僕と妹の間に隠し事は無し
家に着いた時にはもう七時を回ってしまっていた。
いつもは五時半頃に帰っていることを考えると、とんでもない大遅刻である。……家に帰るのに遅刻するってどういう事なんだ?
「た、ただいま……」
怖々とドアを開け家に入ると、玄関で妹が仁王立ちしていた。思わず身構えてしまう僕。
「やーっと帰ってきた。ほらほらお兄ちゃん、夜ご飯冷めちゃうよ」
だが予想に反し、おどけた調子で僕を急かしてくる妹。ちょっと待て、まだ靴脱げてないから。落ち着いて。
「と、父さんは?」
「まだー。お仕事なかなか終わらないんだって。大変だねー」
うーむ、どうやらあまり怒っていられないご様子。不思議だ。『こんな時間に帰ってくるお兄ちゃんなんかにあげるご飯は無いよ!』くらいは言われると覚悟していたのだが。
手洗いうがいをしてから席に着くと、僕の目の前のテーブルに肉じゃががでんと置かれた。芳ばしい香りに食欲が刺激されて、ついつい涎が出てしまう。僕とした事がはしたない。
そして味噌汁である。見たところ、こちらにもじゃがいもが入っているようだ。どうなっているのだ、今日はじゃがいも祭りか?
「北海道のおじいちゃんおばあちゃんが送ってくれたの。嬉しいけど、私達二人じゃちょっと食べ切れないくらいの量をね」
妹が苦笑しながら説明してくれた。なるほど、北海道の。食べ終わったらお礼の電話をしておかなければならないな。
最後に茶碗一杯のご飯。個人的に、米と肉じゃがの組み合わせは最高だと思うのだ。自然と笑みが零れた。
『いただきます』
手を合わせて、目の前のご飯に齧り付く。
「美味い!」
なんだこれ!ただの白米なのに物凄く美味い!おかず無しで食べ切れちゃうぞ!?
「こらこら、おかずも一緒に食べなきゃ」
「う、うん」
昼食を食べてから優に六時間が経過している。空腹は最高のスパイスと言うが、これ程までに劇的な効果があるものだったとは。これからはお腹が空いた時にご飯を食べることにしよう。
「じゃ、じゃあこの肉じゃがを……」
「うん。……なんでそんなに手が震えてるの?」
白米であれほど美味かったのだ、僕の大好物である肉じゃがは一体どうなる?僕はあまりの感動に咽び泣き、妹を心配させてしまうかもしれない。
「もしもの時はよろしくね」
「へっ?」
僕は妹に断りを入れると、覚悟を決めて、それを口に入れた。
───肉じゃがの美味さは筆舌に尽くし難いものであった。したがって、それがいかに美味であったかを語ることは出来ない。
ただひとつ、分かったことがある。
人は本当に美味しいものを食べた時、感動に打ち震えて涙するのではなく、口元が緩み、自分でも意味のわからぬまま笑ってしまうらしい。
天国もかくやと思われた夕食が終わり、自室で日課の勉強をしていた僕は、ノックの音に耳を傾けた。
「お兄ちゃん、お風呂湧いてるけど」
分かってはいたが、ノックの主は妹であった。妹でなかったら怖かった。
「いや、まだ区切りが悪いから先入ってくれ」
もう少しで問題集が一冊終わりそうなのだ。ここで中断するのは学年首席の名が廃る。一思いに片付けてやるのが、この問題集にとっても本望だろう。
「そ。じゃ、先に話しておこうか」
「ちょっ、待」
そう言うが早いか、躊躇い無く開けられるドア。僕はシャーペン片手に、さぞかし間抜けな顔を晒していたことだろう。
「ん」
ずかずかと部屋に入ってきた妹は、後ろ手で扉を閉めると、僕を一瞥して床を指さした。初めて見る者はなんのこっちゃとお思いのことだろうが、かれこれ妹と十五年一緒に暮らしてきた僕には分かる。分かってしまう。これは『そこに正座しろ』という強引極まりないハンドサインである。
僕は考えた。ここで素直に従ってしまうと兄としての沽券に関わる。だいたい、僕には妹の言うことを聞く義務も無ければ理由も無いのだ。僕は『してやるものか』の意を込め、頬杖をついて不敵な笑みを浮かべてやった。
「早く座って」
「はい」
