八章三十八話 『魔獣の王の歩く道』
静寂を切り裂き、シーシュの放った言葉がゼユテルの脳を支配する。
なにを、言っているのだろうか。
彼女の言葉に理解が追い付かないーー否、ゼユテルの頭が、心が、その言葉の意味を理解する事を拒んでいた。
震えていた足が止まる。
震えていた指先が止まる。
額を流れていた汗が止まる。
思考だけが、止まってはくれなかった。
「待ってくれ! コイツはなにも悪くないんだ!」
シーシュがもたらした静寂を破ったのは、隣に立っていたアポロンだった。眉一つ動かずに告げたシーシュとは違い、アポロンは唾を吐き散らしながら必死に叫ぶ。エプロンにべったりと付着している血を気にする事なく、彼女を庇うように引き寄せた。
「俺の不注意だったんだ! 背後から近づくドラゴンに気付かなくて、そんで……襲われかけたところをシーシュが……。不可抗力ってやつなんだよ!」
「…………」
声を荒げ、掠れた声でアポロンは叫んだ。
しかし、シーシュは叫ぶアポロンを制止し、
「いえ、全ての責任は私にあります。咄嗟の事とはいえ、私は精霊を手にかけました」
「ふざけんな! お前が悪い訳ねぇだろ! お前はただ、俺を守ってくれただけで……罰を受けるとしたら俺だ! 能天気に後先考えずに飛び出して、お前を巻き込んじまった俺なんだよ!」
アポロンがどれだけ叫ぼうと、どれだけ服を引っ張ろうと、シーシュはそちらに顔を向けない。
シーシュが見つめているのは、王ただ一人。
「罰は、私が受けます。同族殺しは禁忌、それを分かっていて、私は殺しました」
「だから、お前は悪くないんだよ! なんでお前が罰を受けるんだよ! 悪いのは俺だ、責任をとるとしたら俺一人なんだよ!」
「いいえ、アポロン様は悪くありません。どんな過程があろうと、どんな理由があろうと、手を下したのは私です」
「っざけんな!! なんで、なんでこんな時まで俺を庇うんだよ! おかしいだろ、お前を巻き込んだのは俺なのに、救われたのは俺なのに、なんでお前が不幸にならなくちゃいけないんだよ!」
王の間に、二人の会話だけが響く。
喉をからして、顔を歪めて、拳を握り締めて、そうまでしても、シーシュの表情は変わらない。
いや、違う。
変えないように、不安を見せないように、必死に自分を偽っているのだ。
今ここで感情を出してしまえば、もう二度と偽る事が出来なくなってしまうから。恐怖に押し潰されて、悲鳴を上げて、逃げ出してしまうから。
シーシュはアポロンを見ないんじゃない。
見れないのだ。
「頼む……頼むから、コイツは関係ないんだ!」
何度何度も頭を下げて、アポロンは王に願う。
王は言った。
酷く冷めた声色で。
「シーシュ。お前に罰を下す」
その言葉を聞いた瞬間、時間が止まったかのようにアポロンの声が消えた。
しかしその横で、シーシュは静かに頷いた。
自分の運命を、受け入れるように。
「こちらへ来い」
「分かりました」
いつもと変わらない口調で答え、シーシュは王へと踏み出す。
アポロンは、彼女の手をとった。
それだけは我慢ならないと言いたげに、手首を強く握り締めた。
「まて……」
「これが、私の最後です」
「そんなの、そんなの俺は認めねぇぞ。子を守るのが親の務めだ。お前が死ぬってんなら、俺も一緒に死んでやる」
「……まったく、貴方という人は」
そこで、初めてシーシュが表情を変えた。
呆れたようにため息をこぼし、アポロンの方へと向き直る。手首を掴む手に自分の手を重ね、
「一つ、訂正しておきます」
「…………?」
「私は、貴方が親で良かったと、心の底から思っていますよ」
前後の文が欠落しているため、意味が理解出来なかったらしく、アポロンはとぼけたような表情で口を開けた。
シーシュは微笑み、柔らかな声で呟く。
