八章三十七話 『始まりの物語』
これは、始まりの物語だ。
この物語の結末はすでに決まっている。
どれだけ足掻こうが、どれだけ叫ぼうが、男の歩く道に待ち受けているのは絶望だけ。
憎しみと憤怒にまみれた、絶望の物語。
ーーゼユテルという名の、一人の精霊の物語。
彼は平凡だった。
精霊という時点で平凡という言葉が当てはまるのかは謎だが、精霊の中では平凡な部類に入る。
見た目もそうだ。中肉中背、黒髪に平均的な身長。特記すべき点などは特になく、彼を口頭で説明する場合、ほとんどの精霊が口を揃えて平凡という単語を使う。
ゼユテル自身、平凡と言われる事に対してはなんのコンプレックスもなかった。平凡なのは誰よりも理解しているつもりだし、変人揃いの上級精霊の中でも、ある意味では目立つ存在であったからだ。
そう、普通だった。
少なくとも、この時点では。
「なぁ、ゼユテル。お前生きてて楽しいって思った事あるか?」
ある日、一人の精霊がそんな事を言った。
男の名前はアポロン。ゼユテルと同様に上級精霊の一人で、友人と呼ぶに相応しい存在だ。
赤い髪に赤い瞳。本人が意識しているのかは分からないが、赤色の服を主に身に付けている。
ゼユテルは空を見上げ、困ったように肩をすくめる。
「そんなの、考えた事すらない」
「なんだよ、つまらねぇ奴だな。俺達精霊は寿命がない。この先どれくらい生きるか分からないんだぞ? 楽しみの一つや二つ、見つけといて損はないだろ」
「楽しみか……。俺はこうやって、なにもない毎日を繰り返せるだけで満足なんだよ。そういうお前は、なにかあるのか?」
「ない。だから聞いてんだろ」
腕を組み、アポロンは笑顔でそう言った。
アポロンはいつもこの調子だ。答えのない問いかけをしておいて、自分では考えていないのか、全てを放り投げたような態度をとる。そこに悪意がまったくと言っていいほどないために、いつも責めるに責められないのだ。
アポロンは笑みのまま、言葉を続ける。
「俺達さ、何年くらい生きてる?」
「さぁな。そんなの数えてる精霊の方が珍しいと思うぞ。少なくとも、俺は五百年で数えるのを辞めた」
「すげーな。俺なんか五十年で辞めたってのに。ま、数えられないくらい生きてるって事だよな」
「これから先も、な」
この会話だって、何度繰り返したか分からない。
けれど、ゼユテルはこんな毎日が好きだった。なにか特別な事がある訳でもなく、昨日と同じ今日が、今日と同じ明日が、何年も、何千年も続いて行く。平凡で、平和で、当たり前の日常。
それで、ゼユテルは満足だった。
柵から上半身を乗り出し、アポロンはあくびを噛み殺しながら遠くへと視線を移す。
「この世界も、何回冒険したんだろうな。隅から隅まで歩き回ったよな」
「お前のせいでな。良い迷惑だよ、同じところを何回も見て回るのは退屈過ぎる」
「同じ毎日、とか言っといてなんだよ。仕方ねぇだろ、それ意外にやる事なんかないんだからよ」
「やりたいならお前一人でやれ。たまには巻き込まれるこっちの事も考えたらどうだ?」
「誘ってもお前くらいしか来てくれねーんだよ。前に一回だけアルトを誘ったんだけどさ、無視された」
「アイツはなにを考えているのか分からないからな……」
アポロンと同じように身を乗り出し、どこまでも続く地平線へと目を移した。
ここは塔の最上階、精霊の国にある唯一の町を見渡す事が出来るテラスのような場所だ。視界を遮る高い壁はなく、町を飛び出して草原を駆ける精霊の姿が良く見える。
「ゼユテル、俺さ……人間の世界に行きてぇんだよ」
「やめておけ。王がそんなの許す訳がない。そもそも人間の世界に行ってなにをするつもりだ?」
「なにって、冒険だよ冒険。もう長い事人間の世界に行ってねぇだろ? その間にすげー変わってるしよ、ここにいるよりかはマシだと思うんだわ」
「原則、精霊は人間と関わってはならない。今と昔は違うんだ、人間は自分達を裁くための法を作った。もう、俺達が介入する理由はない」
「理由とか決まりとかどうでも良いんだよ。ロマンとスリル、生きてるって心地を味わうにはそれが一番だろ」
