九章七話 『覚えておけ』
ーー魔元帥ウルス。
その男は、ティアニーズがこの世界でもっとも会いたい男であると同時に、もっとも会いたくない男だった。
理由は簡単。ウルスを前にした自分が、冷静でいられる自信がなかったから。
ようやく踏み出せた一歩を、ようやく見えた道を、ウルスとの再会で見失ってしまうかもしれない。あの男がくれたチャンスを、仲間が差し伸べてくれた手を、振り払う事になってしまうかもしれない。
それは不安というよりも、恐怖に近い。
だがーー、
「こりゃ驚いたな。いきなり斬りかかって来るもんだと思ってたぜ」
「…………」
「戦意がない訳じゃねぇな。お前の目は俺を敵として認識してる……だが、争うつもりはねぇ、ってか?」
ウルスを前にして、ティアニーズは驚くほどに冷静だった。焦燥感はある。相手はあの魔元帥で、しかも一度は殺されかけている。あの時はなんとか勝てたけれど、今回はそう上手くは行かない。
掌に汗が滲む。呼吸が上手く出来ない。
だというのに、思考は正常に働き、暗闇の中でも視界は晴れていた。
「自分の言うのもなんだが、お前は俺を殺したくて仕方なかった筈だ。なんせーートワイルを殺したんだからな」
「…………」
「いきなり現れたから動揺してる、って訳でもねぇ。黙りか? それとも、俺とは会話もしたくねぇってか?」
「…………」
久しぶりの会話を楽しむように、ウルスは親しげな態度で言葉を放つ。当然、トワイルを殺した事に対する罪悪感なんてものは感じられない。
ティアニーズは息を吸い、ゆっくりと口を開いた。
「なにを、しに来たんですか」
「なにって、そりゃ決まってんだろ。俺は魔元帥だ、やる事は一つ。お前ら人間を皆殺しに来た」
「ーーいいえ、それは違う」
その言葉を、ティアニーズは真っ向から否定した。ニヤニヤと口元を満たしていた不気味な笑みが消え、ウルスの眉が動く。
ティアニーズは剣に伸ばした手を止め、感情のない瞳を見据えた。
「貴方は、ゼユテルの命令ならなんだってやるような人です」
「あぁ、そうだな。親父に言われりゃ俺はなんだってやる。だから今回もーー」
「だから、ですよ。もしゼユテルが貴方に私達を殺せと命令していたのなら、わざわざ声をかけたりしない。あれだけ油断していたんです、迷わずに斬っていた筈です」
「久しぶりだからな。これでも一応、お前は俺の数少ない人間の友達だ。挨拶くらいするのが普通だろ」
「確かに、そうかもしれない。でも……」
一時は、本当に仲間だと思っていた。
魔元帥だと発覚し、この手で命を奪ったあとでさえ、ウルスなら話あえるかもと思っていた。ーーだが、そんな願いは、意図も簡単に砕かれた。
信頼する人間の命を奪われ、ティアニーズは失意の底に落ちた。だが、だからこそ分かる。この世でもっとも殺したい相手だから、一時とはいえ、友達として過ごした時間が確かにあるからーー、
「友達だから、貴方は迷わずに殺す」
「ーーーー」
「私が友人だから、貴方は声なんてかけずに殺す筈です。一瞬でも会話をしてしまえば、決意が鈍ってしまうから」
「ーーーー」
「貴方は、そういう人です。私がこの世界で一番殺したいーー優しい魔元帥なんです」
冷静に考えれば、ウルスがどんな男なのかなんて簡単に分かってしまう。共に過ごした時間があるから、目の前でトワイルの命を奪われる瞬間を見たから。
なによりも、この男はーー人間が大好きだから。
「…………」
ウルスの表情が動いた。
ティアニーズの言葉を聞き、小さなため息を溢すのと同時に腰に手を当て、呆れたようにもう片方の手で頭を乱暴にかきむしった。
「ティアニーズ、正直よ、お前はもう折れちまったと思ってたよ。ま、殺ったのは俺なんだけどな」
「一度は、折れました」
「でも、ちゃんと立ち上がった。それもお前一人の力じゃねぇ。……ルークか?」
