二人の博士
エスペランザ研究所はパラムレブ連邦においては現在、国内最大級の研究施設だ。
とりわけ、連邦屈指の大企業ドミナーレ社による出資比率が半数を超えてからというもの、研究分野に振り分けられる予算は増える一方だった。そして、国内で最も先進的、解放的思想を持ち合わせている場所でもあった。
そして、国内どころか国際的に男尊女卑の考えが多いという世間で、シャセル・オクルス博士は際立った存在だ。
エスペランザ研究所には、ほかにも多くの女性研究者がいたが、その中で複数の研究グループを取り仕切る主任の役職まで持ち合わせているのは彼女だけだった。もちろん、それを快く思わない研究者や職員もいたが、彼女の記憶力、知識の深さ、討論での話術、ユーモア、そしてなにより彼女の政治的な立ち回りの上手さにかなう者はいなかった。そして、オクルス博士は知識で全てを征服できるという考えを信条としていた。
彼女は今、レスアム・クラッツ博士の部署へ向かっていた。
オクルス博士はクラッツ博士の研究班を監督する立場にもあった。一方でクラッツ博士は、女性であるオクルス博士の下で研究を行うことに関しては、特に気にかけることはしなかった。クラッツ博士にしてみれば上司が誰であれ、自分の研究が邪魔されずに没頭できれば、それで充分だった。
見方によっては自分以外のことにはあまり関心がないとも言えるのかもしれないが、良く言えば、なにごとにも寛容というわけだった。
が、彼は内心、オクルス博士と顔を合わせるのは、どこか苦手に感じていた。もちろん、女性と話すのが苦手だというわけでもなかった。研究のこととなれば、納得のいく結論が出るまで何度も議論を交わしたりもした。
それでも、博士と直接顔を合わせていると、こちらの心のうちのすべてを見透かしているのではないかという感じを受けていた。もっとも、それはあたらずといえども遠からずといったとこであった。オクルス博士は他人のしぐさや表情から相手の感情を読み取ることにも長けていた。この種の能力は、生まれ持った才能とでもいうものだろう。だからこそ、彼女は今の地位まで登りつめることができたのかもしれなかった。
ただ一つ、重要なことを彼は考えていなかった。それはとても人間的な側面だった。シャセル・オクルス博士はクラッツ博士に好意を抱いていたのだ。今回、彼の出張に護衛をつけようというのも、実はそんな彼女の計らいからだった。
ところで、パラムレブ連邦においてクラッツといえば、銃の製造会社としてクラッツ社の名があげられる。実はレスアム・クラッツという人物は、経営者の子息の一人なのである。もっとも、何人かいる兄弟姉妹の末っ子であるため、跡取り候補というわけでもなかった。だからこそ、彼自身の選んだ道を進むことができたのだった。いずれにしても、兵器会社の経営者の子息が医学関連の仕事に就くというのは、なにかの皮肉を感じざるをえない。
ともかく、クラッツ博士は医薬品に関連する研究をしていた。とりわけ天然植物から抽出される薬物で、麻酔薬や治療薬に用いられるものについて研究していた。
オクルス博士はクラッツ博士の部屋に到着した。ドアは開けっ放しであった。
「クラッツ博士、少しよろしいかしら?」
クラッツ博士は机に向かって書類仕事をしていた。
「これは主任、おはようございます。構いませんよ」彼は立ち上がって応じた。
「実験の進捗はいかかが?」
「ええ、順調とまでは言えないかもしれませんが、一応の予定通りには進んでます」
「そう。それで、トーワでの会議に参加して、こちらにいない間はどういう予定かしら?」
「作業は助手に任せるつもりです。定型的な抽出作業と残りの膨大なデータ整理だけですので、大きな問題はないと思います。それで、済ませておくべきことは、こうして今やってます」
彼は苦笑しながら、机の上の書類を指し示した。
「分かったわ。大きなトラブルはなさそうね」
「ええ、」それからクラッツ博士は少し疑問の面持ちになった。「それと、今回の出張は護衛が付くらしいと聞きましたが」
「知ってるの? 噂話が伝わるのは早いわね」
「以前にもトーワ帝国には出向いてますが、護衛は初めてですよ。なにか理由があるのでしょうか?」
「私も詳しくは把握していないわ。おそらく世界的な外交情勢を鑑みてのことだと思うわ」
「そうですか」
「いずれにせよ、お気を付けて」
「ええ、お気遣いどうも」
クラッツ博士は仕事の続きに戻り、オクルス博士も部屋を後にした。