その1
「貴族ごっこをしよう」
クラスメイトの直美がそう言い出したのは、小学四年の初夏であった。
この時期は学校生活の中で一番退屈な時期である。遠足も終わり、しばらくはこれといった学校行事もなく、夏休みのことを考えるにはまだ早い。私たちは暇を持て余していた。
「貴族ごっこって、何するの」
もう一人の友人、陽菜が訊いた。
直美は既に貴族気取りで言った。
「私たちは貴族の末裔、そのことを隠して一般市民の生活をしているの。でも、気持ちはいつも貴族の気持ちでいなければならないの。私たちが貴族に戻るのは、この三人の前だけ。よろしくて」
私はわかったようで、わからなかったが、とにかくやってみようということになった。
「何しろ暇だし」
陽菜も同意した。
直美は、貴族のことも勉強しなければならないと言った。貴族の歴史、生活習慣など、諸々。私は面倒くさかったが、陽菜は「その辺は直ちゃんに任せるわ」と言った。
私たちはほとんど毎日一緒に帰り「ごきげんよう」と言って別れた。そのやり方は、近隣のお嬢様学校の挨拶を倣った。
私たちが通う小学校は公立である。私の家は、父は市役所職員で、貴族とは程遠い普通の家庭だった。直美の父親は商店街で飲食店をやっていたと思う。貴族だの華族だの、そんな家系ではないと思うが確かではない。陽菜の家も似たようなところだ。
私たちは、休み時間に三人揃うと貴族ごっこを始めた。直美の提案で、私たちは貴族らしい名前で呼び合うことになった。直美に言わせると、「それが本当の私たちの名前」だそうだ。直美は自分のことを「桜子」と決めた。
「さくらこ。おじいさまが名付けて下さったの。私が生まれる一週間前に皇居のお花見に招待されて、その時の桜が大層美しかったとおっしゃっていたわ」
直美、いや、桜子はそう言った。
「桜子様のおじいさまって、たしか貴族議員の議長をなさっていた方でしょう」
私も話を合わせる。
「桜子様の桜は、皇居の桜なのね。いつかお后様となられて皇居にお入りになるのかしら」
小説か何かで読んだ貴族の話を切り貼りしたような会話である。私たちは、そんな現実離れした話をしていた。こんなくだらないことでも、少女時代の私たちには充分な退屈しのぎになったのだ。
しかし、貴族ごっこはそう長くは続かなかった。
その年の秋、陽菜が転校することになったのだ。
陽菜の父親は、不動産関連の仕事をしていたらしいのだが、バブル崩壊の関係なのか、一家は名古屋にある父方の祖父母の家へ引っ越すという。
詳しい事情はよくわからなかったけれど、私は陽菜に問うこともなかった。
転校が決まって陽菜は泣いていた。
「離れていても友達だよ」
私はそんな陳腐なことしか言えなかった。
直美は言った。
「名古屋には私の叔父の別荘があるわ。緑子様、いつかきっと戻っていらしてね」
陽菜はハンカチを顔に当て下を向いたままだった。
「こんな時にくだらない遊びはやめて」
私は直美を責めるような口調で言った。
直美は黙った。
陽菜が転校して行った後、直美とはいつの間にか疎遠になった。その後の私の想い出に直美は登場しない。