は、絶望的な誤算だった。それも、エルシエッタは、倒れて痛みに悶えている。
攻撃体制を解いたとは言え、行動を起こそうとしていた山虎の筋肉は、すぐに行動意識に反応して、エルシエッタと言う新たな標的に向かい身体を動かした。エルシエッタがその事に気付いた時には、その視界が山虎で埋め尽くされるほど近くに居た。エルシエッタの視界の中で、その牙から迸る唾液がキラキラと木漏れ日に光るのが見えた。
あ、死んだな。
エルシエッタは、その光景にいやに冷静にそんな感想を持った。
が、その死は訪れなかった。
「ガゥグゥルル!」
エルシエッタにまさに襲い掛からんとする山虎の懐に入り込んでいたランナが、その喉元に全体重をかけて喰らい付き、エルシエッタから退けた。
山虎も意表を突かれ、体制を崩して、エルシエッタの左側に倒れ込んだ。そのままもつれながらも、ランナの牙を外そうと山虎は、身体を捻った。が、ランナの牙は深く食い込み外れなかった。山虎は、口から泡を吹きながらその太い前足の爪を立ててランナの身体を引き裂こうとした。その前足の力は強く、勢いこそないがランナの皮膚を引き裂くのには十分な働きをした。だが、それでも牙を離そうとしなかった。自分の子どもの様に思っているエルシエッタの元に行かせないと言う意思が強く働いていた。
ランナが、山虎と死闘を繰り広げている中、エルシエッタは、立ち上がり童女の元へと駆け寄った。童女は、目の前で繰り広げられている余りの事に涙は止まっていたが激しい呼吸をしたまま固まっていた。
「逃げるよ!」
エルシエッタは、それでも構わず童女の腕を強引に引っ張ると走り出した。
早く安全な場所まで逃げないとランナが殺されちゃう。
エルシエッタたちの安全が確保されない限り、ランナは二人を守るために立ち向かう事がエルシエッタには分かっていた。だから、ランナをこの場に残して逃げるのはランナの為だと、エルシエッタは唇を噛んで耐えた。
「ギャンッ!」
ランナの悲鳴が聞こえて、エルシエッタは堪らず振り返った。山虎の前足の執拗な攻撃にとうとう引き剥がされてしまったのだ。しかし、ランナの牙は、山虎の首元の皮膚をごっそりと引き剥がしていた。それでも、命には届いてはいなかった。寧ろランナの背中に付けられた爪痕が幾度も切りつけられて、その深さを増して深刻な傷となっていた。
ランナも堪らず、グラリとよろけた。
そこにすかさず山虎が、追い討ちをかけようとした。
「ランナ!!」
エルシエッタは、思わず声を上げた。
自分が判断した事で大事な相棒が命を落とす事に恐怖した。もっと早く決断していれば、もっと対処法があったのだと後悔した。
と、山虎の動きが止まった。
何かに気付き、辺りを見回した。
そこに、遠吠えが聞こえた。
雄々しく森全体に響き渡る様な強い意思を持った声だった。
ランナがすぐさまそれに応えて声を上げた。
「ジンナ!!」
エルシエッタには、その声の主がすぐに分かった。
ジンナは、山の方から現れた。足りない脚では早く走らない為、身体を跳ねらせる様にこちらに近付いて来る。
山虎は、警戒をそちらに向けた。そして、襲い掛からんと走り出した。
一方、ジンナは、落ち着いた様子で座ると、迫り来る山虎を睨め付けた。
ジンナの全身の毛が逆立つのが分かった。少し空いた口に牙が光っている。そして、その深く黒い目が光った様に見えた。
エルシエッタには、ジンナの魔素が渦巻き高ぶるのが分かった。
ジンナの目の前に焔の矢が幾つも現出した。それが迫り来る山虎に向かい飛び出して行った。
山虎は、目の前が紅く染まるのを見て一瞬怯んだ。が、遅かった。焔の矢は、山虎の身体に全て突き刺さった。突き刺さっても焔は消えず、寧ろその火力を増して、山虎の身体を内側から焼き尽くした。
ジンナの身体がグラリと揺れた。魔素を使った事で、その反動の疲労が一気に襲って来た。そのジンナの身体をランナが傷付いた身体を引きずって近寄り、支えた。そのランナの身体の傷をジンナが優しく舐めた。
エルシエッタは、ほっと息を吐くと、二頭に手を振った。
「待っててね!この子届けたらすぐに迎えに来るから!」
ジンナは、早く行ってこいと言う様な目でエルシエッタを見ていた。
エルシエッタは、無事にルイカを村に届ける事ができた。森から聞こえた狼の遠吠えに、ルイカの両親は生きた心地がせずに娘を探して居た。エルシエッタが現れるのが遅かったら、村の男たちが隊を組んで森に捜索に行くところだった。ルイカの両親や村の人々に感謝され、夕食の誘いを受けたが、ランナたちの事が気になったエルシエッタは、すぐに戻る為それを断った。
「また会える?」
と、エルシエッタの服の裾を掴んだルイカの手にエルシエッタは、行動して良かったと心から思った。
「お待たせ!」
ルイカとトッツが昼食の準備をすっかり終えて待ちくたびれているところにエルシエッタがニッコリと笑って現れた。
「エルシィ遅いよ!待ちくたびれたんだからね!」
と、十三歳になったルイカが頬を膨らませて不満を漏らした。
「ごめんごめん。お腹すいたぁー」
エルシエッタは、大袈裟にそう言うとルイカの手を取って、その手の感触を確かめる様に触った。
「な、何すんのよ」
ルイカは、文句を言いながらも悪い気がしない顔で照れて顔を背けた。
「ルイカのおかげで、美味しいご飯が食べれるから、感謝だよ!」
そう言って、エルシエッタは、両手を上げて大きく笑った。




