八章二十話 『リスタート』
空を見上げ、ルークは頷いた。
雲一つない青空、おまけに太陽もない綺麗なお空。清々しいほどに本日も快晴である。
とりあえず、どうやらここは精霊の国で間違いないらしい。
「……はぁ、また振り出しかよ。つかここどこ、前より離れてたりしねぇよな」
ため息と同時に肩を落とし、見事なまでに吹き飛んでしまった苦労を思い出すルーク。
その視線の先、ボーッと突っ立っていたマーシャルがこちらへと体を向け、おもむろに走り出した。ルークの目の前で跳躍し、そのまま二本の腕でばつをつくると、
「クロスチョォォォップ!」
「ぅべば!?」
ルークの喉仏に華麗なクロスチョップが激突した。そのまま体勢を崩して後頭部を強打。おまけにマーシャルが腹の上にのし掛かると、ルークの首をしっかりと掴んで絞め付ける。
「信じられない! いくら精霊だからって女の子をぶん投げるなんて!」
「あ、謝るから首絞めないで! ルークさん色々と混乱してんの!」
「そんなの知らない! すっごく怖かったんだからね!」
「うるせぇ! これも罰だ!」
「都合の良い時だけそうやって! なんでもかんでも罰で済むと思ったら大間違いなんだからね!」
頸動脈を完璧に決められ、段々と意識が薄れて行く。割りとマジで命の危機を感じたので、ルークは渾身の力を振り絞って腕をほどき、横へ転がるようにして再びマーシャルを放り投げた。
肩を上下に激しく動かし、なんとか呼吸を整える。
「ったく、投げられたくらいで文句言ってんじゃねぇよ。無事だったんだから問題ねぇだろ」
「それは結果論ですぅ。そもそも普通は女の子を投げたりしません」
「俺は男も女も平等にぶん投げれるぞ」
「投げる時点で異常なんだけどね」
マーシャルの怒りも落ち着いて来た頃、二人は改めて状況を整理すべく向かい合った。
とりあえず、現在地の確認だ。
「ここどこ? お前の秘密基地の近く?」
「多分違うと思う。ルーク君には一緒に見えるかもしれないけど、意外と景色変わってるから。でも、詳しい位置は分からないかな」
「どこか分からねぇって事ね。つか、俺達どんくらい寝てたんだよ。太陽ねぇから時間感覚が狂うっての」
「うーん、多分そんなに時間はたってないんじゃないかな? 一時間とかだと思うよ」
「つー事は、一時間くらいで来れる場所って事か」
とは言ったものの、あの巨大な壁や塔は見当たらない。仮にマーシャルの言う通りなんだとしても、実はそんなに離れてませんでした!なんて都合の良い展開は望めないだろう。
そして二つ目は、これからどうするか、である。
「とにかく戻るぞ。なにが起きてんのかは分からねぇけど、王に会えば解決すんだろ」
「そんなに上手くいくかなぁ」
「どのみち行くしかねぇ。俺一人じゃ人間の世界には戻れねぇし、このまま手土産なしに帰る訳にもいかねぇしな」
「精霊の協力を得るため、だよね」
「それもある。けど、いきなりぶん殴られてんだ、やり返さねぇと気が済まねぇ」
「本命はそっちだね」
目的を達成するまでは帰れないーーというのは建前で、本音はただやり返したいだけだ。とはいえ、このまま帰ったとしてもルークにはなにも出来ない。仮に協力を得られなくとも、最低でもソラを連れ帰らなければならない。
そのためにも、
「まずは記憶だな。なんで忘れちまったのかはこの際どうだって良い、どんな方法を使ってでもソラの記憶を取り戻す」
「……それなんだけど、本当に忘れてるだけなのかな」
あぐらをかきながら右の掌に左の拳を叩きつけ、やる気満々の様子のルーク。しかし、マーシャルはなにか言い辛そうに視線を逸らした。首を傾げるルークに向け、マーシャルは言葉を繋ぐ。
「忘れちゃったんじゃなくて、記憶を奪われたんだとしたら?」
「なにがちげぇんだよ」
