「風よ!届いて!」
サナエとマルスは、土蜥蜴の粘液混じりの泥まみれになってしまっていた。それをメルリが魔法を使い水で流して落とした。幸いこの魔獣の巣窟には、水が多く有り十分に洗い流すことができた。
「サナエ、風と熱でマルスを乾かしてあげて」
メルリの言う様に熱を帯びた風を想像した。
「暖かな風よ吹け」
サナエは、マルスに手の平を向けて言葉を発した。メルリの様な古代語の言葉では無く、話す言葉で唱えた。言語を無理して覚えても、イメージに繋がらないとメルリが判断したのだ。
サナエの周囲に熱を帯びた風が巻き起こり、部屋内を巡った。
サナエの起こした風は強く渦巻き、マルスだけでは無くサナエ自身もメルリも巻き込んで吹いた。メルリの髪を揺らし、サナエの髪を宙に流し、そしてスカートも巻き上げた。
慌ててスカートを抑えたサナエの目の前のマルスの顔が真っ赤になり目を丸くしてた。サナエは、マルスに見られた事に大いに動揺して声を上げた。その声でサナエの起こした風が強くなり、乱れてマルスを吹き飛ばした。マルスは、床をゴロゴロと転がり、泥にまたまみれる事となった。
「サナエは、制御がまだまだね」
目を回しているマルスを見ながらメルリはため息をついた。
「ごめんなさい」
サナエは、再び泥まみれになったマルスに謝ったが、スカートを押さえてしゃがんだまま動けなかった。
マルスは、驚いた顔でサナエを見た。それは、サナエが魔法を使った事に対しての驚きだった。
一方サナエは、マルスが自分を見ている事が恥ずかしくで堪らなかった。マルスの目に今は隠していて見えていないはずのスカートの中が映っている様に感じた。
「雪解け水よ流れ洗え」
「冷てぇ!」
メルリがマルスに水を掛けた。それは、洗い流す為でもあったが嫌がらせでもあった。メルリに必要以上に冷えた水を掛けられて、マルスは震え上がった。
「さ、次へ行くわよ!」
メルリは、サナエに手を差し出して立たせながら言った。
「待てよ、乾かしてくれよ」
「サナエのパンツを見た罰よ」
体を縮めてガチガチと震えるマルスにメルリは冷たく言った。
「あ、あれは不可抗力だ」
「見たのは認めるのね。最低ーね」
二人のやり取りの横で、自分の下着の話をされているサナエは、消えて無くなってしまいたい位恥ずかしい思いで俯いた。
その時、サナエが下げている鞄がモソモソと動いた。そして、その中から目を覚ましたスフレが這い出し、サナエの体をよじ登り肩に乗った。サナエの様子にくうんと心配げな声を出し、スフレはサナエの頭に自分の顔を擦り寄せた。スフレが、心配してくれた事に気付きその柔らかな体を撫でた。
「そうだ、サナエ」
マルスを適当に乾かしながらメルリがサナエに声を掛けた。
サナエは、羞恥に浮かんだ涙を指先で拭いながらメルリを見た。
「こういう長い事手付かずの魔獣の巣窟で魔法を使う際は、発火するものは使わない方が良いわ」
「そうなの?」
「可燃性の気体が溜まっている事が有るらしいの。それに着火したら最悪魔獣の巣窟ごと崩れて生き埋めになるかも知れないわ」
「き、気を付けるね」
「魔獣が居る所は、大丈夫かも知れないけど、サナエは制御がまだまだだから、範囲が広がるとリスクが上がるわ。それに狭い所で、私たちまで蒸し焼きになったり、空気を使い切って窒息なんて事にもなりかねないしね」
サナエは、魔法も何でも有りではないのだと思った。メルリの言っている様な事を想像していなかった。
となると、どんな魔法が良いのだろうか?水や風なら。どう使ったら良かったのだろうか?傷付けるのは怖いし…
偶然的とは言え、サナエは自分が蜥蜴を殺してしまった事を思い出した。その感触は、まだ手に残っている。思い出すと手が震えた。そのサナエの頬をスフレが小さな舌で舐めた。そのくすぐったさにサナエは、肩を窄めた。その事で少しだけ楽になるのを感じた。
「ありがとう。スフレ」
そうだ、わたしは、メルリやスフレを危険から守りたい。その為にはこういう事も必要なんだ。
サナエは、先日メルリが話して居た事を思い出した。
メルリが命を狙われる危険が有ると言ってた。わたしも。だとしたら、いつか人と戦う事があるかも知れない。メルリを守る為に相手を傷付けなくちゃならないのかも。その覚悟が、わたしにあるの?
