「ごめんね。ミランナ。ごめんね‥‥」
サナエは、見た。
突如吹き荒れた風が子どもたちが入れられて居るそれぞれの檻の天井部分を吹き飛ばすのを。
サナエは、熱さを感じ自分の頬を触った。頬から血が流れていた。その痛みは薄く、触った事で生じた痛みからも皮膚を薄く切った程度の傷だと分かった。その頬は水に濡れていた。
水?
強く吹いた風の中に水が含まれていたのだろうかと、サナエは思った。
複数のガダンという鉄の塊が石の床にぶつかる音の轟音がその部屋に響いた。
子どもたちは、恐怖していた。いや、ただ硬直していた。
長時間暗闇にいた事で、突如として差し込んだ光に視力は悲鳴を上げて、何も捉えることはできなかった。その上、風が吹き轟音が襲った。その全てが子どもたちの感覚と状況把握の許容量を凌駕し、身体への信号を麻痺させた。忘我を超えて忘全の状態だった。
その中で、唯一それに目を向けていたのは、サナエだった。驚異的な回復で視界が戻り、逆光に立つその者を目を細めて見た。その逆光の所為なのかそれは背の高い黒衣の姿に見えた。
「器は、何処だ」
轟音の耳鳴りが残る中、その黒衣の者の発した言葉が聞こえた。低く感情の薄い声。
そして、黒衣の者は、ゆっくりと歩き出した。
破壊した檻の間を歩き、その一つの前で止まった。
「器か?」
黒衣の者が、その檻だった物の中にうずくまり手で顔を覆っている幼い少女に短く尋ねた。
「……」
少女は、答えられるはずもなく、次第に戻りつつある視力で黒衣を恐る恐る顔を上げずに目を上げて見た。
まるで漆黒を纏って居るかのような姿は、少女を怯えさせるには十分すぎた。
黒衣の者が手を伸ばして、その少女、ポランナの腕を掴み持ち上げた。
「だ、駄目!」
その光景にサナエは、声を上げた。
黒衣の者がポランナを掴み上げたままギロリとサナエを見た。
サナエは、怖けながらも立ち上がり睨み返した。
黒衣の者から感じられる底の見えない何かが、サナエの体を芯から震えさせた。しかし、それとは別に熱い怒りにも似た塊をサナエは自分の鳩尾の奥に感じた。
黒衣の者に掴み上げられたポランナは、力無く身体をダラリとさせていたが、その表情は恐怖で固まり、涙と鼻水が流れ、足の先からは失禁して流れた尿が垂れ落ちていた。
「やめて!離して!」
サナエは、黒衣の者に二歩三歩近付いて、それでも届かぬポランナに手を伸ばした。
「紛い物の近くに居て、この魔素量。これが器か。そうなのか」
黒衣の者は、サナエを一瞥してからポランナを更に引き上げて見た。
「知らないわ!ポランナちゃんを離して!」
一人納得した様な言葉を発して居る黒衣の者にサナエは手を伸ばして、ポランナを掴む腕を握った。
「きゃあ!いっっ!?」
サナエの手が黒衣の者の腕に触れた瞬間に、風が腕に巻き起こりサナエの手を弾いた。それと同時に風の中に真空が生まれ、サナエの手の皮膚を大きく切り裂いた。風はそれだけでは収まらず、サナエの体に襲いかかり浮かせ吹き飛ばした。サナエは、風の勢いのまま抵抗できず、壁に背中から叩きつけられた。
「ポランナ、ちゃ…ん…」
ズルリと石壁にもたれたままサナエの意識は薄らいでいった。
ポランナを抱える様に開けた壁穴から出て行く黒衣の者の後ろ姿がサナエの薄らいでゆく視界の中に見えた。
「サナエ!大丈夫?!」
メルリの声がサナエの意識を覚醒させた。
それ程時間は経っていなかった。が、黒衣の者を追うには時が過ぎてしまっていた。その姿の痕跡は、散々たる破壊の跡以外は何も無かった。何処から来て何処へとポランナを連れ去ったのか分かる手掛かりはほとんど無い。顔もサナエが見たのは、黒衣の者の顎の辺りだけだった。作りは細いが力強い顎は男性なのだろうとサナエは推測した。黒衣の者が言っていた『器』とは何なのか分からなかったが、それがポランナの連れ去られた理由と行き先の唯一の手がかりだった。
