その15
そうして文化祭も無事終わり、清々しい秋の午後、私は四回目の教室のドアを開けた。
その日も顔を出したのは菊池だった。
「今日は私が執事です」
菊池は大げさに礼をした。
私は自分の落胆を隠すようにホホホと笑った。
その日の講義内容は、贈答のマナーについてだった。
私たちが授業を受けている間、菊池はソファに座って、時折口を挟んでは桜子にたしなめられていた。
しばらくすると、いつの間にか菊池は奥に消え、代わりに朱鷺男が現れた。
私の胸が高鳴った。
そんな自分を気恥ずかしく思い、頬が熱くなった。
やがて講義が終わり、菊池が奥から紅茶セットを持って出てくると、朱鷺男はソファから立ち上がり、菊池を手伝って皿を並べた。
私は、何と心地よい時間だろうとウットリしながら二人を見ていた。
「ご苦労様。さて、今日は何のお話をして下さるのかしら」
お茶を配り終えた菊池に、桜子が席を譲った。菊池は桜子のいた椅子に座り、桜子は背後のソファ、朱鷺男の横に腰を下ろした。
私は、朱鷺男のジャケットのボタン穴に差さった小菊が気になった。オリーブグリーンの地に薄紫の花がさりげなく映える。自分で飾ったのだろうか、それとも誰か女性の仕業か。
「先だっては朱鷺男君がとてもロマンチックな話を披露したそうで、私は朱鷺男君のようなロマンチックな話は出来ませんが、まあ、似合わないので」
ホホ、と皆、揃えた指先を口に寄せて笑った。貴婦人らしい仕草もすっかり身についた風に。
「そうですね、では、平安時代の貴族の恋愛事情の話でも」
菊池の言葉に朱鷺男が口を挟んだ。
「菊池さんの得意分野ですね」
菊池は朱鷺男に軽くウインクした。
私は、日本人でこんなにウインクが様になる男性は珍しいと思った。
「平安時代の恋愛といえば源氏物語。皆さんも全部は読んだことがなくても、大まかにはご存知でしょう」
菊池は、私たちが全員頷くのを確認して話を続けた。
「皆さんご存知のように、光源氏は恋多き男性でした。ですから、平安貴族の恋愛はあのように皆、自由奔放だと思われがちですが、源氏物語はあくまでも架空のお話、実際は案外そうでもないんですよ」
「当時、身分の高い男女は政略結婚が基本でした。今のような恋愛結婚はほとんどありません。光源氏の結婚も、本人の意思とは関係なく、父親と左大臣の間で決められましたね。でも、当時は一夫多妻制でしたから、男性の場合は政略結婚しても他に何人もの妻を持つことができます。不倫なんて言葉はありません。経済力さえあれば何人でも妻を持てますし、恋愛も自由にできます」
菊池は歴史の講義をするように話を進めた。
「一方、女性はどうでしょう。親同士が決めた結婚をするのは、女性も男性と同様です。男性と違うのは、女性は外に出ませんから男性のように異性と出会って恋愛することが難しい、というところです」
私は菊池の話に耳を傾けつつ、視界の端に朱鷺男の姿を感じていた。
「この時代、身分の高い女性は特別なことがない限り人前に姿を現しませんでした。今のように街で買物をすることもなければ、散歩もしない、外出する時は車、自宅にいるときでも御簾や襖の向こうにいて、身内以外の男性には姿を見せません。そんなですから、男性と出会いたくても機会がないのです」
「庶民ならば市や祭りでの出会いもあり、宮仕えしている女性なら貴族との出会いもありましょう。ですが、宮仕えもしていない上流階級の娘はそういったこともなく、自由恋愛など夢のような話だったのです」「ところで男性ですが、先ほど男性は妻以外の女性とも恋愛すると言いましたね。でも、女性は外を出歩かない。それでは一体どうやって女性と知り合うのでしょう」
私たちは顔を見合わせた。
「そう言われればそうね」
「源氏物語の中では、訪問先の家に女性がいるとすぐに手を出していたけれど」
「そうですね」
菊池は苦笑した。
「異性との出会いがなかったのは男性もそうでしたからね。そういった風にたまたま若い女性と出会うこともありましたけれど、ほとんどが口コミでしょうか」
「口コミ、ですか」
「例えば、ある貴族が知り合いの貴族の家を訪れた時に、御簾の向こうにちらっとその家の娘を見たとしましょう。日頃若い女性を見慣れていない彼は、着物や髪の毛、あるいは残り香や声の感じで美人だと判断します。その後、友人たちに、何処其処の家に美人がいた、と話し、それが広がって行くんです」
ソファの桜子はあまり興味のなさそうな顔でいたが、朱鷺男はニヤニヤして聞いている。
「また、上流階級の家に仕えている使用人たちは、我が主人の娘は美しい、と噂を立てることもあります。使用人たちは、自分の親戚や、市で会う他の貴族の家の使用人に言いふらかして、美人だという噂が貴族の子弟に届くようにするんです」
「で、そういった噂を聞いた男性たちは、先を争って顔を見たこともない女性にラブレターを送ります。あなたに恋いこがれています、というような和歌を詠んで」
「え。噂だけで顔を見たこともないのに、ですか」
留美が不思議そうに聞き返した。
「ええ。昔は日本の男性も今よりずっと軽かったんですよ。若い女性がいたらとりあえず文を送って口説いてみる、という。今のイタリア男性気質ですね」
「まあ、ほんとに」
私たちは半ばあきれたように笑った。
