「さて!みんな行くわよ!」
サナエは、空を見上げた。
そこは、城内の前庭にある馬車用のロータリーである。そこは広く石畳が敷かれており、空を広く見上げられる。
この世界に来て何度も見上げた空だったが、空と言うものはどうしていつ見上げても心に寄り添うのだろうとサナエは不思議に思った。
初めてメルリと城を抜け出した時に見た空は、湖面のキラキラを吸い込む空だった。宝箱を開けるドキドキとワクワクが足元から湧き上がり胸を打ち、不安や戸惑いをソーダ水のようにパチパチと弾けさせた。その弾けた心をそっと掬い取ってくれるような青だった。
この世界に来たばかりの頃は、空は重く感じた。自分が何者か分からない、名前すらも思い出せなかった事で、心細く心も重かった。そんな時に城の窓から見た空は、今思えばあの病室で見た四角く切り取られた空と同じだった。
今日こうして見上げる空は、蒼く遠く何処までも続いていた。その空の広さを伝えるかのように、真っ白な雲が遠くの空に浮いているのが見える。少しずつゆっくりと動く雲は、時間の流れを遅くして引き伸ばす力があるのではないかと、サナエはその変化を見ていた。
自分が生まれた場所とは全く違う場所の空。
サナエは、やはり不安が付き纏うのを振り払い切れないと感じていた。自分の事が分からない不安から、記憶がある程度戻った事で、自分と世界のずれを自覚して感じる不安へと変じている。それに、魔法が使えたり、傷が消えたり、それどころか、死んだと思ったのに生きているこの体は、一体何なのか。その疑問は、考えるほど恐怖を連れて来そうでサナエは深く考えられなかった。それも不安の一つだ。
それでも、以前の自分には叶わなかった、自分の足で走り、目で見て、その手で触れ、匂いを嗅ぎ、胸一杯に吸い込むことのできるこの世界は、サナエには祝福に他ならなかった。
見に映る爽やかで軽やかな空は、何処までも吸い込まれそうな不安を孕みつつも、サナエの好奇心と期待感を映していた。
ガラガラと石畳を馬の蹄と馬車の車輪が走る音が響いて来た。目を向けると、三台の馬車が近付いて来ているのが見えた。
それぞれ、二人の御者が御者台に座って居るが、先頭の馬車の御者の隣には、マルスが座っていた。
サナエに気付くと、マルスは片手を上げてニカッと笑ってみせた。それにサナエも微笑んで小さく手を振った。
三台の馬車は、横付けにサナエの前に止まった。
「さ、荷物は後ろの馬車に運んで」
メルリの一つ上の姉、エルラーナの側付きメイドのロンダが、その場に居るメイドと下男に声を掛けた。
ロンダは、十七才の女性で褐色の肌に濃い茶色の目で、赤みがかった茶の髪を一つにお団子状に纏めている。その見た目の特徴は、ルスカール大陸の南方の国ドンボルド出身者によく見られるものである。実際、彼女自身は、ナッサヘルク生まれではあるが、彼女の祖父の生まれはドンボルドである。
今回、メルリ姉であるシルソフィアの元に出向くのは、メルリルークとエルラーナの二人とお付き数人と近衛騎士団の護衛が数名と言う小規模なものである。エルラーナは、まだ十五才である。姉のシルソフィアの元へ行くとは言え他国へ嫁いだ身であり、これは立派な外交である。それを任された主人の側付きとしては、恥をかかせる訳にはいかず準備から気合が入っていた。
ロンダは、リリーナやサナエとは違い、テキパキとした仕事ぶりで卒がない。その所為か、おっとりとした性格のリリーナに時折イライラする事があるようだ。
今も手際よく指示を出して、準備を進めているが、リリーナとサナエには、荷物車周りではなく乗車用の馬車の掃除を任せてなるべく視界に入れない様にしている。別にリリーナを嫌っているわけでは無いのだが、仕事上のテンポが噛み合わないのがやりづらいのだ。
サナエは、ロンダに対してリリーナに対する憧れとは違うが、仕事ができる先輩として尊敬はしていた。しかし、真面目できっちりとしたロンダに普段からダメ出しをされる事が多くもう一人のマルナのように思えて、目の前にすると少し萎縮してしまうサナエだった。
