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その4

 その日は挨拶の仕方から始まった。立ち居振る舞い、お辞儀の種類、それから美しい言葉の使い方だ。

 私たちは桜子が用意したテキスト、といってもコピー用紙をホチキスで留めただけのものだが、を見ながら、時には書き込みをして講義を受けた。

 桜子の喋り方はゆったりと雅やかな口調でありながらも声に張りがあった。その辺は講義慣れしていると言った感じか。

 桜子は途中で先ほどの案内役の男性を呼んで、部屋の空いたスペースに椅子を持ってこさせた。そうして、私たち一人一人を順番に椅子に座らせ、姿勢をチェックした。こういった風に人に教えてもらうことは久しぶりだったので、マナー教室に来ていることを実感し、気持ちが引き締まった。

 敬語については就職活動中や社会人になって少し学んだが、それでも普段私が間違った使い方をしていたものもあり、私は心の中で冷や汗をかいた。教室に誘ってくれた留美に感謝しよう。


 そうして一時間半の講義が終わると、桜子が言った。

「さて、今日の授業はこれでおしまい。残りの時間は、実践のお勉強も兼ねてお茶を飲みながら雑談しましょう」

 桜子の言葉を合図に、案内役の男性が衝立ての奥からワゴンを押してきた。

「こちらは進藤さん。何か御用があったら遠慮なく彼に申し付けてくださいね」

「執事さん、ですか」

 留美の問いかけに、桜子は、ホホホ、と麗らかに笑った。

「いいえ、進藤は執事じゃないわ。私専属の使用人。お教室の面倒も見てくれてるの。執事は本宅にいるから、こちらにはいないの」

 進藤は無表情のまま黙礼をした。

「先ほどから菊池様がお待ちですがどういたしましょう」

「あら。そう。せっかくだからお茶をご一緒したらいいわ」

 進藤が奥へ下がった。

 桜子は私たちに向き直った。

「いいでしょう?菊池さんは私の遠縁なの。普段ここはサロンとして解放しているから、いろいろな方々が気楽に出入りしているのよ」

 桜子の言葉が終わる前に、ワイシャツにサスペンダー姿の男が入ってきた。少々ふくよかな血色のいい顔で、若く見えるが六十代かもしれない。

 菊池というその男は、洒脱な風情で、私たちに微笑みを投げかけた。

「お勉強は終わりましたか」

 菊池は、進藤が桜子の隣に用意した椅子に躊躇なく座った。


 進藤の紅茶の入れ方には品があった。

 アールグレイの甘い香りが部屋に漂い、はじめて私を優雅な気分にした。それまで気付かなかったが、部屋にはずっとモーツアルトか何かのサロンミュージックが流れていた。

 進藤がお茶の支度をしている間、桜子と菊池は小声で話をしていた。

「先日言っていた紅茶、少々遅くなりそうで、いえ、来週には港に入るはずなんですが、もうしばらく我慢して下さい」

「待ちくたびれたわ。やはり英国の紅茶でないと」

「ええ、フランスのものと違ってナチュラルですからね」

 菊池は、美しい発音でナチュラルと言った。

 そうした会話の間に、進藤は滑らかな手際で皆に紅茶と菓子の皿を配っていった。

 ティーカップは高級そうだった。全員柄が違うカップで、私の前に置かれたのは有名なワイルドストロベリー柄のものだった。三段重ねのアフタヌーンティー・セットではなかったが、クッキーとナポリタン・チョコが品よく盛られた皿が配られた。


 全員に皿が行き渡ると、桜子は優美な微笑みを皆に向けた。

「皆さん、今日は初めてで緊張なさったでしょう。どうかしら、何か質問はあるかしら」

 その問いかけに、美江が言った。

「桜子様は華族のご出身だそうですけど、どなたのご子孫であられますの」

 私はドキッとした。

 桜子は微笑んだまま言った。

「それはお教えできないの。以前、出版社の方が私に礼儀作法の本を出さないかと言ってこられた時、どこで聞きつけたか親戚たちが現れて猛反対しましたの。家名に泥を塗ることはしてくれるなと。私は、私が受け継いだ華族の文化を後世に伝えて行くことはとても有意義だと思うんですけど。その時に、お教室を開いても構わないけれど、先祖の名前だけは決して出すなと固く約束させられましたの。菊池さんはどう」

 菊池は眉を上げ軽くおどけるような顔をした。

「私の家はさほど厳しくありませんね。分家の分家ですし、桜子さんのお家と比べたら」

 そして菊池は私たちのほうを向いて言った。

「元華族といってもいろいろあるんですよ。戦後に華族が廃止されてからは、没落していった一族も少なくありません。しかし古くから続く家は、今でも旧華族会館に集まったりしています。私の家は元々華族の末席に名を連ねていただけでしたから、早くから貿易商の仕事に手をつけて戦後も生き長らえましたがね。父の遺産は家系図だけというような私でも、ヨーロッパなんかじゃ便利なんですよ、元華族出身と言う身分が」

