五章七話 『海の悪魔』
「うわぁ! 凄いです、海ですよ海! 潮風がとても気持ち良いですね! あ、あそこ! お魚が飛び跳ねています!」
アスト王国の姫、エリミアスは現在テンションがマックスである。
船の甲板に出て、落下防止用の手摺に両手を預け、今にも乗り出してしまいそうな勢いで海を見渡している。初めての海なので多少は理解出来るが、問題はそこではない。
「あの、姫様。あまりはしゃぎすぎると落ちてしまいますので、もう少し静かにお願いします」
「す、すみません。あまりの嬉しさに、はしたない姿をお見せしてしまいました」
「いえ、姫様のお気持ちは分かります。ですが、いくら変装しているとはいえ、他の人達に露見してしまうのは……」
「分かっています。私が姫だという事は内助です。あまり騒がず、静かにーーあ! 鳥ですよ! 白い羽が綺麗ですよ!」
「……全然聞いてないですね」
一旦落ち着きを取り戻したかのように思えたが、頭上を過ぎた白い鳥を見た瞬間、飛び跳ねながら鳥を指差す。
その様子を見て、後ろに立つティアニーズは今世紀最大のため息を吐き出した。
同様に、隣に立つトワイルとリエルも。
「あの、本当に良かったんですか? 姫様をお連れしてしまって」
「まぁ、仕方ないんじゃないかな。あそこで追い返す事も出来たけど、俺達も一緒にひき返さないとだしね」
「こんなの王に知られたらなんて言われんだか。覚悟しとけよ、トワイルさん」
「あははは、首飛んだりしないと良いけど」
今回に至っては、トワイルの爽やかスマイルも霞んでしまっていた。
結局、あの後エリミアスはついて来る事になってしまった。戻ろうにも、また襲われる可能性があるで一人で返らせる訳にもいかず、とりあえず持ち合わせの衣服を着せて同行を許可。マントをはおり、フードで顔が隠れているが、風が吹く船上ではほぼ無意味。
どうやって木箱に侵入したかは不明だが、その行動には驚愕の一言である。ただ、騎士団である三人からすれば、これほど緊張と危険にまみれた任務などありはしない。
なにせ、魔元帥が居るかもしれない場所に、エリミアスを連れて行く事になるのだから。
「ルーク様見てください! 海ですよ、本当に広いのですね! 感動です、感激です、私の夢が一つ叶ってしまいました!」
「か、体を揺らすんじゃねぇ……。あとデケェ声出すな」
「大丈夫ですか? ルーク様もご一緒に拝見しましょう!」
「遠慮しとく、マジで。俺に構うな、そんで触らずに離れろ」
「勿体ないです。ルーク様も海をご覧になるのは初めてなのですよね? でしたら、もっとその目に焼き付けるべきなのです!」
エリミアスの隣で床に座り込み、手摺に背中を預けて青ざめた表情で一点を見つめるルーク。船酔いである。この勇者は、基本的に乗り物に弱いようだ。
しかし、そんな事はお構いなしのエリミアスはに腕を掴まれ、強制的に立つ事を強いられる。
瞬間、胃の中の悪魔が暴れだす。
「うぶッ。や、やべぇ」
「見てください! 沢山のお魚が泳いでいます! 小さな体なのに力強いですよ! 模様も様々で……あ、あの縞模様は本で読んだ事があります!」
「うん、分かったから。頼むから放っておいて、この綺麗な海に汚いものが吐き出されちゃうよ」
「きっと、まだまだ私の知らない生物が、この海にはいるのでしょうね。もっともっと見てみたいです」
「うん、見たいなら勝手に見て。あと背中叩かないで、マジで発射しちゃうから」
エリミアスはルークの話を聞く気すらないのか、掴んだ腕を揺さぶったり背中をベシベシと叩いたりと、まるで嘔吐物をぶちまける事を手助けしているようである。
項垂れ、干された布団のように手摺にもたれかかるルーク。
死にかけているルークを見かね、流石に止めるべきだと思ったのか、ティアニーズが二人の間に割って入る。
「あの、姫様。恐らくルークさんは船酔いでダウンしているので、あまり無理を強いらない方が良いかと思います。汚れてしまいますよ」
「そ、そうなのですかっ? すみません、周りが見えていませんでした。ルーク様はゆっくりとお休みになってください」
「良いから、早くどっか行け」
「はい、反対側の景色を見てきますね!」
「ちょ、ちょっと姫様!」
どこか行け、と手を振りながら厄介払いすると、エリミアスは足音を立てて反対側に行ってしまった。
ルークとエリミアスを交互に見て、ティアニーズは結局船酔い男を放置して行ってしまうのであった。
「まったくだらしない奴め。勇者が船に酔ってどうする」
「勇者だろうが魔王だろうが、酔う時は酔うんだよ。んな偏見捨てろ、勇者差別だ」
「ゲロを撒き散らす勇者など聞いた事がないぞ」
「勇者だってゲロもトイレだって行く。普通の人間なんだよ」