サナエは、胸の前で右腕を左手で掴んだ。
答えは出ない。
でも、サナエにはメルリが傷付けられる場面はどうしても避けたい気持ちがある。目の前でそんな事が起こるなんて有り得ない。有ってはならないと強く思った。
「下に何か居るわね。もうこちらに気付いているみたい」
下に続く階段を覗き込み、メルリが言った。
「俺でも感じる。こちらを伺っているようだ。引き返すか?」
マルスは、緊張した顔で言ったが、その目は引き返す気など無い様だった。それは、メルリも同じ様だった。本当にこの子たちは、向こう見ずだとサナエはため息をついた。
二人を横目にサナエは、考えた。
二人が下に降りたとして、わたしに何ができるのだろう。メルリから教えて貰ったわたしに使える魔法は、水を出す事と風を吹せる事。後は小さな火を起こせて…
余り役に立てそうな想像が浮かばなかった。下に居るのがどんな相手かも分からない。
「二体居るわ。階段のすぐ下の右手と正面奥。この音、あの時の獣と同じかも」
「斑熊が二頭だとすると辛いな。さっきみたいに光で怯ませて俺が飛び込んでも、挟まれるな。せめて一頭ずつなら…」
マルスの言葉を聞いてからメルリは、少し考えてからサナエを見た。
「階段下の一頭の足止めはわたしがやるわ。サナエは、マルスのフォローをお願い」
「でも…」
サナエは、メルリの方が心配だった。
「スフレ、こっちにおいで」
メルリが言うと、スフレはメルリの肩に飛び移った。
「危ない時は、スフレが守ってくれるわ」
メルリが、そう言ってスフレを撫でると、意図を把握したのかスフレは、クンと鼻を鳴らした。
「スフレ、メルリを守ってね」
「じゃあ、サナエは、俺と一緒に奥に走るぞ」
「うん」
三人の役割が決まった所で、メルリが光の玉を操り、光量を絞って階段の下に進ませた。
「行くわ!」
メルリの声の後に光が激しく大きくなった。
サナエは、目を開けるのが少し早く光が目に入った。それでも何とか階段を駆け降りた。床の位置を見失い、フラついた。その目に、マルスが斑熊に切り掛かるのが見えた。
「彼の者を捕縛せよ岩の牢獄」
背後でメルリの声が聞こえた。魔獣の巣窟が揺れる振動が足元に響いてきた。
メルリは、階段下に待ち構えていた斑熊を石で覆い尽くして動けない様にしたのだ。隙間も硬く閉ざされしばらくは動けないはずだ。
サナエは、メリルを信じしっかりと前を見た。
マルスの剣が斑熊の首元に迫ったが浅く、皮膚を切り裂いただけだった。傷口から、血を流しながら斑熊は、首を動かし敵を探した。光の影響で目はまだちゃんと見えて居ないらしい。しかし、鼻はマルスの匂いを捉えていた。咄嗟に動かした前脚が、マルスに襲い掛かった。それをマルスは、何とか剣で受け流した。
サナエは、風でマルスの前に障壁を作らなくては思ったが、そのタイミングを逃した。
「風よ壁となれ」
それでも何とか声を出した。
マルスと斑熊の間に風が起こり、それぞれを弾いた。マルスの方が軽く、体が浮き上がった。そこに獣の次の一撃が迫ったが、マルスが弾かれた為それは空を切った。それが隙になった。マルスは、その前脚の関節の辺りに切り付けた。斑熊は、その傷の痛みに咆哮し唾液を迸らせた。残った左前脚を横薙ぎにマルスを牽制した。マルスは、その時には間合いを取ってそれを躱した。
斑熊が、マルスに向かい突進した。
