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「不快…だわ…」


 ヘレスは、絶望していた。

 それは、仮面の男によってもたらされた事実だった。

 暗い石段を松明の灯りを頼りに登って行きながらも、その事が頭から離れなかった。

 壁を頼りに歩く手が滑る場所に触れた時、その不快感に顔を歪め湧き上がる吐き気に体を曲げて、鼻で強く呼吸した。逆流する胃酸の酸味が喉や鼻腔を刺激して涙が流れた。口をつぐみあの内容物と感情が溢れるのを力尽くで抑え込んだ。そして、吐き気が少し引くのと同時に、カハッカハッと喉に残った焼ける様な空気を吐き出した。ダラリと口から唾液が流れ落ちて、その形の良い下唇を汚した。

 ハンカチを取り出して、口許を抑える様に拭くと、汚れた左手を振り残った汚れを拭いた。その拭いた箇所を内側に織り込んでからしまった。


「不快…だわ…」


 ヘレスは、苦々しく口にすると、石段に置いた松明を持ち直して再び登り始めた。

 王女の暗殺に手を貸す。それは大罪である事は間違いない。しかし、今の彼女の不快感を少しでも和らげるのはそれしか無い様に思えていた。

 ヘレスは、仮面の男から預かった筒状の武器と紋様の描かれたナイフの重みを腰の皮ベルトに思い出した。


 私がやらなくても良い。この目で見届けられれば。


 ヘレスは、与えられた力を思い出しながらも、先行している灰色のローブを羽織った、〈指先〉が成し遂げてくれる事を考えていた。ここまで来てもまだ決意の固まらぬ自分に呆れる反面、まだ迷う事が自分の理性として手放せなかった。

 筒状の武器とナイフ。筒状の武器は、東の大陸の先進の技術で作られた物らしかった。一度使い方を説明された時に使ってみたが、その威力の衝撃にヘレスの腕の関節は未だに傷んだ。殺傷能力は高いが未知の武器であり、これまで人を傷つける為に力を払った事など無い彼女には、それを扱う事に強い抵抗を感じた。そして、ナイフ。そのナイフは、手にした時、何故か手に馴染むのを感じた。革を硬く加工して作られた鞘から抜くと、その刀身に刻まれた文字の様なものが鈍く光った様に感じた。


「それは魔剣よ」


「魔、剣…」


 その時、仮面の男の言った言葉がすぐには理解できなかった。


「そう、魔素を感じ取り、武器に込められた呪印を解放して力を発揮する物。魔具と呼ばれる物。その剣。つまり魔剣」


 何故か男は、手振り激しく説明した。

 ヘレスは、その説明に手にしたナイフを自分から遠ざける様にした。


「そのナイフは、貴女の手にしっくりきたはず。何故なら貴女にそれを扱う力があるから」


 仮面の下の表情は見えないが、ヘレスにはいやらしく笑っている様に感じた。その不快感と一緒に男の言っている意味がジワリと入り込んできた。


「フフフフフ…そう。貴女には魔素が有る。魔具が扱える程の…貴女を裏切り嫌悪する貴族社会の象徴。この大陸に歪んだ価値観を生んだ悪しき刻印。嫌悪と破壊しか呼ばない汚れた血の証…そう。貴女の中にも流れている…逃れられない烙印…毒には毒。憎悪には憎悪。血は血でしか洗い流せない!……貴女にこそ、その力が必要。汚れた血は、その汚濁を真に知る者によってこそ雪がれるべきなの」


 仮面の男の指先が、ヘレスの顎を撫で頬を這い、髪をすいた。男の言葉が体を這う様に纏わり付き、ヘレスは、吐き気に腹を波打たせて眉を寄せて目にぐっと力を入れた。

 手にしたナイフを放り投げたい衝動と、その刃を自分の喉元に突き立てたい衝動が同在して、その矛盾がヘレスの体をブルブルと震えさせた。男の言葉は、ヘレスの体を縛り付ける呪詛となった。その手にした刃は、自分の汚れの象徴であり嫌悪の対象だ。だが、同時に自らの手で抗う力となり得る。

