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「ねぇ、いっしょに、ご本よも」


 夕暮れの橙色の光が、カーテンの隙間から僅かに差し込んでいた。

 嗅ぎ慣れた匂いが充満するこの部屋で、後どれ位の時を過ごすのだろうと少女は白い天井を見上げていた。


 このカーテンの外には、世界が広がっているはず。でも、わたしにはまるで実感を失ってしまった世界だ。


 もう遠くなってしまった彼女の記憶の中の風は、暖かく柔らかだった。でも、時折この建物を出て感じる風は、硬く冷たい物の様に思えてならなかった。まるで知らない世界の風が、彼女の束の間の深呼吸に冷たく滑り込んでくるのだった。

 いつからかたまの外出は、希望と喜びを期待する彼女に不安と孤独を色濃くさていた。彼女の現実と世界の現実との乖離の幅を冷たく静かに彼女の眼前に見せつける。衰えてしまった手足と心では、到底攀じ登ることのできない壁が彼女には見えていた。

 世界との間に吹く風は、ビル風の様に強く彼女の希望の旗を煽り飛ばしてしまう。何度も縫い直しては、掲げた旗は、飛ばされて誰の手にも落ちる事なく近くの川に流されてしまった。

 そして、旗を掲げる意味を彼女は見失っていた。

 それでも、終わりが来る事は無かった。

 襲いかかって来る苦しみは、容赦なく彼女を疲弊させるが、全てを奪う事なく続いていく。その辛さに彼女は自らが生きる意味を問わずにはいられない。それが彼女にとって一番の苦痛となっていく。

 

 いっそ、死んでしまえば、苦しく無くなるのに…


 幾度そう思い、口にして来たのだろうか。

 彼女を心から想い、心配し、勇気付けようとしてくれる人たちにもその言葉を何度もぶつけてしまっていた。その度ごとに、心から悲しみ傷付いた顔を見て、彼女は口にしてしまった自分を責めて、後悔した。そして、一人夜に自分の境遇を呪った。

 彼女の周囲は、彼女を愛し、彼女の回復を心から望み、その為の努力も惜しまなかった。常に彼女の心に寄り添い不安を和らげようと振る舞った。彼女もまた、その優しさと思いやりを察し、心から愛しさと感謝を感じていた。

 だが、彼女の両親は、次第に顔を見せる機会が減っていった。

 彼女も事情は分かっていた。それが分かる年でもあった。両親の気持ちが互いにすれ違い離れていき、家族は家族と言う纏りの形を失っていた。彼女の所為とは言えないが、彼女は、両親が見せない心の疲労による疲弊を感じ取っていた。だから、原因は自分にあったのだと想像するしか理屈を得なかった。

 母親が、倒れたのはそれから半年後の事だった。過労と心労が母親を蝕んでいた。体が回復しても、心はまるで何処かに置き忘れた様になっていた。

 彼女に会いに来ても、以前の様な明るく暖かな笑顔はそこに無かった。やつれた表情で僅かに頬を緩ませる母親の悲しい笑顔に、彼女はいたく傷付きながら精一杯明るく振る舞った。

 彼女は、母親が帰った後、いつも担当の看護師に縋るように泣いた。ただ、自分を責めて泣いた。

 それから暫くして、母親は姿を消した。

 理由も行方も誰も知らなかった。生死もまた。

 それからは、母方の祖母が来てくれる様になった。以前にも何度も顔を見せてくれていた祖母の事が、彼女は好きだった。祖母の見せる困った様に見える優しい笑顔が彼女は好きだった。

 その頃から、彼女の容体が悪くなる事が頻繁になった。

 毎日の様に苦しみが襲い、身体中を抉られる様な痛みに苦しんだ。痛みに呼吸が荒く激しくなり、身体は震えた。永遠に思える苦痛の中で、彼女の心は擦り減っていった。




「だいじょうぶ?」


 ある日の朝、小さな癖っ毛の女の子が、彼女に声を掛けた。

 彼女は、疲れた顔で笑顔を見せて頷いた。

 女の子の細い癖っ毛が、カーテンの隙間から差し込んだ朝の光を吸い込んで、まるで金色の綿毛の様に見えて、彼女は綺麗だなと見惚れた。

 その女の子の大きな黒目が、彼女を心配そうに見ていた。


「ねぇ、いっしょに、ご本よも」


 女の子が小脇に持っていた本を彼女に見せてそう言った。彼女が困った顔をしていると、女の子の後ろから女性が声を掛けた。


「瑠璃ちゃん、おねぇちゃんちょっとお熱計ったりするからちょっと待っててね」


「うん」


 瑠璃と呼ばれた女の子は、素直に頷くと窓際に行った。

 女性は、彼女の傍に行くと、体温計を渡し体温計を脇に挟む彼女の顔色を覗き込んだ。


「咲苗ちゃん、今日は少し顔色良いみたいね」


 看護師に頬を触られて、彼女ははにかんだように笑った。


「何か先生に話したい事とかある?」


 看護師に尋ねられて、咲苗は小さく首を振った。


「ねぇ、まだ?」


 瑠璃が痺れを切らせて、咲苗の布団をチョイチョイと引っ張ってせがんだ。咲苗は、可愛らしい女の子の仕草に困った様な笑顔を向けた。


「うん。おねぇちゃんの用事は、もうお終い」


 看護師は、柔らかな笑顔で瑠璃にそう答えた。


「やったぁ」


 瑠璃は、咲苗の布団の上にポンと絵本を置くと、「うんしょ」と、咲苗のベッドによじ登った。

 咲苗は、良いのだろうかと心配になり、看護師の方を見た。


「佐山さん…」


 咲苗に名前を呼ばれた看護師は、咲苗の右肩をそっと撫でた。


「瑠璃ちゃんは、三日前から入院してるの。ご両親は、お忙しいらしくて…だから、仲良くしてあげてね」


 咲苗は、不安な表情をしながらも頷いた。

 この病院には、瑠璃や咲苗の様な病気に罹ってしまった子どもたちが何人も居る。しかし、咲苗に近い年齢の子どもはこの病院にはあまり居ない。その所為もあってか、他の子どもたちと接する機会はあったが、咲苗は積極的に関わらずいつも遠巻きに見ているだけだった。