「約束はすっぽかすし、わがままばっかだし、人の話は聞かないし、何度も言っても同じ事を繰り返すし……そんな、自分勝手な貴方でも、私は好きでしたよ」
「なに、を……」
「そのままの意味です。貴方が親で良かった。他の誰でもない、貴方が親で私は幸せでした」
訳が分からないと言いたげな顔をするアポロンに対し、シーシュは今での事を思い出すように、一つ一つの言葉を刻んで行く。怒った顔、困った顔、笑った顔。次々と変わる彼女の表情は、これまでの日々を懐かしむかのようだった。
「ちゃんとしてください。私がいなくなったからって、他の精霊に迷惑をかけたらダメですよ?」
「いなくなるって、なんだよ……!」
「もう、貴方と会話する事は出来ません。もう、貴方の隣を歩く事は出来ません。しかる事も、殴る事も……きっと、これが最後になるでしょう」
そう言って、シーシュは握った拳をアポロンの額にぶつけた。
その拳が震えていた事は、アポロンにしか分からなかった。
「貴方との冒険、楽しかったです。同じ場所を何度も巡って来ましたけど、それでも楽しかったです。貴方の言う通り、生きる目的があった方が楽しかったです。それも全て、アポロン様、貴方と一緒だったからですよ」
「やめろ……やめろ……」
「ありがとうございました。貴方は、最高の親でした」
手首にかけられた指を、一つ一つ剥がして行く。弱々しくへたりこむアポロンの拘束を解くのは、シーシュの腕力でも十分だった。
頬に触れ、頬を緩め、シーシュは笑って頭を下げた。
次に顔を上げた時には、シーシュの表情に笑顔はなかった。覚悟と決意ーー絶望なんて一切感じさせない瞳で王を見つめ、アポロンに背を向けて歩き出した。
這いつくばり、震える手をアポロンが伸ばしても、彼女が振り返る事はなかった。
「お願いします」
王の前に立ち、シーシュは頷く。
王は冷めた瞳でシーシュを見据え、手を伸ばすーー、
「触るな……」
アポロンの声に、王が手を止めた。
アポロンの瞳に宿っていたのは、明確な殺意だった。
「俺の子供に触るな。指一本でも触れてみろ……テメェら全員ぶっ殺してやる……!」
殺意の乗せられた拳が上がる。
その直後、一人の精霊が動いた。アポロンがなにかするよりも早く炎を放ち、彼の腕を縛り上げて地べたに叩きつける。額が割け、血飛沫が上がった。
精霊ーーヴァイスはアポロンの腕を固め、
「王の御膳だ、言葉を慎め」
「うるせぇ! 離せ! 俺に触んな!」
「罪を犯したのはシーシュ。王はそう仰られたんだ、見逃された事に気付け」
「関係ねぇ! んなの関係ねぇんだよ! なにが罪だ、なにが禁忌だ! 他人を助けた奴がなんで罰を受けなきゃいけねぇんだよ! 人助けした奴がなんで不幸にならなくちゃいけねぇんだよ! 触んな……触んじゃねぇ!」
ベキベキ、と関節から不気味な音を鳴らしながらも、アポロンは体を起こそうとしていた。しかし、直ぐ様他の精霊が抑えにかかり、立ち上がりかけた体が再び地面に叩きつけられる。
血を流し、狂気に満ちた目で、アポロンは王を見るーー、
「さよなら」
「ーーーー」
彼の目にうつったのは、シーシュの笑顔だった。
ーーそして、全てが終わった。
音もなく、ガラスが砕けるように、シーシュの体が消えた。
ゆらゆらと宙に浮かぶ欠片は霧散し、シーシュだったものは、光の粒となって消滅した。
欠片一つ残さず、全てが消え去った。
声も、笑顔も、なにもかも。
彼女の存在は、消えてなくなった。
「シィ……シュ……?」
ゆっくりと、アポロンの目が開かれる。
ようやくそこで、ゼユテルの頭が状況に追い付いた。
しかし、遅かった。
なにもかも、手遅れだった。
シーシュも。
そして、アポロンも。
「アァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァアァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!!!!!!」
発狂にも似た叫び声が空間を引き裂いた。
アポロンを押さえ付けていたヴァイス達の体が吹っ飛ばされ、王の間の壁に巨大な亀裂が走る。一人の精霊は腕をもがれ、一人の精霊は脇腹を吹っ飛ばされ、一人の精霊は左目を潰されーーアポロンは血に濡れた拳を握り、怒りと憎しみ、憤怒に染まった瞳で立ち上がる。
誰一人、動けなかった。
今この場を支配しているのは恐怖。
死ぬかもしれないという、逆らう事の出来ない絶対的な恐怖だった。
「ぶっ殺ス!!!!」
アポロンが強く地を踏んだ瞬間、辺りに激しい炎が走った。咄嗟に反応してヴァイスも同じ規模の炎を放ったが、アポロンの炎はそれを易々と消し去り、彼の怒りを表すかのように王の間を包みこんだ。
唯一動けたのは、ゼユテルだけだった。
轟々と燃える炎の中、自身の体が焼けるのも気にせずに走り出していた。
「落ち着け! アポロン!」
「黙ってろ! 全員俺がここで殺してやる!!」
「そんな事をすれば、お前まで罰を受ける事になる! なんのためにシーシュが自分を犠牲にしたと思ってるんだ!」
「そんな事知るか! 優しかったアイツが、誰よりも優しかったシーシュが、なんで消えなくちゃならねぇんだよ! そんなの、絶対にまちがってる!!」
ゼユテルの言葉ですら、今のアポロンには届かない。
なんとか止めようと腕を掴むと、ゼユテルの掌から煙が上がった。肉が焦げたような異臭が漂い、遅れて痛みと熱が腕を支配する。それでも、ゼユテルはその手を離さなかった。
「コイツらを殺しても意味なんかない! アイツに助けられた命を無駄にするな!」
「アイツに助けられた命だからこそ、アイツのために使うんだよ! なにがルールだ、なにが罰だ! 正しい事をした奴が救われない世界なんか……俺がこの手でぶっ壊してやるーーッ!!」
感覚のなくなった手から、アポロンの腕がすり抜ける。全身を怒りの炎で燃やし、王に向かって走る姿がゼユテルの目に焼き付いた。
ただ、友人を救いたかった。
ただ、友人の残したものを守りたかった。
だから、ゼユテルは手を伸ばした。
友人を止めるために、友人が残したものを守るために。
しかしそれは、彼の望む結果にはならなかった。
「ーーゼユ、テル……?」
友人の声が、耳に滑り込んで来た。
驚いたように顔を歪め、顔だけを動かして背後に立つゼユテルへと目を向けた。
「なん、で……お前、が……」
そう言った友人の口から、赤い血がこぼれ落ちる。
なにが起きたのか分からず、ゼユテルはアポロンの顔を見つめる
。
そして、遅れて気付いた。
ーー自分の右腕が、友人の胸のど真ん中を貫いている事に。
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ゼユテルの腕を伝い、溢れる血液が地面を濡らす。雫が床にぶつかる音だけが響き、王の間を支配していた炎が力を失ったようにゆっくりと消えて行く。
それと同時に、腕を包んでいた感覚が消えた。
粘着感な音とともに、アポロンの体がゼユテルの腕から離れた。支えを失った体はバタリと倒れ、大量の血がみるみるうちに地面を濡らす。
「お、俺は……」
「なんで、だよ……! なんで、お前なんだよ!」
後退り、へたりこむようにして尻餅をついた。焼けて感覚のない腕が、小刻みに震えている。視界が白黒に点滅し、目の前でもがく友人の姿さえまともに捉える事が出来ない。
アポロンは口から血を吐き出しながら動こうとするが、自分の血で滑って上手く立ち上がる事が出来ていない。
「ち、違う……! 俺はただ……」
「……ふざ、けんな…………」
「違う、違うんだ! 俺はお前を止めたくて……! 」
