その17
しかし、終わりは訪れた。
翌週、桜子からメールが届いた。
家族の都合で急に海外に行かねばならなくなり、教室を一旦終了したいということだった。BCCだったが、留美にも届いているだろうと思い電話した。
「きっとあの弁護士さんから何か言われたのよ」
留美の口調は憤慨している風だった。
「お教室を再開するときは是非声をかけて下さいって返信したら、返事が来た。桜子様がいなくてもサロンはそのままらしいから、時々顔を出してちょうだいねって」
「サロンはそのままなんだ」
「うん。近いうち行ってみる」
私たちは、菊池とも朱鷺男とも連絡先を交換したことはなく、それどころか彼らのフルネームすら知らなかった。
「そうね、このままお別れってのも寂しいし」
次の教室が開かれるはずだった水曜日、留美と私は桜子のサロンを訪ねた。
インターホンを押し、いつものように進藤がドアを開けるのを待ったが、何も反応はなかった。
私がもう一度インターホンを押している間、玄関脇の電気メーターを見ていた留美が言った。
「誰もいないみたい」
「え」
「インターホンも、ほら、電気通ってない」
「てことは」
「もしかしたら、もう引っ越しちゃったかもしれない」
「でも、こないだメールもらったばかりなのに」
「わかんない。とりあえず今日は帰ろう」
その後、私も留美も、二度と桜子のサロンを訪れることはなかった。
考えがあってのことではない。二人とも子供の学校行事や年末年始の忙しさに気を取られていたのだ。
私は以前と同じ生活に戻った。パートタイムで働き、家事に追われ、子供の学校行事に頭を悩ませる日々を送っている。
留美と私は、桜子の教室で覚えた作法を時々口に出してみる。
「でもやっぱり普段の生活にそぐわないのよねえ、こんな言葉遣い」
留美がため息をつく。
「ほんと。でも使わないと忘れちゃうから」
私も同感だった。
「あ〜あ、早く桜子様のお教室、再開しないかしら」
いつまでたっても、桜子から教室再開の連絡は来なかった。
桜子は今頃どうしているだろうか。そして菊池や朱鷺男、進藤も。
インターネットを使いこなす留美なら、その気になれば彼らの正体を調べられるかもしれない。
しかし、彼女がそれをしなかったのは、また、私も留美に提案しなかったのは、お互いの実体を知るのは貴族ごっこのルールに反する気がしたからだろうか。それとも、彼らの正体を知り夢から覚めるのが怖かったのだろうか。
彼らが本当は何者で、日頃どこで何をして過ごしているのか想像もできない。本当に有閑階級の暇つぶしだったのかもしれないし、そうでないかもしれない。
でも私には、彼らも私と同じように現実社会のしがらみから解放され、たまゆらの自由を求めてサロンに集まっていたように思えるのだ。
桜子のサロンでは、自分が思い描く姿になれるし、それを誰も咎めたりしない。制約も束縛も過干渉も強制もない、全てを許容する空間。何と気楽で居心地の良い場所だったことか。
桜子は、今もどこかで桜子のサロンを開き、そして私たちのような人間の待避所を、秘密の屋根裏部屋を、それを求める人間に解放し、貴族ごっこを続けているのだろうか。
三たび私に、桜子の貴族ごっこにつきあう時は来るのだろうか。(了)