誤解しないで頂きたい。これは決して僕がヘタレだから座ったのではなく、妹の剣幕に身の危険を感じたからである。今のは素直に従わないと危なかった。例え僕がムッキムキの筋肉ダルマだったとしても、今の一言には座るしかなかったであろう。
妹は正座した僕の前に腰を下ろすと、同じく正座の姿勢を取った。そのまま僕をじっと見つめてくるものだから、僕はとても気まずい思いをしなければならなかった。
痺れを切らした僕が何か言おうとするのを手で制し、妹が口火を切った。
「今日、遅かったよね。どうしてかな」
静かな口調なのが恐怖を煽るが、僕は努めて冷静に返す。
「告白された」
「……………………は?」
スマホのカメラを起動しておくべきだった。今の妹の顔を撮ってやれば、ベストショット間違いなしだったろうに。
「告白されたんだ」
「……………う、嘘だぁ」
「確かに嘘かもしれない。でも告白されたのは確かなんだ。遅くなったのはそのせいだ」
「え、えぇー……あのお兄ちゃんが、告白された………?」
信じられないという面持ちで信じられないと呟く僕の妹。先程の怖い雰囲気はどこへやら、すっかり可愛い元の妹へと戻ってしまっていた。
「………どんな人なの?そもそも女の子?」
「伊澄楼琉夏って人。僕の見た限りでは間違いなく女の子だったよ」
「可愛い?」
「一般的にはそうなんじゃないかな」
「お兄ちゃん的には?」
「美の基準が僕には無いから分かりかねるな」
「そういうのいいから」
「んぐっ……まぁその、可愛いと思います……たぶん」
へぇえと興味深そうに僕を見つめる妹。なんだこれ、新手の拷問か?恥ずかしすぎるんだけど。
「ていうか、私に言ってもよかったの?それ」
「よかった、とは」
「そういうのって、あまり言いたくない系の話じゃん。適当に友達と遊んでたとか言って誤魔化せば良かったのに」
おやおや、これはまた変な事を仰る。
「へぇ、お前はそれで誤魔化されるんだ?」
「……されないね。お兄ちゃん、友達いないもん」
そういうことである。
「それに、お前が言ったことなんだぞ」
「へ?」
目をぱちくりとさせる妹。やれやれ、自分で言ったことも覚えてないのかこの愚妹め。……ちょっと言い過ぎたな。
「『私とお兄ちゃんの間に隠し事は無し』、だろ?」
はっと息を呑む妹。そして微笑む。
「……覚えててくれたんだ、それ」
数年前、母が病気で他界した時、僕と妹は母が病に犯されていたという事すら知らなかった。
母含め、大人達が隠し通した為である。まだ小さかったから、そして何よりもお母さんっ子だったから、それを説明するのはリスクが高すぎると判断してのことだった。大人の勝手な都合といえばそれまでだが、僕達のことを考えての事なので責めるに責められない。
僕は当時から聡く、『気味が悪い』とまで言われた子供だったので、母が普通ではないことは何となく察していた。だから死んだと聞いた時も「あぁ、そうか」と思っただけで、葬式でも涙が出ることは無かった。無表情で母の棺を見つめる僕は、大人達の瞳にはどう映ったのだろう。
しかし、妹は号泣した。泣いて泣いて泣き叫んで、『涙腺が切れてしまったのではないか』という噂が流れ始めても泣き続けていた。七十五日が経っても泣いていた。
妹は言った。『どうして教えてくれなかったの』『病気だって知ってたら、あの時ちゃんと言うこと聞いたのに』『病気だって分かってたら、もっと』。
母が死んでから半年ほど経ったある日、妹がいきなり僕の部屋にやって来た。
そう、ちょうど今日のように。
妹はさっきまで泣いていたようで、しゃくりあげながらこう言ったのだ。
───私とお兄ちゃんの間に、隠し事は無しだからね。
僕はそれを、今日に至るまで忠実に守っていただけの話だ。
「それじゃ、僕お風呂入るから」
僕は立ち上がると、俯いている妹のそばを通り抜けて浴室へと向う。……うわぁ、今の僕カッコよすぎん?
「待って」
背中に浴びせられた声に立ち止まる僕。
「告白の返事は、どうするつもりなの?」
僕は振り向かずに答えた。
「もう断ったよ」
「…………な、なん」
「でも」
僕は苦笑いしながら振り向いた。
「あちらさんは、諦めてくれないらしい」
ありがとうございました。