八章十六話 『ようこそ、精霊の国へ』
「ぐーー!」
初撃ーーそれは風だった。
無数の風の刃が出現し、ルークに向けて一斉に放たれる。風に揺れていた草を切り裂き、土を巻き上げて。
手加減も様子見もあったもんじゃなく、正真正銘命を奪うために放たれた。
「いきなりかよ!」
「人間なら殺しても問題ねぇからよォ、手加減なんざ必要ねぇんだわ……!」
体を捻り、避けきれない風の刃は剣で対象するが、その一撃は重く鋭利だった。刃が剣に触れた瞬間に火花が散り、その重さに僅かに膝が折れる。
ただの風ではない。
あの炎の男と同様、魔法の元となった風だ。
男はニヤリと口元を歪めると、自分の放った風の刃の中に躊躇いなく突っ込んだ。
右腕を振り上げ、ルークの眼前に迫るーー、
「ーー!?」
「……今のを受け止めるとはな。気付かなけりゃ真っ二つであの世に行けたのによォ」
「んな怪しさ満点で腕振り上げたら誰だって気付くっての……!」
咄嗟の判断で剣を前に出して防御したルーク。
男はなにも握り締めていない筈なのに、受け止めた剣には確かに衝撃があった。良く見れば、男の手の形がなにか握り締めているようにも見える。
男は挑発するように舌を出し、
「風の剣だ。風ってのは目に見えねぇだろ? 爽やか、とかクソみてぇなイメージが人間の世界にはあるらしいけどよォ、殺すには一番ピッタリな力だよな」
「テメェ、さっきから気持ちわりぃぞ。ニヤニヤしやがって……!」
「癖なんだ、テメェみてぇなバカを見ると無意識に笑っちまうのが」
「奇遇だな、俺もテメェみてぇなアホ面見ると笑っちまうんだよ」
至近距離で挑発を口にし、どちらも負けじと同時に口元を歪めた。
風の刃と剣が激突し、激しいつばぜり合いが繰り広げられる。男は僅かに瞳を横へと移し、
「俺ばっかに気ぃとられてて良いのか?」
言葉の直後、ルークは風の刃を弾いて大きく後ろに跳躍した。加護を得た脚力で二歩、三歩と下がり、砂ぼこりを巻き起こしながら停止。
視線を前に向けると、先ほどまでルークが立っていた場所を風の刃が通過した。まるで小さな台風でも通ったかのように地面が荒らされ、しかし男はその中心で笑っていた。
額に滲む汗を拭い、
「ったく、見えねぇってのは面倒くせぇな」
『用心しろ、加護があっても当たればただでは済まないぞ』
「んな事分かってんだよ。……でもまぁ、なんとかなりそうだわ」
『なに?』
意味ありげに呟き、ルークは一旦男から目を逸らした。形は見えないものの、風の刃はそこら中を切り裂いている。目安となるものは通過したあとに出来る地面の傷だが、それを見て避けるのでは間に合わない。
となれば、
「予測するしかねぇな」
腰を曲げ、一気に駆け出す。襲いかかる風の刃を天性の勘と気合いで回避し、男へと迫る。
男は手を広げ、今度は両手に風の刃を持ったようだ。ルークと同様に身を屈めると、避ける事なく風の刃の中を真っ直ぐに走り出した。
「……ソラ、言いてぇ事は分かるよな?」
『あぁ、任せろ』
小さく呟き、ルークは全ての意識を風の刃だけに集中させる。反撃と回避、両方を行う事は難しいが、なにかから逃げるという一点においてこの男は非常に長けている。
何度も戦闘を繰り返し、その才能は確かに磨かれていたのだ。逃げるだけではなく、その先を見通せるほどに。
目の前に迫る風の刃。ルークは剣を全力で振り回し、斬撃ではなく風圧でその威力を弱める。とはいえ、ただの風圧では風の刃を消滅させる事は出来ない。
だからーールークはその中に突っ込んだ。
激しく乱れる風が体を傷付け、小さな擦り傷が大量に刻まれる。
しかし、顔色一つ変える事なくその中を突っ切り、