「そうそう、菊池さん、世界各国を飛び回ってらっしゃるから、面白いお話もご存知でしょう。何か聞かせて下さらないかしら」

 桜子が思いついたように言った。

「そうですね、先ほど執事という言葉が出てきたみたいなので、その辺のことをお話ししましょうか」

 菊池は人なつこい笑顔を浮かべた。


「近頃、皆さんも執事が活躍する小説やマンガを目にすることもあるでしょうが、日本で言う執事は大方、英国の執事を指していると言っていいでしょう」

「昔は大きな貴族の家では、執事の上にランド・スチュワード、ハウス・スチュワード、日本語にすると家令ですが、そういった家令を召し抱えていました。普通の貴族の屋敷ではバトラー、日本語でいう執事が使用人の最高地位であることが多いですね。家令、または執事の仕事は、財産管理や使用人の管理が主です。皆さんもご存知かもしれませんが、昔の英国貴族は、今よりもっと栄えていました。山手線の内側くらいの領地に部屋数が百を越える屋敷、それに別宅をいくつも持ち、本宅だけでも数百人の使用人を雇っている貴族も珍しくありませんでした。その土地や屋敷、財産、使用人、それら全てを管理するのは大変な仕事ですよ。来客の応対などもしなくてはなりません。ですから、訓練をし優秀な人間でなくては家令や執事の仕事は勤まりません」

「加えて、礼儀作法も完璧であることが条件でして、執事は概して良家の出身なんですね。優秀な家令や執事になると、主人より品格があるものですから、主人と区別するために黒服を着るようになったと言われているんですよ」

 菊池は軽妙な口調で手振りを交えながら話をした。その様子はとても洒脱に見えた。

 私たちは講義を聴くように菊池の話を聞いていた。

「英国貴族の間では、有能な執事を雇っていることが主人の格を上げるとも言われています。そこでみんな良い執事を召し抱えようとするんですが、時には失敗もありましてね。例えばある成り上がりの田舎貴族は、雇った執事が自分より美しい英語を話し自分よりも品があるので、嫉妬して解雇してしまった、ということもあるんですよ」

「あらまあ。冗談のようなお話」

 留美が率直な感想を口にした。

「ええ、世の中には冗談のような事実がたくさんあるんですよ」

 菊池は目を細くして微笑んだ。

「現在は、昔のように貴族も遊んで暮らせる時代ではありませんから、領地や屋敷の規模も小さくなりましたし、たくさんの使用人を雇えるほどの貴族も少なくなりました。ただ、今でも英国の執事の質は世界最高峰で、世界中の富豪たちから引く手数多、ヘッド・ハンティングも行われているんですよ」

「執事のヘッド・ハンティング、ですか」

 私もつい聞き返した。

「ええ。そうです。英国の経済が衰退していった時代、入れ替わりにアメリカやアラブ諸国の経済成長が著しくなり、アメリカで事業に成功した大富豪、石油王などが挙って英国人の執事を雇いたがったのです」

 桜子が口を挟んだ。

「英国人は最も執事に向いている人種だって聞いたことがあるわ。他のヨーロッパ人やアメリカ人には執事は勤まらないって」

「その通り。英国以外の欧米人はすぐ感情を表に出してしまうので、不向きなんですよ。その点、英国人はポーカーフェイスが得意ですから。日本人なんかも向いているんじゃないかと私は思うんですがね。こちらの進藤さんもいい執事になると思いますよ」

「そうね。確かに日本人もいいかもしれないわね。よく、日本人は表情が読めなくて何を考えているかわからない、と言われるもの」

 突然、美江が口を挟んだ。

「でも、執事さんが全部お仕事をしてしまうんだったら、貴族本人は何をしているんですか。それこそ遊んで暮らしているんですよね」

 美江はハキハキと言った。同じ活発な物言いでも留美と違い、美江はどこか不躾な印象を受ける。

 一方、真奈美は皆の言葉に頷いたり相づちを打ったりするばかりで、口数が少なかった。この教室へは美江に誘われて来たのだろうと推測される。

 菊池は思わぬ意見に大げさに驚いた顔をしてみせた。

「貴族が贅沢三昧で遊んで暮らしていたのも昔の話。今の時代は貴族に対する優遇はほとんどないんですよ。むしろ、莫大な額の相続税や固定資産税を支払えずに、土地や歴史のある屋敷を売却せざるを得ない貴族も多いんです。それでも貴族は楽でいいなあなんて思っておられるかもしれませんが、それ相応の責任を担っていることもお忘れなく」

