その9
「昔、ヨーロッパのとある国で、僕のような画家がいて、貴族の肖像画などを描いていました」
「ある時、画家は男爵令嬢の肖像画の依頼を受けました。令嬢は御歳十六、七。男爵には他に息子が三人いましたが、ことに末娘のこの令嬢を大変かわいがっていました。そこで、肖像画を是非描かせようと思ったのです。ただ、残念だったのは、その令嬢、お顔が少々残念だったのです」
一同、プッと吹き出した。私もハンカチを口元に持っていったが間に合わなかった。
「画家は大層悩みました。見たままを描くべきか、それとも美しく描くべきか。美しく描くのは簡単です。でも、画家としての信頼が揺らぎましょう。ありのままを描くのは残酷すぎる。さあ、みなさんならどうなされますか」
突然こちらに振られて私たちは一瞬戸惑った。
まず言葉を発したのは美江だった。
「どのくらい残念なお顔なのかわかりませんけど、やはり少し盛ったほうがいいんじゃないかしら。今時のプリクラや自撮りアプリの感じで」
対して留美も言う。
「でも、自分で盛るのはいいけれど、他人にされたらかえって傷つくんじゃない」
私も口を挟む。
「本人もみんなわかっているんだし、ありのままの肖像でよろしいんじゃないかしらね」
「思い切り厚化粧して、というのはどう」
私たちの議論が弾んだ。
「今みなさんがおっしゃったことを、画家も心の中で考えたことでしょう。そして考え抜いた末、あることを提案しました」
私たちは続きの言葉を待った。
「画家は、令嬢を庭のベンチに座らせると、知り合いに頼んでピエロを雇い、彼女を笑わせました。はじめは不機嫌な顔をしていた令嬢でしたが、次第に引き込まれ、たまらず笑い出しました。その笑顔はとても愛らしいものでした。画家の思った通りです。多少造作が残念なお顔でも、若い女性の笑顔が愛らしくないわけがありません。画家は、その時を逃さず、スケッチしました。一度笑い出した彼女は、もう止まりませんでした。画家は、彼女の笑顔を目に焼き付けました」
「そうして出来上がったのは、庭のベンチに腰掛け、花を手に満面の笑みを浮かべる少女の画です。画家が、なぜ庭のベンチに座らせたかと言うと、お屋敷の中でこんなに笑っているのは不自然だろうと考えたからです。画家の目論みは見事に的中しました。緑の木や花々に囲まれた少女の笑顔は自然に見え、とても素晴らしい絵になったのです。父親である男爵は、その絵を大いに気に入り上機嫌になりました。男爵夫人は、ご婦人らしい貞淑さで、笑いすぎて少々下品ではないかと言いました。令嬢本人は何も言いませんでしたが、その表情から気に入ったのだと画家は確信しました」
「さて、絵を気に入った男爵は、その絵を客間に飾るのだと言いだしました。夫人が止めても聞き入れません。夫人は、この絵を見た人が実際の令嬢を見てがっかりすることを恐れました」
一同、大いに頷いた。
「その気持ち、わからなくはないわ」
「その後、男爵のお屋敷を訪れる人たちの目に触れることとなったのですが、絵を見た人は口々に褒め称えました。男爵令嬢はまだ社交界にデビューしたばかりであまり顔を知られていなかったのですが、あちらこちらで絵の少女として噂されるようになり、男爵のサロンには、多くの客が訪れるようになりました。そして、人々は挙って絵のモデルを見に訪れますが、当の本人は相変わらず不機嫌な顔をして絵のような愛らしさを見せませんでした」
「皆さん、ガッカリなさったでしょう」
少々意地悪く美江が言った。
「ところが、意外なことに、一度令嬢を見た人、特に若い男性諸君は、何度もサロンに通うようになるのです」
「まあ、なぜ」
「彼らは皆、いつも不機嫌な顔でいる令嬢の、絵のような愛らしい笑顔を見てみたいと思ったのです。若い貴族たちはなんとかして彼女を笑わせようと、楽しい話をしたり冗談を言ったりしましたが、令嬢は無関心な顔をして聞いているばかりです」
「男心ってわからないものね」
「そんなある晩、令嬢目当てでサロンに通っている一人の若い伯爵が、彼女をテラスに誘いました。その夜は満月で心地よい風が吹いていたのです。月を見ながら世間話などしていると、どこからか庭に迷い込んだ子犬が現れました。まあ、と令嬢は驚いて、子犬に手を差し伸べると、子犬が彼女の手にじゃれついてきました。子犬があまりにも無邪気だったので、令嬢は思わず笑ってしまいました。若い伯爵はその笑顔を見て、一目で魅了されました。そしてその場で彼女に結婚を申し込んだのです」
「何てこと」
「素敵」
「結婚してからの彼女は、それまでのコンプレックスから解き放たれ、よく笑うようになり、伯爵と幸せに暮らしたそうです」
「まあロマンチック」
「素敵なお話ね」
私たちは、彼の話に、というより、話す彼にうっとりした。