「風よ吹き阻め」
サナエが風を起こして、斑熊の突進の勢いを止めようとした。斑熊の獣毛が向かい風に押されて震えた。体も勢いを殺されて遅くなったが、抑えきれず爪がマルスに襲い掛かる。それをマルスが辛うじて剣で対応した。しかし、鈍化したとは言え体重の乗った一撃は、マルスの筋力を凌駕し、止め切る事は叶わなかった。マルスの右肩に爪が迫り、胸当てを支える革のベルトを引き裂きながら肩の肉も抉った。だが、爪はマルスの筋組織迄は至ってはいなかった。それは、サナエの魔法のおかげと言えた。もし斑熊の勢いを抑えていなければ、マルスの肩は無くなっていただろう。
「其を切り裂け風の短刀」
マルスに攻撃をしていた斑熊の横面をメルリの魔法の風が切り裂いた。風が刃となり、その耳から顎に掛けて裂きどす黒い血が迸り、硬い獣毛を濡らした。
斑熊は、怯み右横に退いた。
「マルスっ」
メルリは、マルスに近付いた。
サナエは、斑熊とマルスたちを交互に見た。
斑熊は、二人を警戒して血走った目で見ている。マルスは、肩の傷の痛みに顔を歪めながらも立ったいた。胸当てはずれ下がりシャツも引き裂かれ血で濡れている。重症では無いが、その痛みで剣を構えられない様だった。
メルリは、その傷口を見て顔を青くしていた。が、今は治療している時間は無いと考えた。
「サナエ!こっちに!」
メルリがサナエに向かって声を上げた。
そして、呪文を唱えた。
「我を守れ土の障壁」
メルリの目の前に斑熊とを隔てる壁が横の壁から伸びる様に現れた。
サナエは、懸命に走りメルリたちの方に向かった。
メルリがマルスを庇う様に登り階段の方に向かおうとしているのが分かった。
しかし、それと同時にサナエの目にそれが見えた。
メルリがこの部屋に入った時にもう一頭を閉じ込めた石の牢獄が崩れるのを。
メルリは、それに気付いては居ない。
しかし、斑熊の力で崩れだした石の牢獄は、留めておく事はできなかった。その前脚が振り上がり、メルリに迫っていた。
「風よ!届いて!」
間に合って!
サナエは、叫んだ。とにかくメルリを守る事ができるのならそれで良かった。斑熊の爪がメルリに届かなければそれで良いと願った。
その願いは、大きな風の刃となって走った。床と天井も切り裂きながら、斑熊の振り上げられた前脚へと迫った。そして、切り裂いた。前脚は、体から引き離されて傷口から血が噴き出た。しかし、風の刃はそれだけでは収まらず、角度を変えて斑熊の胴も袈裟斬りに引き裂いた。肩口から腰まで深く切り裂かれ、そのまま絶命し倒れた。
メルリは、サナエの声で危険が迫っていた事を知り、しかし身動きが取れずにいたが、サナエの魔法によって起こった事に驚きの顔をした。
サナエは、メルリが一先ず無事だった事に安堵し、止まっていた足を動かして、二人の方へ向かった。
メルリもサナエが向かってくる事に落ち着きを取り戻した表情でサナエを向かえた。
が、突如サナエの足元がグラついた。
「え?!」
サナエは、視界が急にブレた事に驚いた。
踏むはずの床が突然崩れて落ちたのだ。
それは、サナエが放った風の魔法が引き裂いた為、床が脆くなってしまい崩壊したのだった。
サナエは、自分が落ちている事が理解できないまま抜けた床の下へ吸い込まれて行った。
「サナエェェ!」
メルリは、目の前で起こった事に恐怖の悲鳴を上げた。