「いえーーみんなのおかげです」
手を差し伸べたのはルークだ。しかし、受け入れてくたのは仲間だ。ルーク一人でも、エリザベスでもダメだった。みんながいたから、ティアニーズは再び前を向く事が出来た。
「そうか、みんなか……。お前、強くなったな」
「私は強くなんてありません。けど、強くなりたいと思いました。武力ではなく、もっと他の力が欲しいと」
「正直心配だったんだぜ? いくら親父の命令とはいえ、友達を殺すのはこたえる。でも、そうだな……今のお前を見たら、きっとトワイルも喜ぶぜ」
ウルスは、心底嬉しそうに微笑んだ。そこには嘘偽りなんかなくて、本心から友人の事を思って笑う男がいた。
ボサボサになった髪を整え、大きな背伸びをすると、
「さて、そんじゃ本題に入ろうか。お前の成長は見えた、そんだけでここに来たかいはあったんだが……残念ながら、このまま帰る訳にはいなかねぇ」
「戦うんですか?」
「場合によっちゃそうなるな。お前が俺の要件を飲んでくれりゃ、誰も傷つけずに済むけどよ」
「もし、断ったら?」
「そりゃ、お前達を殺すしかねぇな」
その目を、ティアニーズは知っている。
冗談を言っているような顔だが、その言葉に嘘はない。邪魔をするなら、たとえ友人だろうと平気で命を奪いに来るだろう。
なら、ティアニーズはーー、
「こちらも、戦うしかありませんね」
一度は止めた手を伸ばし、剣を引き抜いた。
ウルスの顔に、再び笑顔が戻る。
「やっぱ、俺は人間が大好きらしいわ。でもよ、お前一人になにが出来る?」
「一人じゃありません。僕もいる」
「そうだったな、忘れてた。名前は知らねぇけど、お前の事はよーく知ってるぜ」
黙りこんでいたアキンがティアニーズの横に並ぶと、ウルスの笑みが僅かに崩れた。それはティアニーズだけが気付けた変化で、ウルス本人も理解してはいなかった。
「俺は前よりか遥かに強くなってる。前は負けちまったが、今回はそうはいかねぇ」
「分かってますよ。あの勝利だって、私一人では無理でした。もう一度やったって、勝てるとは思いません」
「だったらーー」
「言った筈です。みんなの力があったからって」
ウルスの言葉を遮り、一歩を踏み出す。
柄を握る手に力をこめ、全力で息を吸い込みーー、
「助けてぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!」
声高らかに、SOS を求めた。
隣に立つアキンが耳を塞ぐほどの大音量。少し離れた場所に立つウルスでさえ、その声に僅かに体を震わせた。
そう、ティアニーズでは勝てない。
アキンと二人で挑んだとしても、勝てる見込みはない。ならばどうする?
簡単だ。
みんなで、戦えば良い。
「お前……!」
ウルスが構えると同時に、ティアニーズの声を聞いた面々が一気に馬車から飛び出して来た。外で見張りをしていた者、焚き火を囲って会話を交わしていた者、それはティアニーズの仲間だけではなく、その場にいる、勇者達の姿だった。
ざわざわと声が波をうち、その視線はティアニーズ達に集まる。仲間の視線を背に、少女は、その成長を見せる。
「今すぐ貴方を殺してやりたいです。この手で切り刻んで、トワイルさんの敵をとりたい。ーーけど、私の力では無理です。だって私は、弱くて平凡な人間ですから」
「厄介だなこりゃ……! 俺はお前を、ルークを過小評価してたらしい」
「人間を舐めるな、魔元帥」
続々と人が集まり、状況を飲み込めていないながらも、ティアニーズと向かいあう男を敵だと認識したようだ。武器を手にした勇者達が、一斉にこちらへと走って来る。
だが、ウルスだって、バカではない。
「ったく、用意しといて良かったわ」
焦りを表情に混じらせながらも、ウルスは一歩引いて指を鳴らす。その、直後だった。
キャンプの周りの闇が蠢いた。
いや、闇ではない。大量の魔獣が、活動を始めた。