過呼吸になり、這いつくばりながらもアポロンへと駆け寄った。胸から止まる事なく血液が流れ、ゼユテルの全身は彼の血で染まって行く。
「クソ……。ごめんな、シーシュ……」
アポロンが最後に残した言葉は、それだった。
胸の核を破壊され、アポロンの体が光の粒子となって消滅する。
必死に手を動かして光を掴もうとするが、光の粒はゼユテルの手から逃げるようにすり抜ける。
ゼユテルの手が、友人に届く事はない。
もう二度と、届く事はなかった。
「……俺が、殺したのか?」
赤く染まった両手を見つめ、震える声で呟いた。
ゼユテルを、自分が殺した。
そんな筈はない。止めたくて、手を伸ばしただけだ。死んでほしくなくて、守りたくて、殺してほしくなくて、手を伸ばしただけだ。
違う。
殺したのは俺じゃない。
違う。
殺したのは俺じゃない。
違う。
殺したのは俺はじゃない。
違う。
殺したのは俺はじゃない。
違う。
殺したのは俺はじゃない。
違う。
殺したのは俺はじゃない。
違う。違う。違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違うーー、
「ーーーー」
不意に、ゼユテルは顔を上げた。
自分のやった事から逃げたくて、そうじゃないと思いたくて、目を逸らすように顔を上げた。
そこに待っていたのは、視線だった。
こちらを見つめる、精霊達の視線だった。
「なん、だ……。なんで、俺を見てるんだ……」
訳が分からない。
「なんでそんな目で俺を見るんだ! 違う、俺じゃない……! 俺は助けたかっただけなんだ!」
訳が分からない。
「守りたかっただけなんだ! 友達が誰かの命を奪う瞬間なんて見たくなかっただけなんだ!」
訳が分からない。
「そうだろ! お前達だって見てただろ!」
なんで、そんな目で俺を見るんだ。
なんで、そんな冷めた目で俺を見るんだ。
なんでーーそんな目が出来るんだ。
上擦った声で叫んでも、誰も答えない。
まるで、罪人でも見るかのような目で、ゼユテルを見つめているだけだ。
そこへ、声がした。
「ゼユテル。お前は、禁忌を犯した」
冷たい言葉だった。冷たい声だった。
冷たい目だった。冷たい表情だった。
哀れみがあったのなら、どれだけ楽だったか。
せめて同情くらいしてくれたら、どれだけ楽だった。
王の言葉には、そんなもの欠片もない。
ただ事実を述べただけであり、ただ言葉を発しただけだ。
「……けるな」
こんな事、認められない。
「……ざけるな」
なんでこんな事になったんだ。
なにもない平凡な毎日が続けばそれで良かったのに。特別なものなんかいらない、飽きてしまうほどにつまらない毎日でも、友達と笑って話せる時間さえあれば良かったのに。
「ふざけるなーー!!」
なんで、俺が悪みたいな言い方をするんだ。
「俺は、お前を助けたんだぞ! 俺が助けなかったら、お前は殺されていたんだぞ!」
俺は救ってやったんだ。
友人の命を奪ってまで、助けてやったんだぞ。
「私がいつ、そんな事を頼んだ?」
「なんだよ、それ……」
どこまで行っても、王の言葉は冷酷だった。
自分には関係ないと、お前が勝手にやった事だと、自業自得だとーーそう言っていた。
赤く濡れた拳を地面に叩きつけ、ゼユテルは叫ぶ。
「俺がやらなきゃ、お前は死んでたんだぞ! なのに、なにが頼んでないだ! 知らないみたいな顔しやがって、誰のおかけで生きていられると思ってるんだ!」
「そんな事私は頼んでいない。お前が勝手にやった事だろう」
ふざけるな。
「お前らもそうだ、なんで黙ってるんだよ! 俺は正しい事をしたんだ!」
ふざけるな。
「お前達が誰も動かなかったから、俺が動いたんだろ! 友人の命を奪って……それなのに!」
ふざけるな。
「なんだよその目は! なんで誰もなにも言わないんだよ!」
