八章四十三話 『最後の試練』
柔らかく、そして優しげな眼差し。ただ肯定するだけの瞳ではなく、その中には厳しさや底知れぬ意思、説得力のようなものが宿っている。
そんな目で微笑みかけられ、ルークは言葉を失った。
美貌に目を奪われたからとか、一目惚れとか、そういうのではない。
ーー単純に、その女性の事を知っていたからだ。
「お前……なんでここに……」
知り合いと呼べるほどの仲ではないが、ルークは確かに彼女を知っている。あれは忘れもしない、テムランでの出来事だ。
ヴィランという男の言葉にティアニーズが唆され、彼の元に行ってしまった直後、重症を負ったルークの元に一人の男が現れた。
破れかぶれになっていたルークはその男ーーベルトスと限界し、そして無惨にも、ボコボコにされて敗北した。その直後、ルークは彼女と出会った。ズタボロになったルークを見て、笑っていたのを覚えている。
花の髪飾りが印象的で、迷子になっていた女性だ。
会ったのは、たったその一回のみ。
勝手に怪我を治され、彼女の語り口調や雰囲気に多少の違和感はあったものの、その後の戦いでうやむやになってしまっていた。
そんな女性が、なぜかベッドに座っている。
人間の世界でも、精霊の世界でもない、この世界にいる。
「ーーーー」
旅をして来て、驚く事なんか数えきれないほどにあった。というか、ルークの旅は驚きで半数をしめている。なので、大抵の事では動じない自信も生まれて来ていたのだがーー。
「あまり顔を見つめられらと照れちゃうかな。あれ、もしかして惚れちゃった?」
言葉を失うルークとは対照的に、女性は楽しそうにニコニコと笑っている。ベッドの感触を確かめるように掌を押し当て、跳ねたり、投げ出している足を揺らしたり。
「うーん、そこまで見つめられると逆に不快な気分になってしまうよ。そろそろなにか喋ってもらえないかな? 私一人で会話していてもつまらないだろう?」
「……お、おう」
ようやく喉が動いてくれた。適当な相づちしか打てなかったが、その一言で止まっていた時間が動き出した。
「なんでお前がここにいんだよ。お前、人間じゃねぇのか?」
「答えを急がない。とりあえず深呼吸。会話する時は冷静に、相手の話を聞いてから自分の考えを述べるべきだ」
「…………」
違和感があった。以前に会った時とは、雰囲気が別人のものになっている。なんというか、あの女性の喋り方はもっとアホっぽかったと記憶している。それに比べ、目の前の女性はどこか機械的な語り口調をしている。
ともあれ、ルークは一旦深く息を吸い、
「つか、マーシャルはどこだ? 確か試練の最中だったよな……」
「精霊の彼女ならそこ、君の足元で寝ているよ」
言われ、視線を落とすと、マーシャルが足元で幸せそうな顔で眠っていた。とりあえずぐちゃぐちゃになった頭を解そうと、女性から目を逸らしてマーシャルの肩を揺らす。それでもまったく起きないので、軽く額を叩くと、
「う……いたい……」
「なに寝てんだよ、とっとと起きろ」
「うん……? あれ、ルーク君?」
「そうだよルーク君だよ。寝ぼけてねぇで立て」
寝惚け眼を擦りながら、ルークの手を借りてマーシャルが体を起こす。ボヤけた視界で部屋の中を一通り見渡し、それからルークの肩を叩いて声を上げた。
「なにここ、どこ!?」
「うるせぇ、いきなり大声出すな。俺だって知りてぇっての」
「だってさっきまで神殿にいたのに、なんかお洒落な部屋に移動してるよ! てゆーか、あの綺麗な女の人は誰!?」
やはり落ち着くところは同じなのか、マーシャルは女性を指差した。人差し指を向けられ、女性は肩を竦めながらなぜか手を振る。
騒がしいマーシャルを一旦放置し、
「んで、お前誰だ。聞きてぇ事は山ほどある……全部答えてくれんだろーな?」
「あぁ、私が答えられる範囲ならね。ともかく、まずはこの状況を説明しよう。いきなり場所が変わってさぞ混乱しているようだし……そこの彼女をまず静かにしないと」
ルークの腕を掴み、乱暴に揺すりながらマーシャルはまだ一人で喋っている。流石にうるさくなって来たので、マーシャルの口に掌を押し当てて塞ぎ、ついでに鼻を覆った。ふごふごと息が当たり、次第に顔が青ざめーー、