「なーー」
「話あいで解決すんのが最善だったんだが、そっちがその気なら仕方ねぇ。今回は俺個人の願望も入ってるんでな、引くに引けねぇんだわ」
いつからーーという考えを無理矢理ねじ伏せ、ティアニーズは振り返る。闇に潜んでいた魔獣が、勇者達を襲い始めていた。ざっと数えただけでも数十匹。だが、この暗闇だ、まだ隠れていてもおかしくはない。
即座に思考を切り替え、
「アキンさん、皆さんの援護をーー」
「よそ見はいけねぇな」
「ぐーー!」
ティアニーズが視線を戻すよりも早く、剣を握り締めたウルスが飛び掛かって来ていた。ギリギリとところでなんとか防御するが、その力に押され、僅かに体勢が傾く。ウルスはその隙を見逃さず、すかさず空いている手に斧を出現させた。
斧が、振り上げられる。
「離れろ!」
斧を握った手を、アキンの放った炎が弾く。
一瞬の隙を見極めて剣を傾け、力を横へと逃がす。ティアニーズはそのまま、身を屈めて落ちていた斧を拾い、
「ーーハァ!」
ウルスの首めがけて、斧を振り回した。しかし片手で持てるほど軽くはなく、狙いがそれてウルスの肩へとーー、
「前回と同じミスはやらねぇよ!」
「でしょうね。そんなの、百も承知です!」
ウルスの肩に当たる直前、斧が弾けるように消え去った。前回の戦いでは、ウルスの能力で作り出した武器を使う事で、ティアニーズ達はなんとか勝利をもぎ取った。しかし、ウルスだって学習している。
だが、それで良い。ティアニーズだって、成長している。
「そんな剣じゃ俺の体には傷一つつけらんねぇよ。前に戦った時にーーッ!?」
一閃。完全に油断していたウルスの首を、ティアニーズの剣が捉える。普通の人間では、魔元帥の体に傷をつける事は出来ない。劣化した精霊の力である魔法、もしくは魔元帥の硬度を上回るでたらめな怪力でもあれば話は別だが、ティアニーズにそんなものはない。
しかし、ウルスは回避した。
剣を受け止め、そのまま攻撃をしかけるつもりだったのだろう。肉を切らせて骨を立つ、そういう算段のつもりだったのだろう。
だが、彼の生存本能が叫んだのだ。
この一撃を、避けろと。
「……今ので殺れてれば、楽だったんですけどね」
「なんだよ、そりゃ。聞いてねぇぞ」
首元を抑え、険しい顔でウルスが言う。指の隙間から血液が溢れだし、手の甲を、首を濡らす。それは他でもない、魔元帥であるウルスの血だった。
「言ってませんでしたから、当然です」
「お前、精霊と契約でもしてんのか?」
「実は、私も良く分かってないんです。でも、契約はしてませんよ」
「だったらなんでだ。ただの剣が俺の体に傷をつけられる筈がねぇ」
「言う訳ないでしょう。自分の力をペラペラ喋るほど、私はバカじゃない」
剣についた血を払い、精一杯の挑発を口にする。あの男には遠く及ばないが、ティアニーズも、人を苛立たせるコツが分かって来たようだ。
「スリュードの野郎、ちゃんと報告しろっての。視界を切ってたからこっちはなんも知らねぇんだよ、ったく」
面倒くさそうに呟くと同時に、抑えていた首が青白い光を放つ。その光は傷口を包み込み、ゆっくりと塞いでいった。完全に血が止まると、調子を確かめるように首を回し、
「わりぃな、油断してたわ。忘れてたよ、お前もルークと同じくらい負けず嫌いだって事を」
「あんな人と同じにしないでください」
「あ? なんだよ、その様子だと、まだ好きって言ってねぇのか?」
「な、なななな! す、好きじゃないもん!」
こんな状況だというのに、ティアニーズは顔を真っ赤にして慌てて否定。そういう癖がついてしまっているらしい。気持ちを伝える日はいつになる事やら。
「お前を舐めてた。こっちも本気で行く」
「最初から、そのつもりです」
「なんで俺を切れたのかは分からねぇが、もうくらわねぇ。いくら斬れても当たらなきゃ意味ねぇかんな」
