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「水の槍よ!」


 サナエは、目の前で起きた事を理解しようとした。

 サナエを追って現れた斑熊(ゲリグル)が目の前で殺された。それをやった者が部屋の奥に居る。 

 その者の敵意がサナエに向けば斑熊(ゲリグル)以上の脅威である事は明らかだった。サナエが今考えなくてはいけないのは、この場からどう逃れるかだ。

 斑熊(ゲリグル)の亡骸がそこにある事で障害物となり、相手には自分は目視できずらいはずだとサナエは考えた。が、同時にサナエにも相手の動きは見えない。警戒しながらサナエは、開いている扉に向かおうと床を這った。

 左手と左足は思ったよりも動いてくれた。少しの間、相手に無防備な状態にはなるがそれもほんの数秒だろう。それさえ乗り切ればここから出られる。サナエは、相手が何かしてくる事を想定して、すぐに対応できるように体内の魔素に意識を向けていた。

 何とかサナエの手が、扉に掛かる距離まで近付く事ができた。が、その指を扉の淵に掛けて体を引っ張ろうとした時だった。

 ズズズ…と、両側の扉が動き始めた。


「エセク、アトナスフロイレン」


 奥で何かを言っているのが聞こえた。

 サナエは、指に力を込めて体を引っ張ったが、扉が閉まりきる方が早かった。せめて両足で床を蹴る事ができれば間に合っていたのかも知れなかったが、左足と痛みで踏ん張りの効かない右足とでは、閉まる扉の向こうに体を滑り込ませる事はできなかった。目の前で閉まる扉を目にしながらサナエは、体の痛みと無念さに涙を流した。

 絶望的だった。

 扉を閉められたと言う事は、相手はサナエに対して害意があると言える。先程から何かをサナエに言ってきている事を考えると何らかの答えをサナエに求めているのだろうが、言葉も分からず、何を言っているのか分からないサナエには、答える事などできるはずもない。たとえ、言葉を理解できたとしても、答えなどなかったかも知れない。サナエは、ただ目の前の現実に絶望するしか無かった。


「シレスロイレン、ニデエレ」


 それでも何かを言っているそれに、サナエは涙に濡れた目を向けた。

 何かをされるなら、それに対して反応できなければ、ただ先程の斑熊(ゲリグル)の様に殺されるだけだ。

 サナエは、壁に手をつき相手を見たまま立ち上がった。

 生きたい、と言うよりも殺されるわけにはいかない、生き残らなければいけないと、サナエは思った。


「ルレースフガンジュ」


 それが右手を上げるのが見えた。

 その手の前に小さな光の魔法陣が浮かぶのが見えた。


 来る。


「風の障壁」


 サナエは、意思を込めて言葉を発した。

 サナエの正面に風が渦巻き、濃密な風の層が生まれた。

 と、ほぼ同時にそれの魔法陣に集まった濃厚な空気が弾けた。鋭利な音速の衝撃が衝撃波を伴いサナエに襲い掛かってきた。

 サナエの展開した障壁を切り削る様に侵食していった。それと同時に、ぶつかり合った衝撃に増大した衝撃波が刹那遅れて周囲からサナエを襲った。その瞬発的な圧力にサナエは、足が浮き上がり後ろの扉に強かに叩き付けられた。


「っくっっあぁ」


 サナエの口から漏れ出す様に声が出た。

 体を押し潰されそうな衝撃の痛みに表情が歪み苦悶した。さらに、右手足の傷から血が吹き出し、塞がり掛けた傷口に血が滲んだ。

 風に引き裂かれる事は、障壁によって何とか防げたが、かなりのダメージをサナエは免れる事はできなかった。


「ジェリスフルレース」


 扉に体を預ける様に立っているのがやっとのサナエに再び風の刃が襲い掛かろうとした。

 サナエは、その時意識を失った。

 流しすぎた血に意識が遠のいたのだった。ばたりの倒れたサナエのいた場所に切り裂く風が走った。それは背後にあった扉を切り裂いた。扉は破壊される事はなかったが、大きく横薙ぎに削り取られていた。