 ヘレスは、嫌悪に顔を歪めながら鞘に収めた。


「良い子ね。とても良い表情だわ」


 突然現れた〈指先〉が仮面の男に紙を渡した。


「…どうやら、あの子たち動いた様だわ。指も減らされたみたい。どうしてくれようかしらね」


 渡された紙に書かれた報告に、仮面の男は、楽しそうに言った。

 そして向かったのが、グリーシェ島と言う小島だった。

 長い石段を上がりながらヘレスは、仮面の男の言葉を反芻していた。奪われていく体力と精神力の減少に伴い、その思考の闇を色濃くしていった。

 どれ程努力して知識を増やしていっても、生まれついた立ち位置は足下に張り付いたままで、知識を得た分だけその現実をありありと見出してしまう。自身の手の及ばぬ過去や血筋が運命づける人生を目の当たりにして、ヘレスは、茫然とした。生まれ持ったものでしか価値基準の無いこの社会に強く嫌悪を覚えた。魔法を使える血筋に産まれた事で人を支配している一部の人間に吐き気を感じた。それは、力を誇示し恐怖で押さえつけると同じだ。たとえ力を振るわなくても、力無いものは膝を突き従うしか無いのだ。その力が薄れた王族は、なりふり構わず力を持った血を求めて婚姻を結ぼうとする。それはヘレスには滑稽で反吐が出る行為だった。歴史の中では、血の濃さを求めて、近親婚を繰り返し滅びかけた国もあった。その歪んだ価値観は、知れば知るほどヘレスに嫌悪と不快感を深めていった。そして、その価値観の排斥の為、反魔術主義派〈黎明の風〉の扉を叩き、仮面の男の指示で活動を始めた。


 その私にあの男は、忌み嫌う奴らと同じ血が流れていると言った…


 ヘレスの中で何かが瓦解した。グラグラと揺れる視界の中で、湧き上がる吐き気に酸味のある唾液を吐き捨てながら、彼女の口元は歪んだ笑いを浮かべていた。


 ゴゴゴゴゴ…


 石段の上の方で、腹に響く様な音が聞こえた。

 それがメルリが使った魔法が出口を塞いだ音だとは知らずに、ヘレスは笑いながらナイフを抜いた。

 そのナイフに刻まれた紋様が黒赤く光を発していた。





 メルリたちは、森を真っ直ぐに東に向かって歩いていた。


「弟の月」


 メルリは、木々の間の空に見えた淡い黄色月を見上げた。


「あれ?」


 サナエは、違和感を覚えた。月は、兄が先で弟は後から出るはずだ、と。


「周期によって先に弟が出ている事もあるわ。わたしも今気がついた位よ」


 メルリは、サナエの疑問を察して言った。


「実は、弟の月が先に出ている事はかなりの場合であるわ。でも、まだ周りが明るくて見えない事が多いの。暗くなる前に沈んだり、出てたけど、兄が登り始めて見落としたり。でも、こんなに高い位置にある時に兄の月が追いかけて登るのは珍しいわ」


「早く行かなくちゃ」


 サナエは、月を見上げてその歩速を速めた。


「ササナ、慌てたら危ないよ」


「兄と弟が同時に空に昇る時、レイビアの花は開くと言い伝えられているの。その時間を逃したら花は落ちてしまうとも言われているの」


「まさか、そんな」


 驚きの声をあげたのはドレストだった。彼の知識の中にもすぐに花が散ってしまう品種はある事はあったが、そこまで短時間のものは聞いた事がなかった。その言葉は、ドレストには驚きであり、同時に知的好奇心を刺激した。


「急ぎましょう」


 ドレストは、先程迄の疲れなど無かったかの様に皆を追い越して早足で歩き始めた。


「ちょっと待ちなさいよ!」


 メルリも同じく刺激され、彼を追い越す勢いで追った。

 そして、二つの月が登り切る前に開けた場所に辿り着いた。


「ここ、なの?」


「わたしが聞いていたのは、花畑があると言うだけで、花が咲かなければ分からないわ」


 月明かりに照らされたその場所は、そこだけ木が生えておらずぽっかりと丸く草原が広がっていた。そして、その草原には、今にも開きそうに蕾の膨らんだ植物が柔らかな風に揺れていた。


「きっとここだわ」


 メルリは、その花に魔素を感じていた。魔素と言う命の力を。

 一同は、固唾を飲み兄弟の月がその真上に来るのを待った。

 そして、月は昇った。

 だが、花は開かなかった。


 

 

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