ふざけるな。
「俺は間違ってないって言ってくれよ! 助けたんだ、救ったんだ、俺は……俺は」
ふざけるな。
「なんで……黙ってるんだよ……!」
誰一人、口を開く者はいない。
表情に違いはあれど、関わる事を拒んでいる。
ヴァイスも、レリストも、スリュードも、ナタレムも、ロルーファスも、アルトも、ファイドも、ライルケルも、バーデンも、ケイドも、ノーマンも、カイサルも。
誰も、なにも言ってくれない。
正しいとも、間違っているとも。
二人も友人を失って、悪者にされて、なんでこんな事になったのか。悪い事なんかなに一つやっていない。やったのは人助けだ。死にそうになっているのを助けただけだ。今日だってただ空を眺めていただけだ。昨日だって、友人と下らない話をしただけだ。その前も、その前も、その前も、裁かれるような事なんかなにもやっていない。平凡に、平穏に、ただ普通に暮らしていただけだ。
なのに、なんで。
なんで、俺が悪者なんだよ。
「黙ってないでなんとか言えよ……。なぁ、俺は間違ってたのか? 友人を殺してまで助けたんだぞ? 一日に二人も友人を失って、そんな思いをしてまで助けたんだぞ? それこどこが罪なんだよ。人助けは罪なのか? 訳が分からない……俺だって頭が追い付いてないんだよ! 友人がいきなり精霊を殺したなんて言い出して……さっきまで普通に喋ってたんだぞ! それがたったの数時間でこうなって、消されて……目の前で、自分の手で友人を殺して……ただ、助けたかっただけなのに。シーシュが残した命を無駄にしてほしくなくて、罪を犯してほしくなくて、それが嫌で止めただけなんだよ! 確かに禁忌を犯したのかもしれない! けど! 俺がやらなきゃ死んでたんだぞ! 俺が手を汚さなきゃ、お前は今もこうして生きていられなかったんだぞ! 俺のどこが間違ってるんだよ、なにがダメだったんだよ、なんで俺を責めるんだよ、助けただけだろ! 命を救うのは罪なのか! ふざけるな……正しい事をした奴が裁かれる事の方が、罪に決まってるだろ! なのに、お前達は見てみぬ振りか! 自分達が巻き込まれたくないから、罰を受けるのが嫌だから、正しい事をした俺を見捨てるのかよ! お前ら……お前らおかしいぞ……。誰か、なんとか言ってくれよ……。なんで、なんで俺が悪なんだよ!!」
ゼユテルは、自分でもなにを言っているのか良く分かっていなかった。訳の分からないこの気持ちを、どこかに捨てたくて、紛らわしたくて、行き場のない気持ちを、声を枯らしながらひたすら叫んだ。
けれど、誰も答えなない。
王が、ゼユテルへと歩みよる。
「お前の気持ちなんてどうでも良い。お前は精霊を殺した、それだけで十分だ」
言って、王はゼユテルへと手を伸ばす。
反射的に弾こうとしたが感情に体がついていけず、振り回した手が空を切り、王の伸ばした手がゼユテルの胸の核に届いた。
王の力は、精霊を作り替えるもの。
形も、記憶も、なにもかもを、自分の思い描いた通りに作り替えてしまう。
その力がーー、
「ーー!?」
瞬間、眩い光とともに王の手が弾かれた。
動揺したように後退る王に、ゼユテル怒りは宿した瞳を向ける。なにかした訳ではない。強いて言うのなら、ゼユテルの憎悪が、歪んだ強い意思が、王の力を退けたのだ。
「俺に触るなッ!!」
「なにをした、なぜ私の力が通用しない」
再びこちらに迫る王を突飛ばし、ゼユテルはフラフラとよろけながら距離をとった。焼けた手を乱暴に振り回し、駄々をこねる子供のように暴れまわる。それくらいしか、ゼユテルには出来なかった。叫んでも、叫んでも誰も答えないのなら、もうどうすれば良いのか分からないから。
「俺は正しい……俺は間違ってない……俺は、俺はーー」
「ーー確かに、君は正しい事をした」
その時だった。
その、声がしたのは。