ルークの言っている事は正論だが、こよ広大な海に向かってゲロを吐く勇者はいないだろう。
呆れながらもソラがルークの背中を撫でていると、少し離れたところから頬に傷の入った大男がやって来た。
「大丈夫か兄ちゃん。息を大きく吸って吐いてみろ、少しは楽になるぞ」
「……おっさん誰」
「誰とは侵害だな、この船の船長だ。名前はヨルシアだ、よろしくな」
ゴツいおっさんながらも、その体に似合わない晴れやかな笑顔を浮かべるヨルシアと名乗る男。握り返したいのは山々なのだが、今は一ミリ動く事すら困難な様子のルーク。
なので、横からやって来たトワイルが変わりにその手を握り返した。
「今回はありがとうございます。無理を言って一人乗客を増やしてしまったのに、対応していただいて」
「いや、乗客が一人増えるって事は、その分海の良さを分かる人間が増えるって事だ。俺としちゃ大歓迎だぜ」
そう言って、ヨルシアは親指を立てながらはしゃいでいるエリミアスへと目を向ける。まさか、その増えた乗客が姫様だとは思うまい。
トワイルは軽く会釈をし、
「そう言っていただけると助かります。彼女も楽しそうですし」
「それによ、最近は客が減ってんだ。騎士団なら知ってんだろ? サルマの異常事態を」
「はい。俺達はそれを解決するために派遣された人間ですから」
「そうなのか? そりゃ助かるぜ。サルマの影響なのか分からねぇが、最近海の様子がおかしいんだ。一応魚は泳いではいるが、その数は前より激減してるんだぜ」
「そう、なんですか。もう少し詳しく聞いても良いですか?」
「おう、海を救うためなら喜んで協力するぜ」
布団とかしているルークは海へと視線を下ろす。初見なので違いは分からないが、少し違和感を感じるのは確かだ。とはいえ、専門家でもないルークには原因も対処法も分からない。今は己の体を落ち着けるのに精一杯なのだ。
「まずは味だな。サルマの水は上手い、それはアスト王国の人間なら誰だって知ってる。前の戦争で受けた被害を建て直してる最中って事もあるが、水がまじぃんだよ」
「まずい? そんな話は聞いた事ありませんでした」
「そりゃな。サルマは水で経済を回してるって言っても過言じゃない。その水がまずいなんて他には言えねぇんだよ」
「なるほど、勉強になります。それで、その被害はサルマでの異変とお考えなんですか?」
「海の男の勘って奴だ。毎日見てると分かるんだよ、海が泣いてるってな」
再び海へと視線を移すルーク。当然ながら、海が泣いているかどうかなんて分からない。比喩的表現なのだろうけど、ルークの口からそんなロマンチックな発言は一緒飛び出さないだろう。
その後も会話は進み、途中でソラが口を挟む。
「私からも質問だ。サルマで奉られている精霊について聞きたい」
「名前は『リヴァイアサン』、海に関わる人間なら一度は聞いた事ある名だ。とにかくでけぇ蛇みたいな精霊なんだとよ」
「リヴァイアサン……。ふむ、まったく聞いた事がないな。下位の精霊か、それとも誰かのペットか……」
「下位の精霊? 嬢ちゃん精霊に詳しいのか?」
「あぁ、なにを隠そう私はその偉大な精霊だからな」
「偉大な精霊……。ガハハハッ、だからそんな綺麗な面してるのかッ」
「ほう、貴様は私の魅力が分かるらしいな。仕方ない、眺める事を許可しよう」
豪快な笑い声を上げるヨルシアに、満足したようにえっへんと鼻を鳴らすソラ。多分、本人は褒められたとでも思っているのだろう。
しかし、今の笑い方的に違う。どちらかといえばバカにされている部類だ。
ただ、それに気付いていながらルークとトワイルは教えない。なぜなら、こうして得意気に威張っている方が楽だからである。この精霊さんは、褒められると調子に乗る典型的なダメな子だから。
「サルマの下には神殿があると聞きます。そこにリヴァイアサンがいるんですか?」
「さぁな、そういう事になっちゃいるが、本当に信じてるのは極一部だ。頭のおかしい宗教のな」
「俺も聞いた事があります。確か……『海の子』ですよね」
「あぁ、毎日町の中心で祈りを捧げてやがる。この事態もリヴァイアサンが解決してくれると思っているんだろうよ」
「バカな話だな。精霊は基本的に人間の世界には干渉しない。仮にいるんだとしても、どれだけ祈ろうと救いはない」
「お前精霊じゃん」
「私は特別だからな。今地上にいる精霊は私一人だ。なぜなら……」
体調が少しだけ回復し、三人の会話に参加するルーク。
と、ここでソラの目が大きく見開かれた。ルークを見つめ、自分の頭を抱える。
「どうした?」
「いや、今一瞬なにか思い出しかけた。地上にいる精霊は私一人だけ……いや、なぜ私一人だけなのだ」
「んなの俺が知るかよ。お前が勝手に来たんじゃねぇの?」
