僕と彼女のファーストコンタクト(仮)
僕が彼女と出会ったのは、つい先月の事である。
始業式を終え、一目散に教室へと戻った僕は一人勉強をしていた。生徒達が戻ってくるにつれ、にわかに教室が騒がしくなってきて、瞬く間に公害レベルに達する。隣の席で女子たちが『〇〇ちゃんと同じクラスで良かったー』『私もー』『これからもよろしくねー』と姦しい。それ、この間クラス分け発表がされた時も似たようなこと言ってなかったか?ひょっとして忘れてしまったのだろうか、鳥頭かよ。ピーチクパーチクうるさいし、これは本当に鳥かもしれないな。
……完全に集中力が切れてしまった。鳥もいるし、動物園かよここは。
僕は辟易しながらノートを閉じる。恨めしげに周りを見渡すと、あれほど騒がしかった教室が一瞬で静まり返った。僕は驚いた。なんという事だ。知らず知らずのうちに、僕は『威圧』などという曖昧な技術を手に入れていたとでも言うのか?
しかし、それが僕の勘違いだと気付くのに大して時間はかからなかった。何故なら、生徒たちは僕の方ではなく、教室の入口の方を食い入るように見つめていたからだ。
太陽。そんな言葉が良く似合う少女だった。彼女は生徒たちの視線をものともせず、静寂と化した教室に足を踏み入れる。どうやら注目されていることに慣れているらしい。自然と人集りが左右に分かれ、彼女の為の通路が出来上がる。モーゼかよ。
彼女が放っていたのは、威圧なんて生易しいものではなかった。威光。気を抜けば祈りを捧げてしまいそうな輝きを、彼女は身に纏っていたのである。生まれる時代が違えば宗教が出来ていたに違いない。
そこで僕は我に返った。不覚にも、彼女の放つ輝きに気圧されてしまっていたらしい。そして、ふと思った。
───これ、勉強するチャンスなのでは?
教室に静寂が戻った今こそ勉学に励む時である。僕は喜び勇んで、再びシャーペンを手にした。
しかし、そう上手くいかないのが人生というもの。誰もが思い通りの人生を送れたとしたら、とっくにこの世界は破綻しているであろう。
「あ、あのさ……俺、薗部って言うんだ。よ、よろしく」
席に着いた彼女に近付く勇者が一人。僕は薗部とかいうその男に惜しみない賛辞を送った。心の中で。
「うん、よろしくね」
僕はその時ノートに目を通していたから、彼女がどんな顔をしていたのか分からない。だけど、直後に「ほう……」という感嘆のため息があちこちから聞こえてきたので、きっとそれはそれは輝かしいスマイルを見せてくれたのだろう。僕もため息をついた。ただそれは決して感嘆のため息なんてものではなく、『あぁ、これはまた騒がしくなるな』という諦観のため息である。
「わ、私は長谷部って言うの!気軽に『はっちゃん』って呼んでね!」
「わかった、よろしくねはっちゃん」
「おおお俺の名前は志賀蓮慈!気軽に『れんちゃん』って読んでくれ!『れんくん』でも可だ!」
「うん、よろしくねー志賀君」
それ見た事か。こういうのは一人が行けば、あとは雪崩込むようにして周りが続くのである。日本人の国民性がよく現れている、顕如な例だと言えよう。
気付けば僕を除いて、クラス中の生徒が彼女の周りに集まっていた。それどころか、気付けば他所のクラスからも彼女の美貌を一目見ようと野次馬が集まる始末である。廊下側の席に座る僕からすれば、非常に鬱陶しい事この上ない。さっさと自分のクラスに帰れ。
チャイムが鳴り、教師がやって来てからも喧騒が収まることは無かった。これはもはや一種の授業妨害である。座っているだけで授業妨害を引き起こすとは、なんとも傍迷惑なカリスマ性を持った女だ。僕は声を張り上げる教師の声を何とか聞き取り、連絡事項を頭に入れなければならなかった。新任の女教師が涙目になっていたのが、よく印象に残っている。気の毒に。
さて、これが僕と彼女のファーストコンタクトである。
あぁ、わかっているとも。まるで『こんなんがファーストコンタクトであってたまるか』という批判の声が聞こえてくるようだ。『コンタクトしてないじゃないか』とも聞こえる。しかし、本当にこれだけなのだから仕方ない。彼女が僕に話しかけてくることなんて無かったし、僕が彼女の名前を知ることも無かった。フラグなんてものが立つ要素はゼロ。
では、セカンドコンタクト、サードコンタクトは?