こう言って、アポロンは毎回ルールすれすれの事をやっていた。元々ひねくれた性格なので、決まりとか約束には反発したくなるらしく、王との関係もあまりよろしくはない。それを止めるのが、ゼユテルの役目だった。
「そろそろ大人になれ。お前の言うつまらない決まりがなければ、秩序が乱れて国は終わる」
「それは分かってるっての。けどよ、ずーっと長い事縛られて……何て言うか、窮屈なんだよ」
柵に顎を乗せ、アポロンはつまらなさそうに大きく息を吐いた。その瞳は景色を見ているようで、まったく違うものを見ているような瞳だ。
ゼユテルも同じようにため息をこぼし、アポロンの肩を叩いた。
「ルールを破ればどうなるか、お前だって分かっていない訳じゃないだろ。それが嫌なら、大人しく過ごせ」
「ぶー、だから、それが嫌だって言ってんの」
唇を尖らせて話を聞くつもりのない態度のアポロンに、ゼユテルは苦笑いする事しか出来なかった。
その後も他愛ない会話を続けていると、二人だけのテラスにコツコツと足音が響いた。
「あ、こんなところにいたんですね。まったくもう、探しましたよ」
「ん? おー、どうした?」
背後から聞こえた声、その方向へ揃って顔を向けると、一人の女性が腰に手を当てて立っていた。
ツインテールの、エプロン姿の女性だ。
「どうした、じゃありませんよ。アポロン様ですよ、この時間帯は空けておいてくれと言ったのは」
「……え? そうだっけ?」
「はぁ……またか」
とぼけた様子のアポロンに、二人は同時に肩を落とす。
彼女の名前はシーシュ。アポロンが創った精霊だ。
「お前、またなにか約束をしてたんじゃないのか?」
「約束、約束約束……あぁ!」
「忘れていたんですね。これで何回目ですか?」
大声とともに体を跳ねさせ、危うく柵から落ちそうになるアポロン。手を振り回してなんとか体勢を整えると、こちらへと歩みよるシーシュに向けて両手を合わせて頭を下げた。
「悪い、完全に忘れてた」
「どこかに冒険へ行こう、なんて手紙だけを残しといたくせに、忘れるとはどういう了見ですか?」
「いやぁ、ゼユテルと話すのに夢中でよ……。いや、マジでごめん、この通り」
笑って誤魔化そうとしたらしいが、シーシュの凄まじい剣幕に押されて平謝り。
この光景は、非常に珍しいものだ。精霊の世界では上級精霊の権力は絶大なもので、自分より下の存在に頭を下げる事はまずない。しかし、アポロンは別だ。ことある事に精霊を巻き込み、約束を忘れるため、もはや日常的な光景の一つとなっている。
「良いですよ、貴方は何度言っても覚えるという事をしないのは分かっていますから。ゼユテル様、おはようございます」
「あぁ、おはよう。お前も大変だな」
「本当ですよ。ダメな親をもつ人間の気持ちが分かります。ゼユテル様のような親をもったら、どれだけ幸せだったか」
「俺は子供を作らない主義なんだ。管理は出来ないし、なによりも……作る意味がない。このバカのように、ところ構わず作る精霊も珍しいがな」
「しょ、しょーがないだろ。会話相手になってくれるのはお前くらいだし、そうなると自分で作るしかねぇじゃん」
「面倒に巻き込まれる私達の事も少しは考えてくださいね」
前、そして横から浴びせられる文句の嵐にアポロンは限界まで縮こまり、上級精霊としての威厳はどこかへ飛んで行ってしまっていた。
ゼユテルは話を切り替えるように咳をして、
「それにしても、また冒険か。本当にバカの一つ覚えだな」
「バカとはなんだバカとは。昨日と同じ場所でも、心持ち一つで違う風景に見えるんだよ」
「その言葉、何千回も聞きました。毎回心持ちを変えられるなんて羨ましいですね、能天気って本当に素晴らしい」
「……あれ、これって褒められてるの?」
「勿論、バカにしてますよ」
一応言っておくが、立場的にはアポロンの方が上だ。それでも容赦のない言葉を平気で浴びせさせられるのは、彼の人柄によるものが大きいのだろう。
「それで、その冒険とやらには行くんですか?」
