その3
教室の初日は、九月第二週の水曜日、残暑が厳しい午後だった。
「こんな格好でいいのかしら」
駅の待ち合わせ場所に、留美はおしゃれな半袖のチュニックにタイトなパンツ姿であらわれた。
「私も、何着ていいのかわからなくて。あまり張り切った格好すると田舎者って思われちゃうような気がして、かといってTシャツGパンでもね」
私は半袖のブラウスに膝丈のスカートだった。
「こういうの、恵理ちゃん誘うのどうかなとも思ったんだけど、一人で行くのもちょっと不安だったのよ」
留美は、教室へ向かう道で言った。
「ううん、私もちゃんとしたマナーとか知らないからいい機会」
「私、下町の生まれじゃん、セレブとかお嬢様とかそういうのと無縁だったから。今度の法事のことだけじゃなく、この歳になるとそれなりにちゃんとした席に出る機会もあるだろうし、そういう時、ちゃんとしていたいなーと思って」
他のママ友と違って、留美は本音を隠さないところが付き合いやすい。
「私もそう。普通の地方公務員家庭だったし、礼儀作法なんてうちの母親もいいかげんだったから」
教室の場所は、私たちの住む街から三つ先の駅から五分ほど歩いたマンションの一室だった。
私たちは日傘を片手に、日陰のない道をうっすら汗をにじませながら歩いた。
「地図でいったらこのマンションよね」
留美と私は、大通りから入った道路沿いにある小ぶりのマンションの前に立った。特に豪華でもなく、ごく普通の外観である。私が住むマンションより古そうだ。
白亜の館とまではいかなくとも、高級マンションなのだろうと期待していた私は、少々拍子抜けした。
小さなエレベーターに乗り二階の部屋を訪ねると、黒いスーツを着た初老の痩せ気味の男性が出迎えた。
「増田様と佐藤様ですね。お待ちしておりました」
玄関も一般的なマンションの玄関で、右側の壁にはアールデコ調の鏡が掛かり、左側のシュークローゼットの上にはキノコ型のランプが置かれていた。
これは知っている、と思った。高級な芸術品だ。私は、高級感を探し求めた。
廊下にはチャコールグレイ色のカーペットが敷きつめられていた。靴を脱ごうとした私たちに、そのままでどうぞ、と案内の男性は言った。
奥の部屋へ先導する彼に聞こえないように、留美が耳元で囁いた。
「執事って人かな?」
彼は、短い廊下の突き当たりの、ガラスの入ったドアを開けた。
「こちらへどうぞ」
十畳ほどの部屋の中は、マンションの外観同様、私の期待を裏切るものだった。
壁は上品な淡い花柄の壁紙で覆われ、床は廊下と同じカーペット、正面の大きな窓にはごく普通のレースのカーテンとローズレッドのカーテンが二重にたらされていた。
部屋の中央にベージュと紫を基調とした絨毯、そこに薔薇の花柄のテーブルクロスに包まれた大きな丸テーブルが置かれていた。その上の天井には、飾り気のないつるんとしたシーリングライトが部屋を照らしている。
右の壁には明るい風景画、左の壁は上から下まで窓と同じカーテンで覆い隠され、その壁際には二人掛けのサロンソファとカフェテーブルが置いてある。
入口のドアの右側には布製の衝立てがあり、案内役の男性はその奥へ消えた。おそらく奥にも部屋があるのだろう。
マンションの外観通りの部屋に、私は再びガッカリした。そこにはノーブルもエレガンスも感じられなかった。アンティークの飾り棚もなければ、シャンデリアもなかった。
「初めまして、留美様と恵理様ね」
立ち上がって私たちを迎えたのは、藤色のオーバーブラウスに身を包んだこの教室の講師、桜子であった。
少々ふくよかな身体の線を隠すように、フリルで飾られたブラウスは腰の辺りまであり、その下の黒いスカートは足首まであった。肩より下まである黒髪を大きくカールさせ、フランス人形を模したように目を大きく見せる化粧をしていた。
彼女は、私たちを椅子に促した。
部屋中央の丸テーブルを囲んで、既に二人の女性が座っていた。私たちより幾分若いだろうか。
桜子は、一番奥の席に座ると言った。
「皆さん、ようこそいらっしゃいました。私がこのマナー教室の講師、桜子です。ここで皆さんとお会いできたのも何かのご縁、どうぞよろしくお願いしますね」
桜子は、私たち生徒の名前を確認した。
「ここではお名前で呼ぶことにしましょう。そちらから、真奈美様、美江様、留美様、恵理様、ね。私のことは桜子と呼んで下さいね」
それから今後の講義内容の説明をした。
私は桜子の顔をまじまじと見た。「桜子」という名前は華族によくある名前なのだろうか。貴族ごっこに興じた「桜子」と歳も同じくらいにも見えるが、おぼろげな面影しか浮かばない少女時代の知人と、この年齢の女性を比べるのは困難だった。
彼女から私を見た印象も同じだろう。結婚して姓が変わっているし、彼女が気づくとは思えない。
ただ、もし彼女が私の知る「桜子」なら、華族でも何でもない、少女時代の貴族ごっこを今でも続けている女性なのだ。