答えは『そんなもの無かった』。いや、上のがファーストコンタクトとして成立するのであれば、セカンドもサードもあったと言えよう。しかし、そこに僕と彼女の会話なんてものは無かった。僕の視界に彼女が入った、ただそれだけである。
では過去は?こういう時、有りがちなのは『小さい頃に結婚する約束をしていたが引っ越してしまった幼馴染』というやつである。けれども、僕にはそんな幼馴染なんて居ないし、『伊澄』という苗字に心当たりも無い。
あぁ、分からない分からない分からない。彼女が僕に惚れた理由は何だ?
「……これはアレかな、嘘告白というやつかな」
一人呟いて納得する。うん、その可能性が一番高い。勉学しか能のない僕を好きになるなんて有り得ないよ。名門大学を卒業して、大企業の肩書きを手に入れられば分からないけど、玉の輿を狙うには気が早すぎる。
けれど。
『私、伊澄楼琉夏はあなたの事が好きです。大好きです。愛しています』
「あれが嘘だったとは、思えないんだよな」
理屈では嘘告白。けれど僕の本能は、『彼女は本気』だと言っている。理屈論理合理効率をこよなく愛し、それ以外のものは小学校の引き出しの中に忘れてきたと噂される僕である。答えなんて簡単に出せる筈なのに、こうして下校中ずっと考えていても結論が出せない。
───伊澄楼琉夏が出雲弦一郎に惚れた理由は?
───現時点では解答不可能。
「愛ってのは理屈じゃ解けない、って事なのかね」
うん、今のは我ながら痛すぎるな。
思わぬイベントで、帰りが随分と遅くなってしまった。駅からの道を、心なしか早歩きで家に向かう。走りはしない。僕は体力が無いのだ。
「ちょっと待て」
僕は気付いてしまった。そうだ、携帯は?
「ちゃ、着信十五件………」
全て妹からである。これは気付かなかった方が良かったかもしれない。
「いや、まだ間に合う。今からでも気付かなかったことに」
その瞬間けたたましく鳴り出す携帯。なんというタイミングの良さ。何かと鋭い僕の妹だが、ここまで来ると気味が悪い。予想通り、妹からの着信であった。これで十六件目。
家まではまだ少し距離があるため、家に着くのは暫し後になるだろう。今ここでそれを伝えておかなければ、玄関のドアを開けた瞬間罵声を浴びせられること間違いなし。それが悪意や敵意から来るものならともかく、僕を心配しての罵声なのだからタチが悪い。
「遅い」
恐る恐る電話に出ると、開口一番そう言われてしまった。くそう、出鼻をくじかれてしまった。妹の怒りを沈めようと、取っておきのジョークを用意していたと言うのに。
「……お兄ちゃん?聞こえてる?」
「あ、あぁごめん。聞こえてるよ」
「なら早く帰って来て。そろそろ暗くなっちゃうし」
暗くなっちゃうって、小学生じゃあるまいし。
ここはひとつ、釘を挿しておかねばなるまい。
「あのさ、妹よ。気持ちは分かるがそれは流石に過保護が過ぎ」
「じゃあまたね、あと今日は肉じゃがだから」
───不敬な妹だ。
それにしても肉じゃがかぁ。楽しみだな。
ありがとうございました。