メルリが、姉のシルソフィアから貰った手紙の内容は、要約すると、北の国の第二王子のローレックに嫁いで二年、授かった子供が後ひと月程で予定日を向かえる。その為、両親は叶わずとも、兄弟姉妹に会いたい。との事だった。
メルリもエルラーナも姉の身を案じると同時に赤ちゃんを見たいと言う目的の為、二人で王と王妃を説得したのだった。もっとも、説得するまでもなく、王も王妃も娘の出産を心配する気持ちと孫の誕生の喜びは、自ら出向きたい関心事である。そこで、メルリとエルラーナの今後の見聞を広げる為と言う名目の下、行かせる事にしたのだった。北の国のメッサとは、互いに友好関係にあり心配事は少ないと判断した。
荷物を積み終わり、馬車の掃除も済み、作業にあたったサナエとリリーナとロンダは、着替えをして再び、馬車の元へと戻ってきた。いつもの服とは違い、濃い青を基調にした動き易いドレスに着替えた。青は女神エイナーリアを想起させる色であり、ナッサヘルクの国の色でもある。
「サナエ、とても似合っているわ」
リリーナが眩しそうにサナエに言った。
「この服、とても可愛いです。リリーナさんもロンダさんも似合ってます」
サナエに言われて、ロンダも悪い気はしない顔をした。
ロータリーには、馬車の他に護衛にあたる近衛騎士団から選抜された者たちも支度を終えて集まっていた。
ラナックをはじめとする五人の騎士が今回の護衛である。それに加えてマルスも居る。
五人の騎士は、白を基調にし青く縁取られた全身鎧に胸に尖塔と湖をモチーフにしたこの国の紋章が刻印されている。
サナエは、兜を脇に抱えて馬上で控えているラナックを見つけて、会釈した。ラナックもそれに頷いて応えた。
「エルラーナ様とメルリルーク様もお支度整っておられると思いますから、お迎えに上がりましょう」
リリーナが二人にそう言って、城内に戻ろうとした。
「さて!みんな行くわよ!」
そこへ現れたメルリが、拳を上げて皆んなに言った。
「メルリ、それは淑女としてはしたないわよ」
メルリの後から、エルラーナがメルリを嗜めた。
とはいえ、二人とも今回の旅が楽しみで、迎えを待つ間も惜しくて自ら出向いてきてしまったようだ。
「エルラーナ様、メルリルーク様、お二人ともお召し物がとてもお似合いです」
リリーナが、二人を見て称賛した。
二人とも、青を基調にしたドレスを着ているが、メルリは、所々に色合いの違う淡い青の生地を用いた何処か軽やかさを感じるデザインのドレスで、その活発さを思わせる脛辺りまでの長さのふわりとさせたスカートが可愛らしい。癖のある金髪は、頭の上の方で二つに纏められている。
一方、エルラーナは、細身のドレスに品よく纏められており、胸元とスカートの真ん中を白い生地とレースで作られており、まるで湖面に立つ白い尖塔を思わせる。それは、ナッサヘルクを代表していることをドレスに表している様である。
「それでは皆さま、私たちの旅が道中安全に運びますように、どうぞよろしくお願いします」
エルラーナは、そう言ってその場の皆に膝を少し折って挨拶した。
それに倣い、リリーナとロンダ、サナエといつの間にか合流していたレリアが挨拶した。
「では、しゅっぱーつ!」
いち早く馬車に乗り込んでいたメルリが、馬車の窓から顔を出して言った。
「もーメルリったら!」
エルラーナは、年相応の膨れ面をして、はしゃぐ妹を見た。初めての姉妹での外交旅に緊張していたエルラーナは、緊張感を削がれて少し落ち込んでしまった。この先上手くやれるのかしらと、不安を感じた。
「この先、まだ長いのですから、肩の力を抜いていきましょう」
それを見ていたラナックが、ニッコリと笑いかけた。
エルラーナは、その笑顔に体温が上昇して熱くなった頬を両手で隠すようにした。そして、うっとりとした目で、「はい」と返した。
ロンダは、一瞬ラナックを睨みつけてから笑いかけた。
「では、よろしくお願いします」
一台目にメルリ、サナエ、リリーナが乗り、二台目にエルラーナ、ロンダ、レリアが乗り、馬車は北の国、メッサ方面につながるファラント街道に向かう為、城門をくぐった。