「死んじゃうよ!」
「お前がうるせぇからだろ。死にたくなかったら黙ってろ。騒ぎてぇのは俺も同じだっつーの」
「だって、だって……!」
「ひとまず落ち着こう。君がそんなんじゃ、私も話すに話せない。会話を聞き逃して、同じ事を何度も訊かれるのは嫌だからね」
「わ、分かりました」
落ち着いていて、しかし圧迫感のある女性の言葉に当てられ、マーシャルは肩を落として口を結んだ。
しばしの沈黙のあと、話せる空気に満足したように頷き、
「さて、それじゃ始めるとしようか。まず、ここは精霊の世界ではない。かといって人間の世界という訳でもないし、君はまだ、試練の途中だ」
「さっきまでと全然雰囲気ちげーけど」
「最後の試練だからね、この空間を作る時間も沢山あった。予定より君が早くて少しびっくりしたけど、なんとか間に合って良かったよ」
「さっきまで俺達が進んで来た道は、お前が作ってたって事か?」
「そうだね、いきなり試練を始めるってシルフィが言うもんだから驚いたよ。あぁ、シルフィっていうのは精霊の王の名前だ」
「どーでも良いわ」
唐突に判明した王の名前。流石に王という名前ではないという事は分かっていたが、彼女の名前なんてまったく興味がない。
それよりも気になるのは、今目の前の女性が言った言葉だ。
「最後の試練、つったか」
「正真正銘、これで最後の試練だよ。これを突破すれば、君は見事精霊と契約する資格をもつ事になる。まぁ、君の場合少し特殊な状況なんだけど……それは今は良いかな。どのみち、君は知る事になると思うから」
「……? 難しい話はどうだって良いんだよ。とりあえず、お前誰だ?」
ルークの問いかけに、なぜか女性は首を傾げる。その仕草の意味が分からず、黙って彼女の返答を待っていると、
「そうか、君は知らないんだったね。ごめんごめん、忘れていたよ」
「は?」
「こっちの話だよ。気にしないでくれると助かる」
結局、返って来た答えによって、ルークはさらに怪訝な顔をした。謎の間が生まれ、数秒会話が止まってしまったが、女性は改めて切り出した。
「この姿は借り物なんだ。だから、この容姿の女性は今ここにはいない。もし君が勘違いしているなら訂正しておくけど、彼女は人間だよ。今も人間の世界で生きている」
「つー事は、お前はあの女じゃねぇって事か?」
「うん。姿も声も一緒だけれど、君の知る彼女とはまったく別人だ」
「んじゃ、なんで最初に久しぶりとか言ったんだよ」
「間違ってはいないだろう? 実際、君が彼女と会うのは久しぶりの筈だ。中身は違うけどね」
「紛らわしい事言うんじゃねぇよ」
悪びれた様子もなく、ルークの反応を楽しむように笑う女性。不機嫌そうに顔をしかめながらも、なんとか怒りを抑える。
となると、新たな疑問がわいてくる。
あの花の髪飾りの女性は人間ーーではなぜ、目の前のそれは彼女の姿を選んだのだろうか。
「彼女の姿を選んだのには、ちゃんとした理由があるんだ」
「だろうな、無作為に選んだにしてはおかしい。知り合いならもっと親い奴を選ぶだろうし、中途半端な知り合いを選ぶ理由がねぇ」
「うん、中々鋭いね」
「もったえぶってねぇで言え」
「この姿はね、この世界で一番、君を愛している人間の姿なんだよ」
「ーーは?」
ここ最近で、一番間抜けな声が出た。色々と予想はしていたが、愛している人間ーーなんて考えは少しも頭を過らなかったからだ。
口を開けて固まっていると、頬を染めて興奮した様子のマーシャルが叫んだ。
「あ、愛! もしかして、あの人がルーク君の彼女さんなの!?」
「ん、んな訳ねぇだろ! 会ったのは一回だけだし、名前だって知らねぇよ!」
「でもでも、ルーク君の事を一番愛してる人の姿なんでしょ? 知らないなんて絶対におかしいよ」
「そりゃ、そうだけどよ……」
会ったのは、あの一回だけ……の筈だ。
あの瞬間に、女性がルークに一目惚れした可能性はある。しかしながら、結婚していて旦那を探していると言っていたし、いくらなんでも一目惚れでそこまでの愛を向けられるだろうか?