「忘れただけなら、なにかのきっかけがあれば思い出せるかもしれない。けど、奪われちゃったら思い出せないよ」
「……そりゃそうだ」
言われ、ルークは素直に頷いた。
ソラとナタレム、二人が同時に記憶を失っている以上、ただの偶然とは思えない。であれば、なにかしらの外的要因がある筈だ。
もし、その外的要因が記憶を忘れさせる、ではなく奪うのだとすればーー。
「だとしても、なんとかする」
原因がなんだとしても、立ち止まる訳にはいかない。
マーシャルの不安げな瞳を真っ直ぐに見つめ、
「なにか原因があるんだとしたら、それをぶっ潰しゃ良いだけの話だろ。それに……記憶を奪われて、もう二度と思い出せないんだとしても……ぜってーに思い出させる」
ルークが村を出てから、数えきれない困難があった。それをことごとく乗り越えられて来たのは、勿論ルーク自身の力もあるが、ソラの存在があったからだ。
それを、全て忘れてしまった。
そんなのは、絶対に認めない。
「アイツが一人だけ忘れて、のうのうと生活するなんて許す訳ねぇだろ。ぶん殴って思い出させる」
「物じゃないんだから、叩いたくらいじゃ直らないかもしれないんだよ?」
「知るかんなもん。なにがなんでもどうにかする。今までそうやって来たんだ、今回だってやってやるよ」
ソラの協力は望めない。この世界に魔元帥がいないんだとしても、多くの精霊はルークの敵だ。相手は間違いなくルークの命を奪いに来る。しかし、こちらには戦う手段がない。
それでも、止まるという選択肢はない。
自分の目の前に道があるのなら、ルーク・ガイトスはひたすら進むだけだ。
「うっし、これからやる事を説明するぞ」
「はい、なんか作戦会議っぽいねっ」
「とりあえずあそこに戻ってソラの記憶をどうにかする。ついでにナタレムもどうにかして、最後に王をぶん殴る」
「違うでしょ。人間の世界を救うためな、精霊の協力を得る、でしょ?」
呆れたように眉を寄せるマーシャルだったが、その口元は確かに微笑んでいた。
ほんの少し軌道修正はあったものの、やるべき事は変わらない。まずは中心に戻るーーべきなのだが、
「どうやって戻っかな。歩いてとかぜってーに嫌だぞ。まったく飯食ってねぇし」
「草ならいっぱいあるよ?」
「俺は草食じゃなくて肉食だ」
「だ、だめだよ!」
なにを想像したのかは分からないが、自分の体を抱き締めて頬を赤らめるマーシャル。
その態度には覚えがあった。なので、ルークはいつも通りに、
「別に食ったりしねぇよ。精霊とか不味そうだし」
「ほ、本当に? 人間の男は獣だって聞いた事あるよ。女の子だったら誰でも襲いかかるんでしょ?」
「誰の入れ知恵かは知らねぇけど、間違ってるからな」
「じゃ、じゃあ、ルークは私を襲ったりしない?」
「時と場合による」
「変態!」
そりゃ、ルークだって男なので、目の前で女の子が裸で手を広げて『おいで!』とか言ったら速攻飛びかかるに決まっている。がしかし、彼は童貞だ。そこまでの度胸はないし、空気だってーー読めないけど努力はするだろう。うん。きっと。
「ともかく、俺はお前を食ったりしねぇ。しゃーねぇから雑草でなんとか腹を満たす」
「よ、良かったぁ。人間が初めての相手なんて……凄く緊張するもん」
「なんで上目遣いなんだよ。え、誘ってんの?」
突然の可愛らしい上目遣いに、ルークの胸がドキドキワクワク。恐らく天然でやっているのだろうけど、相手がルークでなかったら危ないところである。
この男のタイプは、ボインで包容力のあるお姉さん。そこだけはなにがあっても揺らぐ事はないのだ。
逸れた話を戻すため、とりあえずマーシャルにチョップ。
「なんか戻る方法ねぇのか?」
「大体の方角は分かるよ。精霊が密集してる場所、なんとなくだけど感じられるから」
「それじゃ意味ねぇんだよ。場所が分かってもたどり着く方法がーーって、そうだ。あんじゃん」
