「あなたたち!悪党ね!」
ミランナは、戦慄した。
追ってくる男達は、野ウサギでも狩る様にミランナたちを追い詰めようとしていた。
妹のポランナの手を引いている手は、次第に重くなる。もう体力も気力も尽きかけて居るのだろう。それでも手の力は、ポランナの持てる限りの力が込められていた。
この手だけは離したくない。
お互いに強く思い、繋がれた手から伝え、伝わって来ていた。お互いに残された、たった一人の家族を失いたくなかった。男たちに捕まれば、二人での明日を失う事だろう。
振り向けば、泣きながら必死に足を動かそうとする妹の顔が見えた。その後ろに男たちは迫っている。
逃げなくては。頭の中でその言葉が、ひたすらに浮かび濃度を増していく。
真っ青な顔で目がぐるぐる回り、今どこに向かって居るのか、どう足を動かして居るのか、なぜ走って居るのか、ぐちゃぐちゃになって崩壊寸前だった。
「あぁっっ!」
ポランナの声が後ろに飛んでいった。繋いでいたはずの手がするりと抜けた。
咄嗟に振り返る。
そこには、倒れ込んだ妹の姿があった。
足を踏ん張って体を止めて、手を伸ばした。
ポランナも倒れながらも上半身を起こして、膝立ちのまま姉に手を伸ばした。
「ポランナ!」
そのお互いの指が触れる事はなかった。
ポランナは、男の一人に抱え上げられ、拘束されてしまった。
「ポランナ!」
ミランナは、声を上げて手を更に出すが、ニヤリと笑った男の背後から遅れて来た男の仲間がミランナに手を伸ばした。
取られそうになった手を何とか引っ込めて躱した。
手を伸ばした小柄な男は不快な顔でミランナを睨みつけ、追い込む様にゆっくりと近づいて来た。反対側からは、大柄な男が近付くのが見えた。
「お姉ちゃ!っんぐ」
妹は姉に、助けと心配のないまぜになった声を上げたが、妹を捉えて居る筋肉質な男に口を塞がれ言い切れず、涙でぐちゃぐちゃな顔に更に涙を流した。
ミランナは、ジリジリと間を詰められる恐怖に走った事で乱れ荒くなって居る呼吸が、更に過呼吸の様に崩壊しかけていた。呼吸音が悲鳴の様に喉で鳴っていた。
大柄な男が先に動いた。
大振りに腕を動かして、少女を捕らえようとした。これは陽動に近かった。大きな男の圧力と迫力で小柄な男の方への意識を消そうとしたのだ。後ずさった背後から小柄な男が捕まえようと待っていた。
しかし、ミランナの体は、その大柄な男の腕をすり抜ける事を選択していた。
恐怖で体が縮こまり、大柄な男の足下に入り込んだのだった。腕は宙を掻き、その腕の勢いに小柄な男は、間を取ってしまった。
妹を助けたかった。しかし、追い詰められた恐怖は、逃げる事を彼女に訴えて、身体をそう動かしていた。
大柄な男の腕を避けたミランナは、走り出していた。
男たちは、その状況から逃げられる事を想定しておらず、その背中を見てからまたしても逃げられた事を悟った。
ミランナとポランナが産まれたのは、大陸の南ドンボルドの西岸のシトッテと言う小さな港町だった。
かつては、港町として水揚げ量もあり、栄えた時期もあったが、北からラッドレイスの漁船が漁場に現れる様になり、互いに競い合う様に漁場を取り合う事になった。その原因が、ラッドレイスの造船技術の向上により、速度の速い船が造られる様になった事だ。その事で、ラッドレイスから南下し、より良い漁場を求めてシトッテの漁師の漁場まで来られる様になった。
シトッテの漁師たちの乗る小回りは効くがラッドレイスの漁師の船と比べてかなり小さい船では、漁獲量が違う。漁場争いでは武力的な抗争も度々起こったが、船の性能差はそこでも見せ付けられる事となった。
そして、シトッテの町は、廃れていった。
ミランナの父親は、それでも細々と漁師をしていた。この町は、それに縋るしか無かった。
残った町の人々は危険と分かりながらも新たな漁場を求めて遠方まで船を進めた。
ミランナの母親は、妹を産んでから体を壊してしまい、寝込む事が多かった。町には、医者もおらず医者に掛かる為には、馬車でも数日掛かる町まで行かなくてはならない為、それもままならなかった。何より、金がかかるのが問題だった。