 咲苗がこの病院に来たばかりの頃に知り合い仲良くなった子たちはいたが、ほぼ全員が回復の兆しを見せて退院していった。が、中にはもう居ない子もいた。その中に咲苗と同じように本が好きで色んな想像をお互いに話し合ったり、回復して退院したら一緒に遊びに行く約束をした子もいた。その子が亡くなってしまった事が、咲苗の心に影を落としていた。

 その上、ここ一、二年は他の子が家族と過ごしている姿に嫉妬する自分を見付けてしまいそれが嫌で苦しかった。咲苗は、他人と接する方法をいつしか見失ってしまっていた。だから、今同じベッドに入り絵本の説明をしている瑠璃をどう扱って良いのか分からなかった。


「この子ネコがね、色んなネコさんとあうの」


 表紙の子猫の絵を指差しながら、瑠璃は咲苗に笑いかけた。

 咲苗の鼻先を掠める瑠璃の柔らかな癖っ毛に、咲苗は被っているニットを触った。病の進行の所為で、やっと耳を覆うまで伸ばした髪は、薬の副作用でまた失ってしまっていた。

 その咲苗の落ち込んだ気持ちを察したのか、瑠璃は咲苗を見上げた。


「おねぇちゃん、どこか痛いの?」


 咲苗は、首を振った。


「猫さん、可愛いね。続き読も」


 瑠璃は、「うん」と頷くとページをめくって、自分の解釈をふんだんに織り交ぜて咲苗に内容を説明しながら読み進めていった。

 咲苗は、身体に触れる瑠璃の細く小さく頼りない肩と腕にそっと唇を噛んだ。


 それから瑠璃は、体調の良い時は毎日の様に咲苗の元に来て、絵本を読んだり、話をしたりした。

 時折、顔を見せる瑠璃の両親とも顔を合わせる事もあった。瑠璃の両親は、咲苗にとても感謝していた。咲苗は、その瑠璃の両親に自分の両親を重ねて悲しくなった。瑠璃の両親のどちらの目にも、疲れや哀しみが見えてしまった。だから、これ以上自分を追い詰めないでほしいと咲苗は願った。咲苗の両親の様に彼らが自ら壊れてしまうのでは無いかと、悪い方に考えてしまう自分を責めもした。瑠璃の為にも咲苗の悪い想像の様にならないで欲しいと願った。

 

「今日ね、ママにおいしいケーキかってきてってやくそくしたの」


 咲苗のベッドの脇の丸椅子に座って足をブラブラさせながら瑠璃が言った。


「良かったね」


「サナエおねぇちゃんの分もおねがいしたから、あとでいっしょにたべよ」


「わたしはいいよ。ママとパパと食べた方がおいしいよ」


 瑠璃は、頭を振ってじっとベッドの淵を見つめた。鼻から息を吸い込んで頬を膨らませ唇を尖らせている。


「やだ…だって、さいきんママとパパ、おみまいきてもケンカするし…」


 咲苗は、手を伸ばして瑠璃の頭を撫でた。その頭には布の帽子を被っていて、あの柔らかな癖っ毛は無かった。


「だったら、尚更、仲直りのティーパーティーしなきゃ」


「…でも、サナエおねぇちゃんと食べたい」


「瑠璃ちゃんは、ママとパパに仲良しでいて欲しいでしょ」


 瑠璃は、うんと頷いた。


「だったら、ね。わたしとは今度」


「うん」


 瑠璃は、決意を込めて頷いた。

 そこへ、看護師の佐山が顔を出した。


「瑠璃ちゃん、あのね…」


 佐山は、言いづらそうに切り出した。


「今日、パパとママ、来れなくなっちゃったって連絡があったの…」


「え…?」


 瑠璃は、振り返ったまま固まった。


「今日来るってやくそくしたもん。ケーキかってくるって!」


「でも、ご用事ができちゃったのよ」


「じゃあ、あした?」


 瑠璃は、小さな両手をぎゅっと握って言った。

 その背中を咲苗は、ただ見ていた。

 佐山は、どう答えて良いのか悩んでいた。その視線が、咲苗に向いた。咲苗はその視線が何を意味しているのか何となく察してしまった。


「来週は来てくれると思うわ」


 佐山は、そう言ったが確証など無かった。


「やくそくしたもん!今日くるって!ケーキかってくるって!」


「でも、しょうがないわ」


 瑠璃は、頑張って堪えようとしていた。握った拳を震わせながら、じっと床の一点を見つめて、口をぎゅっと結んで。

 咲苗は、かつての自分をそこに見ていた。でも、瑠璃には自分の様に自身を責めて欲しくなかった。

 咲苗は、ベッドから出ると少しフラつきながら、瑠璃の背中を抱きしめた。

 膝立ちになって、目一杯自分の体温を伝える様に瑠璃を抱きしめた。

 瑠璃の大きな泣き声が、病室に響いた。




 

 

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