腕を組んで考えていたところ、ルークの頭に名案が浮かんだ。とぼけたようにこちらを真っ直ぐに見つめるマーシャルを指差し、
「トシ蔵がいんじゃん。アイツ呼んでまた乗せてもらえば解決じゃん」
「う、うん。そうだね……」
「んじゃ、早くあの楽器だせ」
歩かなくて済むという幸福に、ルークは力強くガッツポーズ。一方、マーシャルはなんとも言えない表情で目を泳がせ、可愛らしく舌を出すと、
「ない。私が持ってた物は全部盗られちゃったみたい。ルーク君が上がって来る前に逃げようとしたのに」
「サラッと置き去り発言したね君。ルークさんびっくりだよ。可愛く言っても無駄だからね」
「しょうがないじゃん。すっごく怖かったったし、すっごくムカついたんだもん」
「マジかよ、トシ蔵使えねぇのかよ……」
終了のお知らせが鳴った。
握り締めた拳をほどき、天高く突き上げた腕が力なく地面に落ちる。進むべき方向が分かっていても、どれだけ歩けばたどり着くのかは不明。そんな先行き不安な旅を、再びしなければならない。
今まで何度か同じ経験をしたが、やはりなれるものではなかった。
「仕方ないよ、こうなったら諦めて歩こ」
「せめて馬でも良いから欲しい。お前話せんだろ? なんとか説得して来いよ」
「じゃあ馬連れて来てよ」
「探して来いよ」
「本当に自分勝手なんだね」
「良く言われる。けど直すつもりはまったくねぇ」
相変わらずの自己中っぷりを発揮したところで、観念したようにルークは背筋を伸ばした。歩きたくたいのは山々だが、ソラを殴らなければという使命感がルークを突き動かした。
「よーし、それじゃあしゅっぱーつ!」
「なんでそんなに楽しそうなの?」
「だって冒険みたいじゃん。他の精霊は誘っても無視するし。私ね、こうやって誰かと一緒に冒険するのが夢だったんだ」
握り締めたなにかを振り回すジェスチャーをするマーシャル。その様子を見て、ようやく合点がいった。
「なるほど、だから武器持ってたのね」
「うん。人間って武器を持って冒険するんでしょ? それって凄く楽しそうじゃん」
「楽しくねぇよ。食料とか食料とか食料とか、マジで辛い事ばっか」
「私はお腹減らないもん」
「うん決めた。マジでお腹減ったらお前の事食ってやる」
楽しそうに一人跳び跳ねるマーシャルを見て、ルークは食料確保の喜びに浸る。
こうして、ようやく始まった。
今度こそ、本当に勇者の冒険は始まったのだった。
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ベッドに座り、なにをするでもなく正面を見つめていた。
悩み事がある訳ではない。お腹が減っている訳でもない。人生に迷っている訳でもない。
強いて言うのなら、
「……なぜ」
アルトは、誰もいない部屋でポツリと呟く。
見なれた自分の部屋の光景。昨日まで、いや何年も自分が暮らしている代わり映えのない平凡な部屋だ。普通の人間が生きるために必要な道具はなく、不気味な水晶に囲まれた部屋にベッドが一つ置いてあるだけだ。
手に伝わる布団の感触も、枕に染み付いた自分の香りも、なに一つ欠ける事なくしっかりと覚えている。
当たり前だ。
一昨日も、昨日も、ここで寝たのだから。
そんな平凡な暮らしの中に、一つ違和感が生まれていた。
頭に浮かぶのは、先ほど出会った人間の顔だ。
『生きて帰れると良いな、人間』
確かに、自分はそう言った。その言葉を放ったのは紛れもなく自分の意思だし、発した瞬間だって鮮明に覚えている。
なのに、分からなかった。
「なぜ、私はあんな事を言った。顔も名前も知らん、ただの人間に……」
その言葉は、相手を心配するものだ。
心配という感情は分かる。しかし、そんなもの抱いた事はない。初対面の相手、しかも人間相手に持つべき感情ではない。
