夏の夜の隣の貴方
「今日は来てくれてありがとね?」
「ふん! 勉強の行い過ぎは逆に集中力の低下に繋がるからな。少しは息抜きも必要さ」
狭い人混みの中、腕を組み我関せずの貴方の眼鏡に花火の光が反射する。背が高い貴方は私よりも花火に近い世界が見えているのかと思うと、少しばかり羨ましい……。
でも、何だかんだ言いながらこうして来てくれる貴方の事……私は好きよ、愛してる。
「花火なんて金属を燃やして得られる炎色反応を楽しむ俗世の代物さ……」
「へぇ~そうなんだ」
「……昨日教科書で見た」
(炎色反応なんて久々に聞いた……)
貴方の眼鏡は色取り取りの花火で鮮やかに光り、その奥の瞳は見ることが出来ない。どちらも見たい私は少しばかり贅沢だろうか?
この蒸し暑い夜でも机に向かっていた貴方に、私は何と声を掛けるべきか。「お疲れ様」と労いたい気持ちと「一緒に居たい」と時間を奪いたい気持ちで、私の頭の中は花火よりも赤くなっている。
「ねぇ―――」
「こんなに人を集めて火薬燃やして何が楽しいんだ?」
決して花火から視線を逸らさず『今』を疑う貴方に、私は軽く2本の指で貴方の袖をつまんだ。
「……俺はそろそろ帰るよ。まだ三平方の定理の問題の途中なんだから」
「……」
私の指先を離れる袖に見えない糸を馳せるも、その糸は遥か先へと伸びていく。人混みに掻き消され行方の分からなくなった糸を私は何もせず呆然とした。
彼の居なくなった後の花火はとても味気なく、全てが虚構で偏屈な科学の世界を目の当たりにしている様な寂しさが忍び寄っていた。
「君、一人?」
横から声を掛けてきた酔ったお兄さん。サンダルに短パンの組み合わせ。脛が生理的に気持ち悪い。
「奇遇だね、俺も一人なんだ。良かったら一緒にどう?」
「すみません、まだ彼が居りますので……」
「あっ……そぅ……」
立ち去るお兄さんは私の視界から消えるより早く、他の女性にナンパを仕掛けていた。私は見えない糸の行方を気にしつつも、机に向かう彼の事を考えた。空にはまだ沢山の炎色反応の実演が所狭しと行われている。
「……助けてくれ」
振り返るとそこには息を切らした彼が居た。普段運動しない彼が走って来たのかと思うと少しばかり笑みがこぼれた。
「どうしたの?」
「何故か勉強に集中できない……何故だ?」
貴方のしっとりと汗ばんだ額に私はハンカチを当てた。だから貴方が好きなの……。
「ストロンチウムにカリウムにナトリウム! ラザホージウムにアクチニウムにフェルミウム!!」
「落ち着いて、ね。後半の放射性物質は花火とは関係無いと思うな」
「分からない分からない分からない分からない!」
取り乱す彼の背中に手を当て優しく撫でる。こうなった落ち着くまで待つしか無い。慣れない事に弱い彼は初めての事に出会うと大抵こうなってしまう。ただ、今はそれが少しだけ……嬉しく感じた。
「かき氷は全部同じ味! くじ引きは当たりが入ってない! ゴミは散乱するし焼きそばは油っこい!」
「去年の射的は?」
「……楽しかった♪」
私は彼の背中を指の腹でトントンとした後撫でるように背中の上を回した。彼は落ち着きを取り戻すといつもの眼鏡を上げる仕草を見せた。
「……すまない」
「ん~ん。それで、これからどうする? 勉強する?」
「ダメなんだ。何故か机に座ると……」
「どうしたの?」
「何故か…………あああああ!!」
再び取り乱してしまった彼。慌てて背中を摩る私。少し意地悪だったか……それでも貴方の口から聞いてみたい、今の続きを。貴方の言葉で。
「……すまない」
「ん~ん。大丈夫」
「今日はもうダメだ。これも全て美奈のせいだからな……!」
「ふふ、ごめんね」
眼鏡に映る花火で彼の瞳は見えないが、彼の口元はしっかりと笑っていた。だから貴方がたまらなく好きなんだよ? これも全部貴方のせいなんだからね?
彼の袖へと指をかけ、射的へ向かう彼の姿に想いを乗せる私。
「ところで勉強で分からない事があるんだが……」
(お、珍しい。貴方が人に勉強の事を聞くなんて……)
「どうして三角形の内角の和は180°になるんだ?」
(あちゃあ~……三平方から戻っちゃったか)
私は小さな子供から大きな大人まで賑わう射的屋を指差して彼の顔を見た。
「お祭りの後で教えてあげる♪」
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