ブチブチ!と不気味な音が響き渡る。魔獣の叫び声、それと戦う勇者達の雄叫び、それらをねじ伏せ、その嫌音だけがティアニーズの鼓膜に到達する。
ウルスの皮膚が破け、服を通過し、体のあちこちから剣先が生えて来た。
「何度見ても、気持ち悪いですね、それ」
「言うな、ちょっと気にしてんだから」
ウルスの力、それは武器を作り出す事だ。そのためにはエネルギーを補給する必要があるのだが、流石に燃料切れは期待出来ないだろう。そしてもう一つ、彼の真の姿だ。全身の至るところから武器が生え、放つ事も出来る。接近、遠距離、どちらにも対応出来る面倒な力だ。
見た目がキモいのは仕方ない。
「さ、とっとと目的達成と行こうか」
ニヤリと口元が歪んだ直後、僅かに見えていた剣先が姿を現し、ティアニーズ達に向けて一斉に放たれる。その他にもウルスの周囲に武器が出現し、一切容赦のない攻撃が仕掛けられた。
ーーだが、届かない。
剣の一本ですら、ティアニーズ達には当たらない。
全てを、寸分違わずに叩き落とした者がいた。
「少し遅かったか?」
「いえ、タイミングバッチリです」
ウルスの放った武器を叩き落とし、剣を構えるは蒼の騎士。
騎士の姿を目にし、ウルスは目を細めた。額に汗が滲み、面倒くさそうに呟く。
「……こりゃ、また死ぬかもな、俺」
蒼の騎士ーーアテナはティアニーズとアキンを見て、安堵したように頬を緩める。
「怪我はないようだな。二人とも無事でなによりだ」
「はい。向こうはどうなっていますか?」
「数だけで言えば圧倒的に不利だな。だが問題ないさ、こちらも手練れの勇者が揃っている」
「あ、あの、お頭はっ?」
「アンドラなら心配ない。彼は強い、私が言うんだから間違いないさ」
アンドラの無事を聞き、アキンは安心したように肩の力を抜いた。だが、まだ安堵するには部が悪すぎる。いくら手練れの勇者がいても、物量で押されれば少ないこちらが圧倒的に不利。それに加え、相手は魔元帥だ。
ーーであれば、ティアニーズのやる事はただ一つ。
「ウルスさんの事、任せても良いですか?」
「あぁ、任せてくれ」
「私とアキンさんは向こうに加勢します。それと、エリミアスは?」
「ケルトが側にいる。彼女がいれば、並大抵の魔獣ならどうにでもなる」
「分かりました」
頷くと、ティアニーズはウルスを見る事もせずに背を向けて走り出した。アキンはウルスを見てなにか言いたそうにしていたが、アンドラが気になったのか、最後には言葉を飲み込んで追い掛けて行った。
残されたのは、アテナとウルス。
「驚いたぜ、まさかあんなに簡単に俺に背を向けるとは」
「それに関しては私も同意しよう。ティアニーズの事だ、なにがなんでも君を殺すと叫ぶと思っていたんだがな……子供の成長には驚かされてばかりだよ」
以前までのティアニーズなら、たった一人でも向かって行っていた筈だ。増援なんて待たずに、それこそ死ぬと分かっていても。しかし、ティアニーズは託した。殺したくて仕方ない筈の敵を、アテナに託したのだ。
葛藤がなかった訳ではないのだろう。
剣を握り、飛び出したかった筈だ。
けれど、少女は選んだ。
自分に出来る事をやると。
「私の名前はアテナ・マイレード。君は……トワイルを殺した魔元帥だな」
「ウルスだ。トワイルの事に関しちゃ、悪かったとは思ってる。けど後悔はしてねぇ」
「トワイルを死なせてしまったのは、私が弱かったからだ」
適当に借りてきた剣を、アテナは構えた。
静かな瞳で、ウルスを見据える。
「敵討ちか? アンタ、相当強いだろ」
「脅す訳ではないが、剣の腕だけならトワイルの上司の方が上だ。ーー覚えておけ、アルフードという名を。トワイルの敵を討つのは、私ではない」
「なら、お前はどうするんだ?」
切っ先を向け、蒼の騎士は、騎士団団長は宣言する。
「君を殺す。それだけだ」