誰一人として口を開かなかった状況の中、響いた声は酷く呑気で、楽観的なものだった。
振り返ると、そこには光があった。
人の形をした光だ。目も、鼻も、口もなく、光が人の形をしているだけだ。
「……お前」
「全部、見ていたよ。本来なら僕は介入するべきじゃないんだろうけど、流石に彼女の力が通用しないとなるとね……。よほど、君の意思は強いみたいだ」
「今さらなにをしに来た……!」
「なにって、そんなの一つだけだよ。僕のーー神様の役目を果たしに来ただけだ」
光が動く。
手にあたる部分を動かすと同時に、それの放つ光がゼユテルを包んだ。無くなっていた手の感覚が戻り、全身を濡らしていた友人の血液が洗い流したように消える。
「君は正しい。命を救うっていう行為自体は、褒められるべきものだと思うよ。けど、命を奪うのはいけない。たとえどんな理由があろうとも、ルールに背いた殺しはただの罪だ」
戻った筈の手足の感覚が消えて行く。
無視したいのに、それの言葉が勝手に耳へと侵入して来る。
「彼女の力では、君に罰を与える事は出来ない。だから、僕が代わりに罰を与える。君の定義を精霊から別のものに書き換える。精霊と人間の間、酷く曖昧なものへと」
ゆっくりと、視界が白く染まって行く。
逆らう事は出来ず、訪れる結果をただ受け入れる事しか出来ない。自分の体になにかが入りこみ、内側から食い荒らすような覚えのない感覚が襲う。
「もう一度、君のやった事が本当に正しかったのか確かめてごらん。人間の世界で、ね」
その言葉を最後に、ゼユテルの意識は途絶えた。
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次に彼が目を覚ました時、そこは知らない場所だった。
空には月が浮かんでおり、星が眩いほどに輝いている。
「…………」
精霊の国ではない。そもそも精霊の国には夜という概念がない。月はおろか、太陽すらないのだ。本物の夜空を間近で見るのは、これが初めてだった。
その美しさに、全てを忘れて息を飲んだ。
でも。
「お前の、言う通りだ……」
寝転び、夜空を見上げて呟いた。
今見えている光景は、偽物だ。
腐った存在が創った、腐った世界の一部だ。
「正しい事をした奴が裁かれるなんて、間違っている」
ゼユテルには、この世界が酷く濁って見えた。
自分の手を眺め、友人を殺した瞬間の感覚を確かめる。
「俺が、やるよ。お前のやりたかった事を、最後の願いを果たす」
こんな世界、間違っている。
自分にしか、それは出来ない事だ。この世界の間違いを、過ちを、ゼユテルだけが知っている。
「ーーこの間違った世界を、俺が変える」
ゼユテルが、自分の歩く道を決めたのは、この時だった。
全てを変えるために、王を、神を殺すために、ゼユテルは動き出した。自分の魂を八つに引き裂き、名前を与え、人格を与え、目的のために人を殺し始めた。
精霊の世界には、とあるルールがある。
自然災害やなんらかの外的要因によって人間の数が一定の数を下回った場合、精霊はその原因を排除しなければならない。
ゼユテルは、そのルールを利用した。
人間を殺して、殺して、殺して、精霊が降りて来ざるを得ない状況を作り出す。精霊は契約をしなければ人間の世界では力を十分に発揮出来ない。精霊の国に乗り込んでも勝ち目がない以上、ゼユテルにはその方法しかなかった。
人間を殺し、精霊を殺し、神を殺す。
そのために、ゼユテルは創った。
人間を殺すためだけの、獣を。
いつしか人間は、その獣をこう呼ぶようになった。
悪魔の生んだ獣ーー魔獣と。
だから、ゼユテルは自らをこう名乗った。
魔獣の王ーー魔王と。
全ては、この間違った世界を変えるため。
自分が命を奪った、友人の願いを叶えるため。
ーー魔獣の王は、自分の信じた道を歩く。