大尉、脱出
ラレイユ大陸南部の大国、エテク共和国の軍港の一つ。建ち並ぶ倉庫群のあいだを全力で走っている男がいた。さらに離れた後方にはエテク海軍の警備兵たちがサブマシンガンを手に、彼の姿を追いかけていた。
「クソったれ!」
追われていた男は吐き捨てるようにつぶやいた。
彼はフィエル・ウルバノ大尉。パラムレブ連邦国防軍諜報局のエージェント。パラムレブ連邦は大陸北部にある大国で、そのエージェントが共和国で何をしているのかといえば、スパイ活動であった。
隠密に機密情報を奪取する、というのが今回の目的だったが、最後の最後でしくじりそうになっていたわけである。
靴をカスタムメイドのブーツにしておいてよかったと大尉は思った。もしも革靴だったならば、コンクリートの上をコツコツと甲高い足音を響かせて逃げることになっていたことだろう。
彼の左手には書類の入った革ケース、右手には大型拳銃が握られていた。だが、引き金からは指を放していた。その引き金を引くのは最後の手段だった。
追手との距離を稼いだ大尉は、暗がりを利用して倉庫の物陰に飛び込み、そして積まれている木箱に隙間を見つけると無理やり身を隠した。彼としては正直なところ、追手に向かって何発でもぶっ放したいところだったが、そんなことすれば騒ぎがさらに大きくなるのは必須であった。もしそうなれば、港中にサイレンが響き、さらに多くの兵隊がやって来るところは想像に難くない。まだ冷静さを失うわけにはいかなかった。
大尉は周囲の様子を慎重にうかがった。追手は二方に分かれたようだが、彼の隠れている場所には気づいていなかったようだ。
大尉がエテク共和国へ入るときは、陸路だった。そしてその帰路は、密航してくる連邦海軍の潜水艦に乗って脱出するという算段だった。潜水艦はエテク共和国の隣国、ノートラール国へ寄港していたものだ。ちなみにノートラール国は連邦と国境を接し、かつ経済的にも国交的にも友好的だった。タイミング良く、ノートラール南部の軍港に居合わせた艦を利用すれば、大尉の移動にかかる負担も減るはずであった。
ただこの状況では、迎えに来る水兵どころか潜水艦そのもにも危険が及んでしまうことが予想された。
大尉はため息をついて、再び移動を始めた。軍港のすぐ近くの海岸で、本来なら昨日に落ち合う予定だった。昨夜も、港近くや港湾敷地内に忍び込んでいた。しかし、姿をみせない迎えに、まさか忘れているわけじゃあるまいな、と大尉は訝しく思っていた。
彼が知る由もないが、潜水艦はよくある技術的トラブルのせいで一日日程が遅れていたのだった。
そもそもであるが、仮想敵国である共和国の軍港へ、連邦の潜水艦が侵入すののは非常に危険な行為だ。そのために潜水艦は万全な状態で来るのが望ましかった。
大きなリスクがある半面、共和国軍側もまさか軍港に仮想敵国の潜水艦が乗り込んで来るなど予想もしていないわけで、周囲から見ても潜水艦が軍港に入って行くのを不審に思う人がどれほどいるだろうか。さらには夜中のことである。
いずれにせよ、お互いに連絡手段がないなか、決められた秘密の集合場所で待つほかなかった。潜水艦は沖に近いところで停泊し、小型ボートが迎えに来る予定だった。
そしてなんとか軍港のずっと東の端、コンクリートの堤防が切れて岩場になっている場所までたどり着いた。
大尉は浜辺の小型ボートと数人の人影を認めたものの、一瞬ためらった。だがあれこれと迷っている時間もなかった。大尉が合言葉を叫ぶように言うと、すぐに返事があった。潜水艦は、いよいよ迎えに来ていた。
そのとき、基地の警備兵が大きく笛を吹き鳴らした。
大尉はとっさに威嚇目的で銃を空に向かって発砲し、水兵を急かした。
「急げ! 警備兵が来る!」
追手が怯んでいるあいだに皆はボートに乗り、急いで沖へ向かった。そうして大尉たちの乗ったボートが潜水艦までたどり着くと、港の方からサイレンが聞こえた。
「お前たち、連中に見つかったのか?」
司令塔の上から怒鳴るように声が響いた。
「急いで入れ! ボートは破棄する!」
声の主は、どうやら艦長と思われた。
水兵たちは慣れたようすで梯子を滑り降りていくが、大尉はたどたどしい格好で梯子を伝って艦の中へ下りた。
そして最後の一人が降りると、さまざまな声が響いた。
「司令塔、ハッチ密閉!」
「ハッチ密閉!」
「艦長、潜航しますか?」
「いや、まだだ。」
乗員たちはは俊敏だった。大尉は壁面にあるパイプの一つにしがみつきながら、操舵室でのやり取りを呆然と見つめていた。
「機関長、両舷、機関全速だ」
「両舷、機関全速!」
「湾外に出る直前で潜航する!」
艦はディーゼルエンジンを始動させると全速力で湾外の方へ向かった。
艦長は航海士に近づいて訊いた。
「この辺りは、どれくらいの深さだ?」
「海図によれば四〇メートルほどですね」海図に向かったまま答えた。
「よろしい。潜航深度は三五。ぎりぎりで攻める」
「艦長、まもなく湾の出口にさしかかります!」
「よし、潜航開始! 機関長、深度三五だ」
「潜航開始。潜航深度三五!」
「発動機切り替え! 電動機始動」
「切り替え、電動機始動!」
後部の機関室ではディーゼルエンジンが止まって給気口が閉じられ、代わって電動機がスクリューを回しはじめる。それから乗員たちがバラストの代わりに艦の前方へ向かった。艦は前向きに、急激に傾き始めた。そして目標深度に到達すると水平に戻った。
「深度三五メートル、到達しました」
「よし、両舷電動機停止!」
「電動機停止」
「停止? 艦長、」
艦長の指令に、副長が横からささやくように言った。「ここは素早く、この海域から離脱するべきではありあませんか?」
「どうだろうな?」艦長は落ち着いて答える。「相手も同じことを考えているなら、そうした方がいいとは限らない」
どのみち今の状況で浮上航行を試みたとしても、高速で進むことができる駆逐艦を振り切るのは無理だった。
「全員静粛に!」
艦長はゆっくりと、そして静かな足取りで通信室に向かった。
「聴音は、どうだ?」
「駆逐艦が三隻。ものすごい勢いでやってきますよ」
じきに潜水艦に乗っている全員にも聞こえた。そのスクリューが発する音は、まるで蒸気機関車が鉄橋を渡るときのような轟音に思えた。
「来るぞ……」
爆雷が落とされるのではないかと全員が身構えた。しかし、敵の艦艇は潜水艦の上を素通りしていった。
とっさの判断は的確だったのだ。
「よし、」艦長は額の汗をぬぐった。
「電動機、微速前進。ここから離脱しよう」
そうして離れたところの洋上に向かって爆雷を投げ込んでいる駆逐艦や、そのほか艦艇の背後を、潜水艦はゆっくりと静かに通り過ぎて海域を離脱した。