「当たり前だろ。今も暇すぎて困ってたところなんだよ。つー事で……」
「断る。俺は絶対に行かないぞ」
「なんだよつれねーな。俺とお前の仲だろ?」
「俺とお前の仲だからハッキリと言っておく。良い迷惑だ、厚かましい」
わざとらしくオーバーリアクションをとり、アポロンは手で顔をおおって泣き真似。そんな子供騙しに引っかかる訳がないので、ゼユテルはあえてシカトした。
「すみません、いつもうちのバカな父親が」
「いや、お前は悪くない。お前は良く出来た精霊だよ」
「そんな事言ってくれるのはゼユテル様だけです。この男、迷惑はかけるくせにこれと言ってお詫びをする訳ではないですから」
「あのなぁ、父親にお詫びを要求する奴がどこにいるんだよ」
「ここに」
「そんな子に育てた覚えはありません!」
人間の子育てとは違い、精霊は作られた姿形のままで成長する事はなく、付きっきりでなにかを教えるーーという事もしないので、今のアポロンの言葉は当てはまらない。
渾身の反論を簡単に打ち砕かれ、アポロンは自暴自棄になったように叫びを上げ、
「そんな事言う奴には罰を与える。罰として俺について来い」
「最初から行くつもりですけど?」
「え、そうなの?」
「はい。貴方は一人だとなにをするか分かったもんじゃありませんから。誰かが側にいないとーーですよね、ゼユテル様」
無言のまま、過剰なほど首を縦に振るゼユテル。
ゼユテルこのそんな態度を見て、アポロンはさらに悔しそうに唇を噛み締めた。
「別に良いし、お前は今日連れて行ってやらねぇかんな! 大人しく寂しく留守番でもしてな!」
「行きたいなんて一言も言っていないぞ。それに、大人しくて寂しいのは大好きだ」
「そんな事言って、本当は一緒に来たいくせに。今素直に言ったら連れて行ってやるぞ? お?」
「……シーシュ、このバカを任せた」
本当に、心の底から行きたくないので、アポロンの挑発を全てスルーしてシーシュへと話を振る。大袈裟に崩れ落ちるアポロンの横で、シーシュは柔らかく微笑み、
「はい、任せてください。さ、行きますよ」
「クッソ! 覚えとけよ! いつか冒険に行きたいって言わせてやるからな! 俺が人間の世界に行けても、お前は連れて行ってやらないからな!」
シーシュにズルズルと引きずられながらも、アポロンは声を荒げて叫んでいた。
二人の姿が完全に見えなくなり、嵐が過ぎ去ったかのような静かさが訪れる。真っ青な空に目を向け、ゼユテルは笑った。
「……騒がしいな」
いつもと変わらない、なんの変鉄もない毎日。
騒ぐアポロンを宥めて、最後には笑う。
ゼユテルは、そんな毎日が好きだった。こうして当たり前の毎日を繰り返す事が、たとえロマンやスリルがなくとも、ゼユテルにとってはかけがえのない日常だった。
それが、いつまでも続けばと、そう願っていた。
けれど、けれどーー。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
それから数時間、ゼユテルはなにをするでもなく空を眺めていた。。
異変に気付いたのは、不意に視線を下に落とした時だ。ざわざわと精霊達が騒いでおり、不安な表情でこちらをーー塔を見上げてもある。
「……なんだ?」
明らかに様子がおかしい。少なくともゼユテルが知る限り、生まれて来てからこんな事はなかった。恐怖、不安、緊張、得体の知れないなにかが渦巻いているーーそんな印象を受けた。
目を細めて見下ろしていると、
「ここにいたか」
背後から声がした。
聞き覚えのある声、どちらかと言えば、ゼユテルが得意ではない精霊の声だった。
「アルト……」
白い頭の、小柄な体型の少女。しかしながら、彼女のまとう雰囲気は老人に近く、顔のあどけなさとは似合わず、威圧感な空気をそこら中に撒き散らしていた。
感情のない瞳で、こちらを見ている。
「問題が起きた、王の間に来い」
「問題? なぜ俺を呼ぶ、お前や王が勝手に処理をすれば良いだけの話だろ」
「そうもいかないからわざわざ貴様を呼びに来たんだ。その様子では、やはりなにも知らないらしいな」
