局長からの指令
首都にある国防軍諜報局本部では、多くの職員が忙しそうにしていた。
そしてフィエル・ウルバノ大尉は、自身のデスクでタイプライターと格闘していた。
共和国での任務が終わって本部に戻ってからというもの、溜まりに溜まった報告書の山を片付けにかかっていた。
タイピングに慣れないうえ、事務作業に縁遠い彼からすればその作業は苦痛に近いものがあった。それでも、いずれはしなければならないことの一つだった。
そんな彼に、近づいてくる人の姿があった。
「ウルバノ大尉!」
突然呼ばれて、大尉は振り向いた。そこにいたのは局長補佐官の一人だった。
「局長がお呼びだ。局長室まで来なさい」
大尉はため息をついた。てっきり、提出の遅れている報告書のことかと思った。
「報告書だったらな、ほら、今こうやって作ってるとこだぜ。急かして何とかなるもんじゃないぞ!」
「違う。別件だ」補佐官はあきれた顔をしていた。「とにかく至急だ!」
「はいはい、承知しやした。行きやすよ」
大尉はタイプしかけたままの書類をそのままに、席を立って局長室のある上のフロアへ向かった。
局長室のドアは、いつも開け放してある。局長が常に部下たちの仕事ぶりを見張るためだとか、組織内の風通しを良くしておくためだとか、いろいろと推測が飛び交ってはいたが、明確な理由は誰も知らなかった。
「ウルバノ君、わざわざ来てもらってすまないね」
開けっぱなしのドアに入る前から、局長は彼に声をかけた。
黒縁眼鏡と整った口髭、それからひかえめな表情の顔と地味なスーツ。それらだけを見ると、冴えない中年サラリーマンか大学の教授とでもいった風情だが、パラムレブ連邦国防軍諜報局の局長という立派な肩書を持つ人物である。
それから局内の一部の人たちは、彼はこうみえて不眠で働ける超人だという噂をしてた。その真偽はともかく、局内で誰よりも精力的に働いているのは事実だった。
そしていま、局長の執務室にやってきた大尉の方は平均より背が高く、顔は二枚目、かつては陸軍で狙撃兵を務めた経歴の持ち主で、諜報員に転向してからは国内外を問わず大陸を駆け回っていた。
「どうも局長、次はどんな任務なんっすか?」
ただ、誰に対しても砕けた口調と、時にはやり過ぎなくらいのふざけた態度は、欠点どころか疎ましく思う人も少なくはなかった。ただ、局長はそれに対してとやかく言うようなことはほとんどなかった。事実、彼は任務を的確にこなしているのだ。
ウルバノ大尉はいわれるまでもなくソファの一角に腰を下ろした。
「場所は国外」
局長は大尉の態度には構わず、一言口にして書類の束を取り出した。そしてテーブルをはさんで大尉に向かい合うかたちで彼もソファに座った。そして、慣れた手つきでテーブル上に書類を広げてみせた。
「今度は少し遠いところになる」
「どこです? また共和国にでも行かされるんですかね」
「海の向こう。トーワ帝国だよ」
「トーワ? あのオワム大陸のですかい」
様々なところへ出向く機会の多い大尉でもさすがに驚いた様子だった。
国外に行く機会は多かったが、オワム大陸までは行ったことがなかった。
「さすがの君も驚きを隠せないようだね」局長は小さく笑みをこぼした。
「いや、局長」大尉は少し考えた様子で続けた。「たしか、現地の大使館にも、エージェントとしての職員がいるんじゃありませんでしたかい?
