大尉、帰路
潜水艦は潜航したまま、東の方向へと歩みを進めた。
操舵室の隅で、いまだにパイプの一つに掴まったままの大尉に艦長が声をかけた。
「私が、この艦の艦長ドレフト・ライプラツフだ」
艦長は帽子を上げて挨拶をした。
「どうも、」大尉も、ようやく緊張を解いて応えた。「諜報局のフィエル・ウルバノ大尉だ」
「ここで立ち話もなんだね。私の部屋に案内しよう」
それから艦長は副長の方を向いた。「後の指揮を頼む」
「承知いたしました」
二人は艦長の部屋に入った。周囲と仕切られてはいたが、ドアはなく、入り口はカーテンで仕切られているだけだった。
「どうだ? 狭いところだろう。陸軍の人からすると」
「どうして俺が陸軍の出身だと?」
「見れば分かる」艦長は苦笑した。「まあ、そこのベッドにでも腰掛けてくれて構わない」
そのとき、厨房員の一人が二つのマグカップと、コーヒーの入ったポットを持ってきた。
「もしかすると、入用かと思いまして」
「ああ、すまない」
厨房員は手早くコーヒーをカップに注ぐと部屋を後にした。
「うちのコックはなかなか気が利く。それに料理の腕も確かだ」
「それよりも艦長さんよ。俺の任務について、なにか聞きたいって感じだな」
大尉は単刀直入に自分のほうから話を切り出した。
「まあ、可能なら聞かせてもらいたいね」艦長は彼の言葉にやや憮然としたふうに答えた。
「なんたって、この艦と乗員を無下に危険にさらしたいわけじゃないだろう。エテク共和国の軍港に潜入とは。それに、唐突な指令だった」
聞いていた大尉は、ずっと抱えるようにして持っていた書類ケースを掲げるように見せた。
「こいつを、無事に俺の職場に持ち帰らないといけないのさ。重要書類だぜ」
「そういうことか……」
ドレフト艦長は、渋々ながらといった表情ながらも、とりあえず納得したようすだった。
「諜報局のことだ。わけを聞いても、詳細は聞かせてもらえんわけかな?」
「まあ……そうだな。多少、言えるとすれば、ある諸島の領有権に関してのことだ」
艦長はカップを持つ手の動きを止めた。
「なるほど、もしかすると海軍も無関係とは言えなさそうだ」
「かもな」それから大尉もコーヒーを飲んだ。
「それはそうとして、」艦長は疑問の面持ちだった。「君はなぜ、潜水艦に便乗しようなんて思った? 陸路でも逃げ出せたのではないかね」
「こう言うと何だが、はじめから陸路で帰るのが難しかったのさ」
「なるほどね。タイミングが良かったものの、我々がいなかったらどうする気だったんだ?」
「どうかね、泳いで帰ったかもな。まあ、危険と一緒ならいくらでも手はある」
「とにかく、ひとまずは無事に済んだことだ」
それから潜水艦の中で大尉は、士官室にあるベッドの一つを割り当てられた。横になって寝れるのは結構なことだが、食事とトイレ以外は基本的に自由にはさせてもらえなかった。
もっとも、海軍には海軍のルールがあった。大尉はそのへんのことを割り切って考えた。不満を漏らしたところで何が変わるわけでもなかった。感謝はすれど文句は言わないことだ。彼はそう考えて、入手した情報について専念することにした。
あまりにも急いでいたので、現場で書類の確認をきちんとできなかった。今一度書類の束を確かめると、ひとまずページが抜けているようなことはなさそうだった。情報は西大洋諸島に関するものだった。
西大洋諸島はラレイユ大陸を中心にみて西側の大洋にある島々の綱らりで、オワム大陸とラレイユ大陸の間の南方海域に点在していた。今のところ、実質的な領有権はサモ公国が持っていたが、資源開発を巡ってはエテク共和国と共同宣言がなされるのではないか、というのがもっぱらの噂だった。そして、大尉の入手した情報もそれを裏付けるものだった。だが、ことはそう単純な話では済まなかった。重要な点として、オワム大陸のトーワ帝国の存在があった。
トーワ帝国はオワム大陸の東に位置する国で、オワム大陸では際立った存在だった。現在でも、その大半が植民地か未開の地であるなかで、唯一の独立国の存在なのだ。航海時代、ラレイユ大陸の人々がオワム大陸に初めて上陸したときは、農耕をしている地域もあったが、大半は狩猟採集といったような前時代的、ある意味では牧歌的生活をしていた。しかし、現在のトーワ帝国の成立した地域だけは違った。地理的にも大陸の東に位置し、高い山脈によって他の地域とは隔絶されていた。
彼らは、ラレイユ大陸との住人と接触がある前から、独自の文字を使い、広範囲において政治的な統治がなされていた。さらに言えば、彼らは好奇心旺盛なことに加えて勤勉であった。ラレイユ大陸の諸国と交流が始まると、瞬く間に諸外国の技術を取り込んだ。現在はラレイユ大陸の国々と充分に肩を並べるまでに発展していた。
そんなトーワ帝国も西大洋諸島の一部の領有権を主張していた。もっと、彼らからしてみれば東南諸島というべきかもしれないが、それは問題ではなかった。とにかく、西大洋諸島の領有権がらみの対応策について、いろいろと要旨が書かれていた。
いずれにしても、連邦と帝国は比較的良好な関係にあるとはいえ、まったく利のなさそうな島の領有権争いに、政府は首を突っ込む気なのだろうか? 大尉はそんな風に思ったが、それ以上のことまでは考えなかった。
それについて考え、決定を下すのは政治家や官僚の仕事だ。彼は諜報局のエージェントしての務めを果たすだけだった。