「アンノクヴィレスレジェオルネスラ?」
サナエは、身体中を駆け巡る痛みの中で意識を取り戻した。
何か夢の様なものを見ていた気がした。とても実感的な夢。だから、今微かに見える暗い部屋が、現実なのか、夢の延長なのか言い切る事ができずにいた。
朧げに思い出される内容は、かつて彼女が体験した出来事であると何故か受け入れられていた。
孤独。苦痛。寂しさ。少女。迫る死。絶望。
サナエは、その中に埋まって何とか生きていたと自覚した。今もまさに同じものが彼女を支配している。場所が違うだけだった。そう、あの時も一人の少女のおかげで立とうと思えたのだ。
苦痛の中で金髪の少女の顔が浮かんだ。
立ち上がってあの子の元に戻らなくては。メルリの元に。
サナエは、体を起こそうとしたが、激しい痛みにうまく体が動かせなかった。特に右腕の二の腕に激痛が走った。あまりの痛みに、体が硬直し声も出ず呼吸もうまくできない。錯乱し呼吸は浅く早くなるが、酸素を取り込んでくれず、只々苦しさを増していった。
苦痛に顔を歪めながら右腕を見てみると、出血で服が真っ赤に染まっている。痛みの範囲は特定できない程広い。指を動かそうと意識するだけでも痛みが走った。かなりの裂傷があり、骨折もしているようだ。
サナエは、自分の身体の状態を知りより恐怖が増した。だが、このままただ死を待つわけにはいかなかった。メルリは、サナエを探しに来る。そのメルリがサナエの死を知ったら、メルリが酷く傷つく事をサナエは想像した。大切に思う誰かを失う辛さをサナエは知っていた。サナエにとってそれは自身が死ぬよりも痛い事だと認識していた。その思いをメリルにさせたくは無い。
サナエは、死なない為に足掻く覚悟をした。
皮鞄に動く左手を伸ばして、中の布を引っ張り出した。が、左手も右手ほどでは無かったが、落ちた際の衝撃と瓦礫によって所々打撲や裂傷で傷付いていて動かすのも痛かった。
それは、右足も同じだった。だが動かす事はできる。
突如背後で轟音が響いた。
何とか動かせる視線を向けると大きな黒い塊が、上から落ちてきたのだった。
その時になってサナエは気付いた。この階層の壁や僅かに残っている天井が鈍く光を発していた。天井が崩壊している為暗いが、本来はもう少し明るかったのかも知れない。
目を凝らして黒い塊を見ると、それが落ちる前に戦っていた獣であると知った。それは動かなかった。落ちた衝撃で絶命したか意識を失っているのだろう。まだ息があって動けるのならば、サナエにとってかなりの絶望的状況と言えた。だが、すぐにはそうならないとサナエは考えた。だから、今のうちに何とかこの場を離れなければならない。
激痛に耐えながら、サナエは右の袖を破り捨てるた。左手と口で鞄から出した布を裂いて紐の様に細くすると、右腕の肩の近くを目一杯の力で縛った。それからもう少し幅のある布を作ると、傷の酷い二の腕に巻いていった。右腕を上げることすらできない為、体を左側に傾けての作業になり苦戦した。その後、左の肘を使って何とか体を起こすと、右足の傷にも布を巻いていった。
落ちた際に右側を強く打ち付けたらしく、右足の外側に大きな傷ができていた。
サナエは、血を失い過ぎたのが、視界がぼやけていた。が、うつ伏せになり左足と左腕で這いずり壁際まで行き、壁を頼りに体を立たせた。そこで、左足は擦り傷程度で済んでいて、右足も骨折はしていないと分かった。歩く事はできないが、何とか壁伝いに行くと扉に辿り着いた。
サナエの背の二倍以上ある高さの扉の中央に文字の様なものが寄り集まってできた模様が彫られている。
サナエの手が、扉を開けようとその模様の中央に触れた瞬間に、その模様の触れた箇所から一文字一文字が紫色の光を発していった。
模様が光で満たされると、扉が重くゆっくりと両側に開いてた。