父親は、妻の為に無理を通して漁を行った。
そして、突然の天候変化による嵐に巻き込まれて、遺体すら帰らなかった。
「お父ちゃんは?」
父親が溺愛して育てたポランナは、何日も姿を見せない父親を不思議に思って、そう姉のミランナに毎日尋ねた。
それを知りたいのは、ミランナも同じだった。
父親が帰らぬ事により心労が増して、母親は、倒れベッドから起き上がれなくなってしまい、その世話をまだ十になったばかりのミランナがその看病をしなくてはならなかった。
漁に出たまま帰らぬ父親をミランナは、次第に恨む気持ちが湧き上がり、それが悲しくて海の遠くの水平線を見ながら泣いた。
父親の残した金も底を突き、ミランナが他の漁師の網の補修や船の掃除などを手伝って得るお金だけが家族の支えとなり、母親の病は悪化の一途となった。
母親は、痩せ細りカサカサになった唇を動かして、虚に帰らぬ夫の名前を口にして泣いた。
ミランナは、母親の姿に辛く心もすり減らしていった。
ポランナは、ようやく父親が帰らぬ事を理解した。何日も泣いていたが、ある日ミランナに自分も働く事を言い出した。母親だけでなく、大切な姉が疲れ果てやつれていくのがポランナの目にも分かったのだった。
とは言え、まだハつになったばかりの子供に与えて貰える仕事は無かった。ミランナは、父親から手解きを受けていたからある程度はこなせていたが、ポランナはまだ何も教わっていなかったのだ。
それからひと月も経たないうちに母親が亡くなった。精神的な不安定が体調を悪化させたのが原因だった。
二人きりになった姉妹は、ひたすら泣いた。泣いて泣いて、それでも二人で生きていかなければならぬ事を幼い心に刻むしかなかった。
そんな中、ネラスト教会の聖職者から、教会の掃除や雑務の手伝いをして欲しいと提案があったのだ。
見兼ねた町民の誰かが、教会に掛け合ってくれたのだった。
それからポランナは、教会の手伝いをする事で、少しのお金と野菜などの食べ物を報酬としてもらえる様になった。
ネラスト教会とは、豊穣の女神ネラストを信仰する宗教で、水のエルラーナ教、山岳のゴドマ教と並ぶルスカール大陸の三大信仰である。ここ数百年の間に、隣のレーナルス大陸から、ヘンネルース神聖教が入って来てからは、四大信仰となって居るが、先の三つが古来よりこの地に根付いた神であり民の心の拠り所である。
ある日、ポランナが堂内を掃除して居る際に祭壇に飾られていた女神ネラストの石像に強く惹かれた。
女神ネラストは、ふくよかで胸も大きく、人々が思い浮かべる母の姿を思わせた。常に微笑みを絶やさぬ表情は、柔らかく穏やかである。髪も長く、太腿の辺りまであり、豊かさを思わせた。絵として描かれる際は、肌は濃い褐色で、濃い茶色い目、赤みがかった髪、つまりはドンボルド人の容姿である。
母親を亡くしたばかりの幼女にとって、その姿は母親を思い出さずにはいられなかった。
そのふくよかな慈愛の笑みにポランナの心は奪われて、いけないとは分かりつつも、その足元に手を伸ばして触れた。
すると、石像は光を放った。
ポランナがその石像に見た、愛情や慈しみや温もりが、石像の素材となった魔鉱石を介して、光として具現化したのだろう。
それを聖職者が目撃していた。
聖職者は、最初ポランナを神の使いの様に感じたが、彼の信仰心がそれを否定した。神の使いは、神に身を捧げ真摯たる献身の末に神よりの神託を授かる者であり、彼女の様に教えの何たるかを持たぬ者では無いと考えた。つまり、自分がその光景に神の威光を見たと感じてしまった事で彼女に嫉妬したのだった。
それ故に、その現象の原因を探り、ポランナの中の魔素が石像の素材である魔鉱石に影響を与えた事を突き止めた。
ポランナには、魔素が他人よりもあり魔術を使う素質があったのだ。
噂はゆっくりと広がって行った。とは言え、ポランナにその力を使う為の知識も無く、何ができるわけでもなかった。
半年が過ぎ、それはやって来た。
教会に金を積み、ポランナを引き取りたいとボンドルドの貴族が来たのだ。
ポランナは、姉と離れるのが嫌だと泣いたが、金は既に支払われた後であった。