「ティアとかエリミアスならまだ分かるけどよ……」
あの二人は、ルークに好意を寄せている。ルークもそれには気付いているし、あの二人のどちらかならまだ分かる。というか、逆になぜあの二人ではないのかという考えすら浮かんで来る。
「アイツら俺の事大好きだしな……」
とんでもないナルシストで、自意識過剰なのだが、事実なのでどうしようもないのである。とはいえ、ティアニーズとエリミアスはルークが大好きだ。ただの友情なのか、それとも恋愛感情なのかはさて置くとしても、だ。
となると、残る可能性は、
「嘘、ついてる訳じゃねぇよな?」
「嘘はつかないよ。ここで君に嘘をつく理由がない。試練は公平、誰にでもチャンスを与えなければ意味がないからね」
「んじゃ、マジなのか」
「マジ、だよ。この女性は君を深く愛している。この世の誰よりも、君の事を想っている」
人に愛されている、それだけなら悪い気はしない。ルークだって男だし、しかも童貞ので、女性に好意を向けられれば嬉しいに決まっている。
だが、それとこれとは話が別だ。
まったく知らない相手に好意を向けられても、恐怖しかない。
「……俺のストーカーとか?」
「ないと思うよ? ルーク君のストーカーする物好きなんて、きっといないよ」
「それはそれでなんかムカつくな」
しかし、マーシャルの言う事はもっともだ。あの女性がルークのストーカーをやっていたとは考え辛い。もしやっていたのなら、これまでのルークの戦いを見て来たという事になる。ボロボロになる愛する人、それを見て助けないのはおかしい。
「ダメだ、ぜんっぜん分かんねぇ。すげー昔に会ってる……とかもねぇ筈だし……」
「本当に? ルーク君忘れっぽそうだからなぁ。興味ない事とか直ぐに忘れちゃうでしょ?」
「興味ない事はまず聞かねぇし」
考えても、答えは出なかった。
愛を向けられる理由に、心当たりはない。実は昔に会ってました、とかはあり得るが、記憶にないので話にならない。
ルークは考える事を放棄し、
「そんで、最後の試練の内容ってなんだよ。お前がその姿でいる事にもなんか理由があんだろ?」
「ご名答。君はここまで、三つの試練を潜り抜けて来た。自分の意思を通す力、理不尽を覆す知恵、恐怖に立ち向かう勇気。それは全て、人間にとって必要なものだと僕は思う」
それっぽいキャラを演じていたのか、いつの間にか女性の一人称が僕に変わっていた。突っ込みたい気持ちを堪え、ルークは女性の言葉に耳を傾ける。
「この試練はね、当たり前のものを持っているのか試す試練なんだ。一見すると堅苦しくて難しそうに聞こえるかもしれないが、その実、やろうと思えば誰でも突破出来るようになっている」
「だろうな、割りと簡単だったし。あの王様の嫌がらせの方が面倒だった」
「彼女も彼女なりに、守りたいものがあるんだよ。やり方は少し横暴だけど、彼女にもちゃんとある。ーー愛情が」
腰を上げ、女性が立ち上がってルークの元へと進む。
こうして改めて見ると分かるが、一つ一つの仕草はあの女性とはまったく違うものだ。
「それじゃ、最後の試練の内容を話そう。最後の試練、それはーー『愛の試練』だ」
「愛の試練? なんかメルヘンチックだな」
「ルーク君に似合わない言葉一位だよね」
ノールックでマーシャルの後頭部にビンタ。頭を両手で押さえ、踞るマーシャルをよそに、女性は言葉を続ける。
「愛する人を守るため、人間というのはいくらでも強くなれる。けど、その逆もある。愛しているからこそ、相手を傷付けてしまう。この世に生まれた瞬間から、人間とは誰かに愛されているものなんだ」
「なんか羨ましいなぁ」
「精霊も同じだよ。君を作った精霊は、きっと君を愛している」
「そ、そうかな? ……そうだったら、嬉しいな」
いつの間にか復活したマーシャルが、照れたように頬をかきながらはにかんだ。その様子を見て、呆れたように行を吐きながら、ルークも笑っていた。