中に入るとそこは、崩落して落ちてきた先程の場所よりも少し狭いが、広い部屋になっていた。
サナエは、朦朧としながらも部屋に入ると、すぐ脇の壁に隠れる様に座った。
鞄から水筒を取り出すと、口に水を含んだ。一口飲み下してから、もう一口水を口に入れると、左腕の傷口に吹きかけた。そして、布を咥えて傷口を拭くと裂いた布を巻いた。右手が動かせず、ほとんど口だけで巻いた為うまく巻けなかったが、何とか傷口を庇う事はできていた。その際、傷口の血がもうすでに止まっている事に気付いた。前回、森で怪我した切り傷も一晩で消えていた事を思い出して、サナエは自分の体に特殊な回復力があるのかも知れないと推測した。その事で助かるかも知れないと希望を持つ事ができた。ただし、このまま見付けて貰えるまで何も起こらなければ。と言う条件の下ではあるが。
壁に寄りかかった背中も痛んだ。考えてみれば、かなりの高さを落ちてきて死ななかったのが奇跡的な状況だ。胴体にもダメージがあって当たり前である。見る事はでき無いが左手と同じ位の怪我をしているのだろう。しかし、それももう血が止まっているのだろう。しかし、右腕の裂傷と骨折、右足の裂傷は、かなり深く血が止まらず、巻いた布は血を吸って真っ赤になっている。右手足の付け根を縛ってみたが、止血の効果はあまり無かったかもしれない。常人であればすでに失血死しているであろう状況でまだ意識があるのは、この身体のおかげなのだろうとサナエは考えた。
全身、特に右半身に激痛はあるものの、少し落ち着きを取り戻す事ができたサナエは、今居る場所を見回した。
先程の場所の様に壁や天井が鈍く光っている。今度は天何ある事で、薄闇ではあるが先程よりも明るく、ぼんやりとではあるが部屋の隅の方まで見る事ができた。
それまでの場所と同じく、壁や天井、床には特に装飾はない簡素な作りである。ただ一つ、部屋の奥に何かが置いてある事以外は。
よく見ると、それは椅子の様に見えた。そして、その椅子に何かが座っている様に見えた。
その椅子の奥に扉が有る。
奥に居る?のは何なのだろう?シルエットは、人の様に見えなくは無いけど…
サナエは、苦痛に耐えながらそれが何事も無くそのままである事を願った。思い通りに動けない今、逃げる事はできそうに無い。この場所から出れば、あの落ちてきた魔獣が生きていれば襲われる可能性が有る。でなくても、他の魔獣が居て襲われるだろう。
今のサナエにできるのは、助けが来るまでここでじっとしている事だけなのだ。
サナエは、寒さを感じていた。身体が震え、左腕で左足を抱える様に体を縮めた。意識が遠退くのを手繰り寄せる様に何とか保っていた。
気配が動くのをサナエは感じた。
それは、サナエが入って来た入り口の方だった。熱を帯びた大きな塊。
サナエは、開けているのも億劫になった目で、そちらを見た。
それは、サナエと同じく上から落下して来た、斑熊だった。マルスとメルリの攻撃と落下の衝撃で、身体中傷付き血を流している。が、その目は生きていた。サナエの血の匂いを辿り追って来たようだった。
その血走った目がサナエを見つけた。
その巨体は、サナエに襲い掛かろうと後ろ脚で立ち、体を広げた。
前足を左右に大きく広げ、振り下ろそうとしている。それが振り下ろされた瞬間にサナエは、命を失う事になるだろう。
しかし、それは振り下ろされなかった。
代わりに、斑熊の右前足と首がゴトリと下に落ちた。まるで大剣で斬られた様に斜めに斑熊の体が引き裂かれた。
サナエは、その光景をただ恐怖して見ていた。
サナエは何もしていなかった。だが、斑熊は、切り倒された。
「アンノクヴィレスレジェオルネスラ?」
恐怖に固まったままのサナエの耳に、部屋の奥から静かな声が聞こえた。