 サナエは、切り裂かれる事はなかったが、伴い襲い掛かる衝撃に強く弾き飛ばされて、床を転がった。


「ネスレ、デエレ」


 サナエの耳にそれの声が微かに聞こえた。

 はっきりしてはいないが、まだ意識は残っていた。

 このままでは、死んでしまうしその前に殺されてしまう。サナエは、思考せずともそれを絶対的に感じていた。

 数秒間の静寂がその場に訪れた。

 それは、現れた者を殺戮する為にそこにあるのではない様だった。

 じっと、無い目でサナエの様子を伺っていた。

 その姿は、まるでデッサン人形の様で、人の形を模しているが明らかに人ではなかった。

 身体中に紋様が描かれている。近くで確認する事ができれば、それは文字の集合体であると見て取る事ができただろう。そして、一番特徴的な事は、その顔と思われる所には、目や鼻や口や耳は存在せずに、中央に大きな紫黒の石が嵌め込まれており、その周囲を十字を切る様な配列で、小さな同系統の石が並んでいた。

 紫黒の石は手足にもそれぞれ嵌め込まれて居たが、右手のそれ以外はひび割れて欠けていた。両足の石は、半分以上が砕けて無くなっていた。残っている右手の石も亀裂が入っている様子で、連続して行使した魔法の所為か、その亀裂からパラリと砕けた破片が落ちた。

 それは、石で作られた椅子に座したまま動かない。いや、動けない様だった。左腕は、だらりと垂れ下がり、動く様子は無く、足は足首より先が無かった。

 サナエの様子を伺う様な動きをしているのには、それ自身の活動による自己崩壊を避ける為であったのかもしれない。

 切り裂かれた扉から、パラパラと削れた破片が落ちた。それでも、扉が壊れて開くことは無かった。あと何回か同じ事が起これば、隣の部屋との隔たりは無くなる事だろう。

 その扉から少し離れた所にサナエは、倒れたままいた。

 うつ伏せに倒れて居たが、意識は消えてはいなかった。体と意識が離れてしまったかの様に動けなかった。しかし、動けばそれは絶対的な死を意味しているとサナエは感じ取っていた。

 怖くて悲しくて悔しかった。

 動かない体を抱えたまま、サナエは涙を流した。


 …死にたく無いよ…メルリ…瑠璃ちゃん…


 折れた右腕が、転がされた影響で余計に酷く歪んでいた。その痛みが身体中を突き刺していた。呼吸もうまく出来ず、ひゅうひゅうと漏れる音がするだけで、どんどん息苦しくなっていく。

 涙や唾液や鼻水がダラダラと流れて床を濡らしている。呼吸の度に鼻や口に泡ができていた。

 サナエの体はもう限界だった。時が過ぎるだけで、死を迎える状態であった。

 しかし、サナエの心は生きようとしていた。あの時とは違い、生きる事にしがみつこうとしていた。


 こんなの、嫌だ…!

 

 サナエの左手の指がピクリと動き、その指先から力がこもっていった。その指先が砕けた扉や壁の破片を巻き込みながら床を押した。左足も引き寄せられて、サナエの背中が熱を持って隆起した。

 左手と左足と傷ついた右足で、サナエは力を振り絞り立ち上がった。

 その顔は、辛さと怖さで涙と鼻水で濡れていたが、目は生きようという光を浴びて、目の前を見据えていた。

 サナエの左腕がそれに向けられた。


「水の槍よ!」


 サナエの左手の前に光と共に水が細く集まり、圧縮され、細く鋭利で密度の高い槍が生まれた。

 サナエの目の前の人の形をしたものも右手を上げた。


「ジェリスフルレース」


 何かが来るのは分かった。だが、サナエは続けた。


「あいつを突き刺せ!」


 その言葉と同時に、サナエの水の槍が飛び出した。

 人の形をしたものの発動させた風の魔法を引き裂く様に突き進んだ。

 そして、その高圧の水の槍が、人の形をしたものの胸を突き抜けて、穴を穿った。

 サナエの目に、人の形をしたものが壊れたおもちゃの様に手足を投げ出し、仰け反るのが見えた。

 が、次の瞬間、サナエの目の前を何かが赤く染めた。

 強烈な痛みとともに、それがサナエ自身の左腕が風によって切り裂かれた血によって染まった赤だと知った。

 人の形をしたものの放った風の魔法は、サナエの水の槍を止める為に発せられたものでは無く、サナエの左腕を切り裂いたのだ。

 サナエの腕が風の刃に引き裂かれズタズタになり、二の腕の中程で引き裂かれて体を離れて落ちた。


「いやぁぁぁぁぁ!」


 激しい痛みの中で、サナエは喉が裂けるほどの悲鳴を上げた。

 その正面で、活動を止めたかに思えた人の形をしたものが上体を起こし、サナエの方を向いた。


「メメンセ、アトナスフロイレンローナルセ」


 その右手が、再びサナエに向けられた。

 

 


 

 

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