何もできなかった自分にサナエは顔を歪めた。その目に動く影が見えた。ミランナだった。瓦礫の中を妹を探して歩くミランナがいる事に気付き、サナエの顔が崩れた。
助けられなかった。助けなくてはいけなかったのに、助けられなかった。
サナエの目から大粒の涙が溢れていた。
「ごめんね、ミランナ。ごめんね…」
ミランナには聞こえていないと分かりながらもサナエは言った。
「サナエ?何があったの?」
「分からないの。黒い人が突然現れて、器がどうとか言って、ポランナちゃんを連れ去ったの。わたし、助けるって、力になるって言ったのに、何もできなかった。何も…」
サナエの涙でぼやけた視界の中で、そこにポランナがいない事を悟り、膝を突き倒れ肩を震わせて泣くミランナがいた。
その事がより、サナエに無力さと不甲斐なさを痛感させ、涙が溢れて止まらなかった。
「ごめんね、ごめんね。ミランナ…ごめんね…ポランナ…」
泣きじゃくるサナエをメルリは一度抱きしめ頭を撫でると、ミランナの元に駆け寄ってその細い肩を強く抱きしめた。
ミランナは、何もでかなかった自分を責めながら、妹の安否を思い声を上げて泣いた。
それにつられる様に、その場に居た子どもたちも声を枯らして泣いた。
サナエたちが邸宅を出ると、水軍の鎧を纏った男と上半身裸の上に簡素な胸当てをつけた筋肉質で背の高いドンボルド系の男が何やら話していた。それぞれ四、五十に見える。どうやら、水軍の支部隊長と自警団の代表の様で、ソンナットの身柄と子どもたちを攫って来た男たちの処遇について話をして居るらしかった。
ソンナットについては、反逆罪の疑いが濃厚であった為に王都に連行される事になりそうだったが、今回の子どもを攫った首謀者と目される為、自警団の中からはこの町で刑に処すべきだと主張する者も多数いた。連れ去られて来た子どもたちのほとんどがドンボルド人の子どもで、ドンボルド出身者やドンボルド系の人が多い自警団は、感情的にもソンナットを許せない様だった。
この事件に関わった男たちは、罪人の刺青を掘られ、長期間の強制労働を課せられる事だろう。その男たちが、黒衣の者が襲撃した時に現れなかったのは、突然の衝撃にさっさと逃げ出して、海で待機していた水軍と自警団に対抗する間もなく、すぐさま捕まったからであった。なんとも間抜けな話ではある。
「子どもたちは、どうなるの?」
エルラーナは、気になってラナックに尋ねた。
「そうですね、国へ帰すのが一番ですが、親に売られた子も居ます。ミランナの様に親を失って居る子もいるでしょう。しばらくは、王都のエイナーリア大聖堂にある孤児院で面倒を見てもらえる様にお願いしましょう。ドンボルドと事の次第を話した上で子どもたちの身元などを調査して、帰らせられる子がいれば親元に帰す事になるでしょうね。後はドンボルドがどう判断するかですね」
「…ミランナは、どうするのでしょう…」
「それは、本人次第でしょう。妹を探すと言っても手掛かりが少な過ぎますし、かと言ってドンボルドに戻ればその機会は失われます」
「なるべく彼女の望む様にしてあげてください」
ラナックは、胸に手を当てて頷いた。
「承知しました」
エルラーナは、妹のメルリルークとサナエを思った。今回の事で二人も傷付いているはずだ。
魔素に恵まれた子どもたちが、この様な扱いを受ける世界もあるのだ。ほんの少しの運命のかけ違いの先にミランナとポランナが居た。他の子どもたちも。その事がメルリルークとサナエに重なり、エルラーナもまた複雑な気持ちを抱えさるを得なかった。
傾いた太陽の光が、エルラーナの頬に寂しそうに紅く差していた。