だが、気付くと口から出ていた。
「誰だあの人間は。なんなんだ、ソラとは誰の事だ」
ソラ、という言葉が、名前だという事は分かった。酷く懐かしく、なぜか心が安らぐ響きをしている。
気になってしまっていたのだ。
その、ソラという存在が誰なのか。
「クソ……なぜこんなにも苛々するんだ」
モヤモヤとしたなにかが胸の奥に突っかかり、考えれば考えるほど答えが遠退いて行くような気がしていた。
すると、そんな時、コンコンと二度ほどノックする音が聞こえた。
伏せていた顔を上げ、扉へと視線を送る。
「誰だ」
扉が開き、ほのかな甘い香りが部屋の中へと入って来た。それと同時に現れたのは、長い金髪の女性だった。
金髪の女性ーー精霊の王は僅かに口元を緩め、
「なにか悩んでいるようだな」
「貴様には関係ない。用がないのなら帰れ」
「随分と辛辣なんだな。一応、私はお前達の王なんだが」
「興味ない。貴様が王だろうが神だろうが」
「相変わらずだな……。まぁ良い、人間の様子はどうだった?」
一瞬、王の瞳になにか懐かしさのようなものを感じた。しかし直ぐに表情を正し、座っているアルトの横に腰をかけた。
アルトは尻一個分距離を開け、
「どうもこうもない。なぜ私に行かせた? そもそもあれは誰だ、なぜ人間がここにいる」
「手の空いている精霊がお前しかいなかったからだ。それでは不満か?」
「精霊の国に人間が迷い混んだ事は何度かある。しかし、わざわざ牢に閉じ込めるなど今まで一度もなかっただろう。ここへ来た人間は、全て問答無用で地上に下ろして来た」
「あぁ、そうだな。全て……誰も、この塔に来た事はない」
王の言葉に違和感を感じたが、アルトは構わずに言葉を続ける。
「なぜあの人間だけは牢に入れた、答えろ」
「気分だ。……と言ってもお前は納得しないか」
楽しそうに笑う王に対し、アルトは視線を合わせずに不機嫌な顔をした。その横顔を見つめ、それから前を見る。その瞬間に、王の顔から笑みが消えた。
「試しているんだ。あの人間に資格があるのか」
「資格?」
「あぁ、資格だ。本当に、あの人間を信じるべきか否か。言葉だけの阿呆に命を預けるのは御免だからな」
言葉の意味は分からない。が、長年の付き合いから、彼女が嘘を言っていない事だけは分かった。
王は納得したように息を吐き、一瞬だけアルトに目を向けて立ち上がる。
「ここへ、あの人間が来れるかどうか。お前はどう思う、アルト」
「来れる訳がない。貴様の事だ、とっくになにかしているのだろう?」
「あぁ、そう易々と来てもらっては困るからな。試練の前の試練ーーいわば前座だ」
カツカツ、と音を鳴らして王は扉へと歩いて行く。
その背中を見つめ、アルトは声をかけた。
「一つ、訊きたい事がある」
「なんだ?」
「貴様ーー私に力を使ったか?」
瞬間、王の眉が僅かに動いた。何千年という時を共に過ごして来たアルトにしか捉える事の出来ないほどに僅かな反応だったが、確かに王はその言葉に反応を示した。
「どうしてそう思った?」
「なんとなくだ。なにか、大事な事を忘れている気がする」
「……あの人間を見てそう思ったのか」
「分からない。私はあの人間の事なんかまったく知らない。それでも……」
なんで、あんな事を言ったのか知りたかった。
自分にはない筈の感情の、理由を知りたかった。
王は顔をこちらへ向け、
「なるほど、ここへ来るだけの事はある」
それだけ言って、答える事なく部屋を出て行ってしまった。
元々答えを得られるとは思っていなかったが、最後の言葉を聞いた事により、アルトの中の形容し難い違和感はさらに大きさを増す。
再び誰もいなくなった部屋で、白い頭の精霊は自分のお腹に触れて呟く。
「……腹が、減ったな」
これも、知らない感覚だった。