「人間を語る上で、愛とは切っても切り離せない存在なんだ。たとえ本人が気付いていなくても、必ず愛してくれている人間はいる。この世に、愛されていない人間なんていないんだ。限られた寿命の中で、一回は必ず誰かを愛して、そして愛される。だから、今からそれを試す」
「試すって、どうやって?」
「簡単だよ。ルーク・ガイトス。君の愛する人の名を、聞かせてくれ」
「え?」
拍子抜け、とはまさにこの事だろう。今までの試練もかなり簡単だったか、最後の試練に関してはただ人の名前を告げるだけで良いときた。最初はその内容に驚き、醜態をさらしてしまったが、ルークは直ぐにその名前をーー、
「…………」
ルークは直ぐにその、
「…………」
ルークは直ぐに、
「…………」
ルークは、
「…………」
答え、られなかった。
いくら考えても、愛する人の名前が出て来ない。
そりゃそうだ。
だってーーそんな人、いないのだから。
「ルーク君?」
「や、やべぇ……」
「ヤバいって、なにが?」
「俺の愛する人って、誰?」
「……え? そんなの私が知ってる訳ないよ。もしかして……いないの?」
驚愕しているマーシャルの問いかけに、ルークは冷や汗をだらだらと流しながら何度も頷く。これにはマーシャルもびっくり仰天、空いた口が塞がらなくなっていた。
なんとか捻り出そうとするが、
「ちなみに、嘘を言っても無駄だからね。僕には分かる。君が本当に愛している人の名前を言わない限り、この試練は突破出来ない」
笑ってそう言い、女性は優雅に踵を返して再びベッドへと戻っていた。
唸り、考え、そして唸り、しかしなにも浮かばない。
「こうなりゃ、最終手段だ」
最終手段の登場がいささか早い気もするが、今のルークはそれほどまでに追い込まれているのだ。不敵な笑みを浮かべて減らず口を叩く余裕すらない。
それでも、無理矢理笑顔を作り、その名前を口にした。
「ティアニーズ」
「違う」
「エリミアス」
「違う」
「アテナ」
「違う」
「アキン」
「違う」
そう、ルークの言う最終手段とは、知り合いの名前を片っ端から上げて行く事だ。この旅でルークが得たものは、なにも戦うための力ではない。騎士団を通じた人脈である。沢山の人と出会い、その思いに触れ、ルークはここまでやってこれた。
一人くらい、当たっていてもおかしくはない。
「メレス」
「違う」
「ハーデルト」
「違う」
「リエル」
「違う」
「ネルフリア」
「違う」
とりあえず思いつく限り女性の名前を上げていったが、ことごとく打ち砕かれた。人の名前を上げる事にルークの声が掠れ、絶望に染まって行く。
しかし、諦めない。
「ソラ」
「違う」
「レリスト」
「違う」
「ケルト」
「違う」
「トシ蔵」
「違う」
「クソ……ならマーシャル」
「違う」
「なんで私だけおまけみたいなの!」
人間ならダメ。それなら精霊ーーと思って言ってみたが、どうやら当てはまる存在はいないらしい。
奥歯を噛み締め、苦渋の決断を下す。
そこからは、ルークの知る限り全ての人間と精霊の名前を上げて言った。勿論、その中には男もいる。これで正解だったらどうしよ、とか思っていたがーー、
「アンドラ」
「違う」
「ビート」
「違う」
「ミール」
「違う」
「アルブレイル」
「違う」
「バシレ」
「違う」
ひとまず、そっちの毛はないようだ。謎の安心感とともに消失感がルークを襲い、喜びと悲しみ、その両方が入り雑じり、なんとも言えない表情でため息をつく。
そして、全て、終わった。
村にいた頃の知り合い。旅に出てから出会った人。その全ての名前を上げても、女性が頷く事はなかった。
ついには、崩れ落ちる。膝が折れ、床につき、天井を見上げてルークはうちひしがれる。
ルークを見るマーシャルの目も、この時には同情しかなかった。
「俺の愛する人って誰なんだァァァァァァ!!」
最後の試練ーー『愛の試練』、開始。