 そして全員を見回すようにして言った。

「皆さんはノブレス・オブリージュという言葉をご存知ですか」

 菊池の問いかけに、私はおそるおそる手を挙げた。

「えっと、何かで見たことがあります。確か貴族や富裕層の人たちが慈善活動をすることじゃなかったでしょうか」

 菊池は大きく頷いた。

「ええ、そうです。貴族や富裕層は社会に貢献する義務がある、という考え方です。でもね、慈善活動だけじゃないんですよ」

 彼は身を乗り出して話し始めた。

「もちろん、直接、福祉団体や施設に寄付をする場合もありますし、孤児を引き取ることもあります。でもその他にも社会に貢献する方法はいろいろあるんですよ。例えば、たくさんの使用人を家においているのもそうです。一見無駄に思えるような仕事のために人を雇っているように見えますが、そうやって雇用を増やしているわけです」

 私はなるほどと頷いた。

「それから、他の人がやらないようなお金にならない仕事をするのもノブレス・オブリージュです」

「先ほどのご質問のように、貴族というと仕事もせずに遊んで暮らしていると思われる人も多いでしょうが、英国では、広大な領地からの収入だけでも充分裕福に暮らせるのに、さらにお金を稼ごうとするのは賎しいことだと思われていました。ですから、仕事はしない、或はほとんどお金にならない名誉職に就くなどしていました。昔は、環境が悪い植民地の現地外交官も、貴族の子弟が赴任していました。治安判事の仕事も、貴族が給料無しで引き受けていたんですよ」

「他にもまだあります。文化を育てる。芸術家のパトロンになって、文化や芸術を育てていくのも貴族の仕事です。それらの習慣は日本にも渡ってきましたね。例えば、よく皇族の方々が生物学の研究をなさっている話を耳にしませんか」

「あ、ナマズ」

 留美が漏らした。

「ええ、それです。皇室にも、必ず何か人気のないような研究をしなくてはならないという決まりがあるんですよ。皆さん、なぜナマズの研究なんか、とお思いになるでしょうが、他に研究者がいないようなことを研究するのが皇族のお仕事なんです。お金にならないからといって誰もやらなかったら、その分野はいつまで経っても発展しませんからね」

 私たちは口々に言う。

「確かに、ナマズの研究は人気がなさそうですよね」

「今まで、どうして皇室の方たちっておかしな研究ばかりなさっているのかと不思議でしたけど、理由を聞くと納得しました」

 私たちの反応に、菊池は楽しそうだった。

「まだありますよ。最も重要な仕事、それが兵役です。ヨーロッパなどでは、古くから貴族が率先して国を守る義務がありましてね。どこぞの国のように、偉い人は戦地に行かないのとは大違いですな。そのため、バラ戦争や第一次世界大戦の時には、一般男性よりも貴族の死亡率が高かったんです。特に第一次世界大戦では多くの貴族が戦死し、中には跡取りがなくなって家が取り潰されるケースもありました。今でも、英国王室の男児は兵役を経験しますし、恵まれた身分の人間は社会に奉仕する、これがノブレス・オブリージュの考え方ですね」

「はああ」

 初めて知ることばかりで、私の口からは感嘆の言葉しか出てこなかった。

「よく大リーグの選手が寄付をしたりしているのも」

 と言う留美の後を菊池が引き継いだ。

「それも、ノブレス・オブリージュに倣ったことです。桜子さんがマナー教室をなさるのも、一種のノブレス・オブリージュですね」

 菊池はちらと桜子を見た。

「そんな大層なものじゃないわ。第一、私、授業料をいただいているもの」

 桜子は関心がなさそうな口調で言った。

「無料で奉仕するだけが脳ではありませんよ。英国で有名な公爵のパーティーがありましてね、年に一度、領民たちを招待して食べ放題飲み放題の祭りを開いているんですが、無料でなくお茶一杯分程度のお金を支払わせています」

「どうして。お金持ちなのにケチ臭くありません。タダにしてしまえばいいのに」

 と美江。

「あら、私、何となくわかるわ。人って無料だと却って遠慮しちゃうんじゃありません。お金をいくらか払っていると、思う存分食べられるの」

 そう返した留美に、菊池は穏やかな微笑みを向け人差し指を立てた。

「その通り。無料でお屋敷に招待されたら手土産の一つも持って行かないと、などと考え、逆に負担になってしまいますからね」

 その後も菊池は、昔の貴族の逸話などを面白おかしく話した。それらは私の好奇心を存分に満足させた。

「菊池さんは何でもお詳しいのね」

 桜子が言った。

「世界各国で商売していると、その国々の歴史もある程度知っておくのが礼儀ってものでしてね」

 菊池は本当に物知りだった。私たちの質問にも難なく答えた。元華族という人種はこういうものなのかと感服した。

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