」
「ほう、」局長は少し感心したようだった。「君も人員配置については頭にしっかり入れているようだ」
「おぼろげな記憶ですけどね」大尉は両手を広げてみせて、大したことないといったような顔をした。「とにかく、俺は海を渡っていかないといけないってことですか?」
「そうだ。それとカジナ・ザカリア君については、知っているね?」
突然の話題に、大尉は訝しげな様子だった。
「ええ、ちょっと小耳に挟んだだけだが、女性諜報員だって話題の」
「今回、そのザカリア君と共に任務にあたってもう」
「それはそれは、」大尉は苦笑した。「ついでに俺を、新人教育係にしよう、ってわけですか」
「まあ、そんなところだ」局長の顔はわりと真面目だった。
「わかりやした。まあ、誰にでも初回ってもんがあるからな」
「分かっているならば、よろしい」
「しかし、俺みたいなのが新人の見本でいいんですかい?」大尉は自嘲気味に言った。
「本当のことを言うと、他に適任がいると思う。だが、仕事の片手間に新人を引っ張って回れるほど力量があって、今タイミングがいいのは君しかいないものでね。背に腹は代えられないというやつだ」
「まあ、なんとかしましょう」大尉は軽く咳ばらいをした。「それで、任務の内容というのは?」
「とある人物の護衛だ。化学者でな。トーワ帝国で行われる学会発表に参加するとのことだが、万が一のことが起きたりすると、一大事だということで、研究所側から依頼があった」
しかし、それを聞いた大尉は、不満げな、少々疑い深い表情をした。
「そりゃ、結構なことだ。けれでも、諜報局がでしゃばるような仕事とは思えねぇな。まあ新人の初回任務にはちょうどいいかもしれんが」
それを聞いて局長は不敵な笑みをこぼした。
「護衛だけが仕事とは言っていない」
ウルバノ大尉はそれで合点がいったようだった。
「なるほどね、表向きは護衛ってわけか……」
「だいたい、やり口は分かっているね? これは絶好のチャンスでもあるのだよ」
それから局長は、声のトーンを少し落として本題を切り出した。
「トーワ帝国の軍港を偵察してきてほしい。現地情報によると、なんと現地では、航空機を搭載可能な潜水艦を建造している、との話が入っているとのことだ」
「へぇ!」大尉は驚きの声を漏らした。「やたら最近は戦艦を作ってるってのは皆知ってるが、飛行機を乗っけることのできる潜水艦? いったい何に使う気ですかねぇ」
「しかも、単に分解した機体を乗せるのではなく、水密格納庫を備え、機体も主翼を折りたためる特別な設計という情報もある」
「そりゃ、ずいぶん凝った代物だこった」
「可能性があるのは、遠距離の海上偵察だ。それと、これは可能性の範囲だが、その飛行機にもし爆弾を積んだりでもすれば、突如海上へ姿を現し、不意打ち攻撃だってできるはずだ。トーワ人たちは時として我々の考え付かないような、突飛なアイデアを作り出す。他にもなにか、私達のもいつかないような用途があるかもしれない」
「なるほどねぇ、まあ潜水艦なら海中に逃げ隠れできるからな」
「ともかく、その開発や製造の進捗、可能なら現物の図面や写真を入手してくるのだ。それに現地の職員は一部では顔が知られてしまっている。情報収集にあたるには他の人物でないといけないんだ」
「了解」それから大尉は尋ねた。「それはそれで、護衛任務の方はどんな人物なんです?」
「もしかすると君の知っている人物かもしれんな」
それから局長は、資料のなから一枚差し出した。
「護衛対象は、レスアム・クラッツ博士という人物だ」
大尉は思わず軽く口笛を吹いた。
「レスアム・クラッツ? そいつは、知ってるも何も、学生時代の同期生で友人じゃないか。それと、も名前が同じだけの別人か?」
それから資料の一枚を手に取ってみた。博士の顔写真も見たが、同姓同名の別人ではなく大尉の知っている人物だと確信した。
「長年の友人かね? よかったかもしれんが、本来の任務を知られないよう気を付けることだよ」
「そりゃ、もちろんだとも」大尉は真剣な顔で返事をした。「それで、向こうは俺が護衛に着くことは知ってるんですかい?」
「いや、直前まで知らないだろう」
「ふーん、そりゃきっと、レスアムは俺をみて驚くかもしれないな」
大尉は手に取った資料を机の上に戻すと続けた。
「それで、局長、俺たちの移動はどうするんです? こちらで用意するんですか?」
「いいや、移動手段に関してはすべて先方が整えるとのことだ。ともかく、君とザカリア君は博士のいるエスペランザ研究所に向かってもらうことになる」
「エスペランザ? 辺鄙なとこだ」
「そんなことはない。ごく最近に軍の基地もできたし、近年は農地改革で、あの周辺も大規模農園がどんどんできつつある。まあ、ともかく、ザカリア君はしばらくしたら訓練後休暇から戻ってくる。そして準備が整い次第、君たちは出発だ」