「それで女性は返事の歌を返すのですが、その歌が優れた歌だったら男性は本腰を入れて口説き始めます。そうして何度か文をやり取りして、やっと会うことになります」
「会ったら不美人だった、なんてこと、ありません?確か源氏物語にもそんな話が」
私はうろ覚えの知識で言った。
「末摘花がそうでしたね。末摘花の話は源氏物語の中でもとても興味深い」
菊池は大きく頷いた。
「常陸宮の姫君、末摘花は、皇族という高貴な身分ながら、両親を亡くした後は寂れた邸で誰の援助もなく佗しい暮らしをしていました。その気の毒な姫君の話を、親しい命婦から聞いた光源氏は興味をそそられ、同じように興味を持った頭中将と張り合って姫君に文を送ります。先ほどお話しした、見たこともない女性に噂だけでラブレターを送るというパターンですね」
私たちは頷いた。
「源氏がいくら文を送っても返事がこない。どうやら頭中将も同じようだ、と。そうなると頭中将へのライバル意識で、光源氏は何とか頭中将より先に姫君と関係を持とうとします。このあたりは女性への関心というよりは、男性同士の競い合いですね」
菊池はちらと朱鷺男を見た。
朱鷺男は目元に笑みを浮かべ、何か言いたそうな顔をしている。
「やがて命婦の仲介で会うことができ関係を持ったのですが、姿を見たらとても不細工で、それでも光源氏は何とか一生懸命良いところを見つけようとします。ようやく、長い髪が綺麗だ、とそれだけ気付きました」
「末摘花に対する扱いは、ここまで酷く書くかというくらい、酷い書き方です。容姿の醜さだけでなく、服装や歌の才能、贈り物のセンス、やることなすこと全てが古臭くてダサい、と。光源氏は逆に、このような姫君なら自分の他に近づく男はいないだろうと同情し、面倒をみる決心をして、それが彼の優しさを際立たせることとなったのですが。その後も末摘花は物語に何度か登場し、長く光源氏の世話になります」
「この末摘花に関しては、紫式部の考えを色濃く反映しているんじゃないかと言われています。始めのうちは、高貴な身分に囚われ没落したことを受け入れられず時代遅れで新しいものを受け入れない人物としていますが、後の話では皇族としての誇りを保ち俗物的なことに流されずに生きていると評価しています。紫式部の中でも何か変わったのかもしれないと思われています」
「菊池さんに末摘花を語らせると長いですよ」
と朱鷺男が茶々を入れた。
菊池は穏やかな笑みを浮かべて皆を見回した。
「そうですね。ええ、この辺にしておきましょう。興味がおありでしたらまたの機会に。そうそう、男女の恋愛の話でした。ですから、顔の美醜はさほど大きな問題ではないんですよ。本妻でなければ夜会って朝方には帰るので、昼間の明るい時間に顔をはっきり見ることも少ないですし、今と違って当時の夜は暗いでしょう、真っ暗な部屋で行灯ひとつで顔を見るわけですから、顔よりも教養や機知に富んだ会話に歌の上手さ、髪の美しさや香りなどのほうが重要視されるんですね。顔は重要ではないんですよ」
「うらやましい時代」
桜子が初めて口を挟んだ。
私もくすっと笑った。
「そんな風にして、会うまでに文をやり取りし恋愛相手を見極めるのですから、男性も女性も相手に送る文に教養や人柄、センスをにじませなければなりません。和歌が上手であったり文字が綺麗なことが必要とされます。でも、皆が皆、和歌が上手ではないでしょう。そこで代筆屋の出番です。歌のうまい知り合いに歌を作ってもらうことも、結構頻繁にあったようですよ」
「いつの時代にもあるんですね、そういうこと」
「まるで、今の時代にネットで嘘のプロフ写真使ったり、経歴詐称するみたいですわね」
美江が微かに意地悪い微笑みを浮かべ言った。
私は横目で桜子の表情を窺ったが、彼女は退屈そうな顔を変えなかった。
「ええ、いつの世も、人が考えることは一緒です。昔の人も、皆さんが今、恋愛小説や恋愛映画を楽しむように、自分ができないような恋愛に憧れて源氏物語を読んでいたのです。百人一首の歌の中にも恋に身を焦がす歌が幾つかありますが、あれは必ずしも実体験ではないんですね。まあ、当時の男女は、相手よりも恋愛というものに憧れている、といった風でしょうか。小説が全て私小説でないように、和歌も想像で作っているわけです」
菊池から同じ話を何度も聞かされて飽き飽きしているのか、桜子が話を変えた。
「光源氏と言えば、先日パーティーでお会いした演出家の方、なんておっしゃったかしら、朱鷺男さんを光源氏役で映画を撮りたいっておっしゃっていたわね」
私たちは目を丸くした。
「リップサービスですよ。桜子さんのご機嫌を取るためです」
「貴方は地で光源氏をやってるから興味がないのね」
桜子は茶化して言った。
「僕は博愛主義なだけですよ。意地悪だなあ」
朱鷺男はバツが悪そうに笑った。
朱鷺男に軽口をたたける桜子をうらやましく感じる自分がいた。
こんなお茶会は、学生時代に読んだ「ドリアン・グレイの肖像」を思い出させる。もちろんドリアン・グレイは朱鷺男。ヘンリー卿は菊池か桜子だろうか。私たちはその他大勢の、サロンに集う貴婦人だ。
私は現実の生活では優雅な貴族のように振る舞うことはできないし、それを望んではいない。でも、ここにいる間は私は確実に貴婦人である。
私は、この甘く麗しい時間がずっと続けばいいと思っていた。もしこの先、中級コースも受講したいと言ったら、留美はどんな顔をするだろう。