ポランナを奪われるのを阻止しようとミランナは、ポランナを隠した。が、すぐに見つかってしまった。捕らえられた二人だったが、姉のミランナにも他人よりも多い魔素がある事が発覚し、二人揃って引き取られる事になった。
二人には不安は多かったが、今の暮らしよりも良い暮らしができるかも知れないと希望が過った。
しかし、その希望が希望たり得るのか知る術は無かった。別の絶望が姉妹に襲い掛かって来たのだ。
精一杯清潔に着飾った二人の姉妹は、貴族の馬車に乗せられて領地まで向かう途中だった。
突然の雄叫びと怒号がその馬車を襲った。狙いは姉妹だった。
馬車を襲った男たちの集団は、御者を矢で射抜き、立ち向かおうとした貴族の護衛を曲刀で切り裂き、姉妹たちを置いて逃げ出した貴族を槍で突き殺した。
姉妹をそれぞれ縛り上げると、馬に乗せて彼女たちの故郷よりも南方の港に連れ去った。
二人が連れて来られた場所は船の中だった。
檻の様な部屋が幾つもあり、何人もの子供たちが入れられていた。どの子もまだ幼く、十一になったミランナが一番の年上に見えた。
どの子も泣き腫らしていた。ポランナも不安から大声で泣いた。声を上げて泣いて居ると、檻番の男が海から汲んだ水を桶で泣いて居る子に浴びせ掛けてきた。
その恐怖に、どの子も声を上げずに泣いていた。
ミランナは、何人かの子供たちに話を聞いて、この場に居る子供皆が、姉妹の様に魔素が多い事が分かった後、連れて来られた様だった。中には親に売られた子も居た。
船の中で何日も過ごしていた。そんな中、船の男たちの様子が慌ただしくなった。取引がどうとか、船をつける場所がどうとか、声が聞こえた。つまり、いつの間にか船は出航しており、もうすぐ子供たちを引き渡す相手と落ち合う場所に着くという事なのだとミランナは推測した。
逃げるのならば、取引の直前しかないと考えた。
船が停泊して、取引が間もなく行われる事に、男たちの気が緩んだ。
食事の際に姉妹の入った檻の鍵を開けた男がミランナをいやらしい目で見た。
取引で渡してしまう前に、子供の中でも年長のミランナに悪戯しようと下衆な欲望が働いたのだ。
それが姉妹には、ここから抜け出す好機に繋がった。ミランナは、漁の手伝いで培った腕の力を発揮して、油断した男を突き飛ばした。抵抗される予測すらしていなかった男は、不覚をとり強かに後頭部を檻の鉄棒に打ち付けて気を失った。ミランナは、男の腰から鍵を奪い取ると、子供たちの檻を開放した。そして、ポランナの手を引き、走り出した。
逃げて、何としても逃げて、ポランナと生きるんだ。
ミランナは、そう乞い願った。
だが、ポランナは、男たちに捕まってしまった。それでも逃げて、これからどうするのだろうとミランナは、戸惑った。
ポランナを助けなきゃ!でも、どうしたら良いのか分からないそれどころか…
男たちはミランナを追ってくる。走るミランナの前に灯台が見えた。
ミランナは、男たちに追われるままに灯台に逃げ込んだ。これでは、逃げ場は無くなってしまうと分かっていながらも上に向かって階段を登った。背後を登る男たちの足音も聞こえる。
せめて隠れられる場所…
ミランナは、探した。
扉が見えた。その先に何があるか分からなかったが、ミランナは扉を開けて出た。
扉を開けると、強い風が髪とスカートを靡かせた。
目の前には、大きな海が広がっていた。その眩い光は、同時に絶望をもたらした。
扉の先は、外に出られるだけでその先は無かった。少しの足場が有るだけの柵に囲まれた場所だった。
ミランナは、柵を手で掴み海を見た。父親を奪い、家族をミランナから取り上げた海はそれでも美しかった。
扉を開けて男たちがその背後に迫るのが分かった。
ミランナは、ここから飛び降りる事を一瞬考えた。しかし、その想像を泣いて居るポランナの姿が被さる様に現れて打ち消した。
ミランナは、大声で泣きながら男たちに声を発した。
一瞬男たちが怯んだ。
その時だった。
「あなたたち!悪党ね!」
ミランダは、見た。男たちの背後で、男たちを指さす、金髪の天使を。