なにか引っかかる言い方に、ゼユテルは眉を寄せた。そもそも、精霊の国で問題が起こる事自体が珍しい。王は自身の力で精霊の国全体を見渡せるため、たとえ小さな罪だとしても、犯す精霊がいないからだ。仮になにか起こったとしても、いつもならば王やアルトが勝手に終わらせてしまう事が多い。
「悪いな、俺は今日、ずっとここで空を見ていた。思い当たるふしはないもない」
「空? こんななにもないものを見てなにが楽しいんだ。理解出来んな」
ゼユテルは、アルトのこういうところが苦手だった。
なに事にも興味がなく、全ての物事に対して達観している。自分は輪の外にいて、なにが起きても関係ない。そう言いたげに、彼女はいつもどこか違うところを見ている。そんなアルトの瞳が、冷たさが、ゼユテルは苦手だった。
そんな事を知るよしもないアルトは、一瞬だけ空を見上げ、直ぐにゼユテルへと視線を戻した。
「まぁ良い、ともかく来い」
「何度も言わせるな、俺はーー」
「禁忌を犯した者がいる」
開きかけた口が、喉まで出かけた言葉が、アルトの言葉によってねじ伏せられた。
ゼユテルは目を見開き、自分の耳を疑った。
禁忌ーーそれは、
「同族殺し……か」
「あぁ、私も詳しい事情は知らんがな。しかしあったのは間違いない、王が珍しく顔を曇らせていたからな」
精霊の国にはいくつかのルールがある。
その中でも絶対に破ってならないもの、禁忌と呼ばれる決まり事があった。
ーー同族殺し。
精霊が、精霊を殺す事だ。
いつからそんな決まりがあるのかは分からないが、このルールだけは王が作ったものではない。なぜかーー簡単だ。誰も、そんな事する筈がないと思っていたからだ。
精霊は人間とは違う。
争いとはなにかを巡って起こるものであって、精霊は欲するものをある程度は手に入れる事が出来てしまう。
喧嘩はあっても、それが殺しあいに発展する事なんて今まで一度もなかった。
それが、今ーー。
「それは、本当なのか? だとしたら誰が誰を殺したんだ」
「自分の目で確かめろ。他の精霊は全て王の間に揃っている」
「……なぜだ、なぜ、今言わない」
「自分の目で確かめろと言った筈だ」
分からない。分からないけれど、嫌な予感がした。
体の奥底で蠢くなにかが、今までに感じた事のないような不安を血管を辿って全身に巡らせていた。吐き気がする。視界がボヤけ、頭をなにかでぶん殴られたかのような鈍痛に襲われた。
いてもたってもいられず、ゼユテルは気付いたら走り出していた。
無表情のままこちらを見つめるアルトの横を通り過ぎ、上手く力の入らない足を無理矢理動かして。
呼吸が荒かった。思い当たる事なんてない筈なのに、誰かに核を握り締められたような感覚があった。ダラダラと汗が流れ、真っ直ぐと走る事さえ叶わなくなっていた。
それでも必死に走り、ゼユテルは転移床の前までたどり着く。
息を整える暇もないまま、ゼユテルは乱暴に転移床を踏みつける。直後、視界が白一色に染まった。
どこか、知らない場所に流されて行くような感覚の中、次に目を覚ますと、そこは王の間だった。
アルトの言っていた通りに、すでに他の上級精霊は揃っている。
「…………」
誰も、こちらを見ていない。
必死に呼吸を整えるゼユテルの息遣いだけが響き渡っていた。目を擦り、ボケる視界の中で目を凝らす。
全員の視線の先へと、ゼユテルは顔を向けた。
「ーーーー」
時間が止まったかのような衝撃があった。
精霊達の視線の先には、二人の精霊がいる。
一人は男で、一人は女だ。
女の方の精霊のまとう衣服に、なにか赤い液体のようなものがべったりと付着している。真っ白だった筈のエプロンが赤く染まっており、その液体は女の頬を濡らしていた。
思わず、目を疑った。
嘘であってくれと、見間違えであってくれと願った。
根拠のない嫌な予感が、今まさに現実となる瞬間を目にした。
事態に頭が追い付かない。
しかし、無情にも時間は動きだし、静寂は言葉によって切り裂かれた。
「ーー私が、精霊を殺しました」
赤い液体を、血で全身を濡らす女ーーシーシュは、静かにそう言った。