「あり得ない。精霊とはルールに厳しい存在なんだ。だから契約なんて業況しいやり方で力を貸している。もう少しで思い出せそうなんだ……あぁクソ、苛々するぞ」
「あんだけ牛乳飲んで苛々すんのかよ」
頭を抱え、苛立った様子で言葉を吐くソラ。
他人事の感じではあるが、その記憶喪失の原因はこの男なのをお忘れなく。
ソラは諦めたように手摺に拳を叩きつけ、
「とにかく、精霊は人間に力を貸せない。人間の事は人間で解決する、それがルールだからだ。なぜ私が人間界にいるのかは分からないが、それがルールだ」
「お、おう。まぁ俺も期待しちゃいねぇよ。海の事は俺達がどうにかする、それが海の男ってもんだ」
なんのこっちゃ分からず首を傾げていたが、握った拳で胸を叩いて宣言するヨルシア。彼には彼なりの流儀があるらしい。
トワイルは『格好いいです』、なんて呟きながらパチパチと手を叩き、
「俺達も力を貸しますよ。海を守るのが海の男なら、国を守るのが騎士団ですから」
「おう! 兄ちゃん若いのに筋が通ってんな! なにかあったら直ぐ言えよ、俺に出来る事ならなんでもやるからよ」
「はい、ヨルシアさんの力を頼りにしています」
ガッシリと熱い握手を交わし、二人の間に謎の友情が成立。これが爽やかイケメンの本領なのだろう。周りを巻き込み、それでいて嫌悪感を与えない対人スキル。
ゲロを吐きそうなルークには、一生身に付ける事の出来ないものである。
情報収集も終わり、気分が良さそうに颯爽と離れて行くヨルシア。
しかし、ここで異変が起きた。
なにかにぶつかったような音を立て、船全体が大きく揺れた。
「うおぉっ!」
「おっと、大丈夫かい?」
「あっぶね、落ちるところだった」
布団勇者ルークは揺れによってバランスを崩し、そのまま海へと落下しそうになる。が、寸前のところでトワイルが襟首を掴んで阻止。引き上げられ、青ざめた顔で安堵の息を吐き出した。
甲板に出ている者は近くの物に掴まり、身を低くして衝撃に備える。
はしゃいで全力疾走していた姫様だが、転がる寸前にティアニーズとリエルに支えられ、なんとか怪我をせずに済んだようである。
立ち上がり、トワイルとルークは辺りを見渡す。
「おい! テメェら、なにがあったか確認しろ!」
「はい! 船長!」
いち早く異変を察知し、ヨルシアが走り回る部下に指示を出す。その手際の良さに感心していると、一人の男が船の先端まで行き、顔を出して下を覗き込む。キョロキョロと首を左右にひねり、それから振り返ると、
「異常ありません! なにかにぶつかった訳じゃないようです!」
「分かった! とりあえず全員船内に戻ってくれ。あとは俺達が調べーー」
そこでヨルシアの言葉が途切れた。いや、強制的に閉ざされたと言った方が正しいか。
ヨルシアだけではなく、甲板にいる者全員が同じ場所を見つめて口を閉ざす。ただ一人、先端に立つ男を除いて。
「ど、どうしたんですか?」
「バ、バカ野郎! 今すぐそこから離れろォ!」
「え?」
叫ぶヨルシア。しかし、次の瞬間には男の姿が消えた。
いや、消えたのではない。蠢く触手のような物によって掴まれ、そのまま海に引きずり込まれたのである。
船上が静まり返り、ヨルシアが全員に口を開くなと人差し指を口に当てて合図を送る。
沈黙が流れ、嫌な緊張感とともに額が汗を伝う。なに一つ状況は分かってはいないが、非常事態だという事はひしひしと伝わって来る。
そして、それは姿を現した。
船の右側、ちょうど伏せているティアニーズ達の直ぐ横に。
「……なんじゃ、あれ」
「ルーク、合図したらティアニーズとリエルを頼む。俺は姫様を守るから」
「お、おう。つか、あれって……」
トワイルの言葉に頷き、目にした光景に思わず自分の目を疑った。
ゆっくりと、べちゃべちゃと音を立てて触手ーーではなく、足が船上を這うようにして上って来る。
何本もの足だ。
吸盤が足のあちこちについており、苔のようなものが本来の白さを濁らせている。
イカ、だろうか。
ルークの記憶が正しければ、あの生物は間違いなくイカだ。
しかし、サイズが桁違いのイカだ。船を簡単に握り潰せるほどの十本の足と、本体はそれだけで船と同等の大きさ。
サイズだけならば、ドラゴンを上回る。
身を屈め、トワイルは腰の剣に手を伸ばす。ただの剣で太刀打ち出来るか怪しいが、なにもないよりはマシだろう。
ルークもゆっくりと近付いて来るソラに手を伸ばーー、
「ルーク! 逃げろ!」
「ーー!!」
なにかが腹に巻き付いた。そう理解した時には遅く、ルークの体が宙を舞う。ぬるぬるとした粘液が身体中にまとわりつき、逃げ出そうににも力が入らない。
そして、口を開く暇もなく海へと引きずりこまれた。
クラーケン、海をよく知る者はそう呼んでいる。
別名、海の悪魔と。
年始なんで二話目です。
なので、ブックマークという名のお年玉をください。