「上等だ、正面から向かってくるとは良い度胸じゃねぇか!」
「テメェなんぞに小細工は必要ねぇって事だよ!」
ーー二つの刃が激突した。
辺りを漂う風の刃が剣圧によって消し飛び、二人を中心にして更に大きな風が舞う。
その瞬間、剣が光を放った。
「テメェみてぇに真っ正直から突っ込んで来てくれる奴が少なかったから試せなかった。丁度良いや、実験相手になってくれよ」
「テメーー」
男が最後まで言葉を繋ぐより早く、激しく光が辺りを包んだ。視界が白に染まり、二人の様子を見守っていたマーシャルは両手で顔をおおう。
光を集め、それを刀身に集約させて放つ必殺の一撃。今まで何度も助けられて来たが、ルークは使いこなせてはいなかった。大きな障害となる数の制約、後先を考えずに突っ走るルークにとって、それは大きな弱点だった。
しかし、だからこそ学ぶ事が出来た。
ーーそれを逆手にとる、新しい戦い方を。
辺りを包んでいた光が消え、視界が晴れる。しかしながら、目眩ましの効果は続いている。
それは男も同じだ。
だが、一つだけ違う点を上げるとすればーーこちらは一人ではない。
『右斜め前、三歩進め!』
「あいよ!」
ソラの指示に従い、ボヤける視界の中でルークは走り出した。距離は掴めないが、こちらには目がある。
とても単純で見落としていた事。
一人ではなく、二人で戦うという戦法を。
『殺すなよ!』
「無茶言うなっての!」
三歩進み、ルークは振り上げた剣を全力で下ろした。ソラの言葉を無視した渾身の一太刀。切っ先がなにかに当たり、手応えが腕を伝って全身に回る。
しかし、その手応えが消えた。
『下がれ、ルーク!』
「次から次へと忙しいな!」
文句を垂れ流しつつも、視界が乱れている以上ソラに従うしかない。空を切った剣を無理矢理手繰り寄せ、体勢を崩しながらもルークは距離をとる。
その直後、
「きゃ!」
「ぬお!」
足がなにかに引っ掛かり、そのまま上下が逆さまになった。ぶつかったなにかともつれあうようにゴロゴロと転がり、ようやくスピードが緩まった頃、同時にボヤけていた視界が元に戻り始めた。
ルークが始めに目にしたのは顔だった。
唇が触れあいそうなほどの距離に、女の子の顔が広がっていた。
「ル、ルーク君、顔が近いよ……」
「邪魔だから下がれつっただろ。んなところでなにやってんだよ」
「私はちゃんと下がってました。いきなり眩しくなって、ルーク君が突っ込んで来たんだよ。それと……重いから早く退いて」
いきなり突き飛ばされ、訳も分からないまま地面に投げ出されるルーク。視界に広がる真っ青な空を見上げ、ようやく自分はマーシャルの上に乗っていたのだと気付いた。
すると、青かった筈の空が白くなり、
「私のおかげで一撃を与えられたというのに、貴様は呑気に女の子の肌の感触を味わっているとはな」
「まて、これは不可抗力だ。今お前がここで俺を殴って気絶でもしてみろ、それこそ全員捕まってアウトだぞ」
「……はぁ、一度貴様の舌を引きちぎってやりたいよ」
小さな拳が眼前まで迫っていたが、必死の説得によって直撃は避けられたようだ。
差し出されたソラの手を握り、立ち上がると同時にルークは男の方へと目を移す。
「やったか?」
「いや、かなり浅い。あの男、自分に風を当てて自分を吹っ飛ばしたんだ。まったく、口調からなにまで貴様にそっくりだな」
「バカ言え、俺がいつそんな無茶な事したんだよ」
「比較的毎回だな」
思えば、毎回無茶を重ねている気がする。それなのに後遺症がまったく残っていないのは、生まれもっての運だろうか。そんな事に運を使うくらいなら、他のところへ回してほしいとルークは思うのだが……まぁ、それは一旦置いておこう。
ゆらゆらと揺れていた砂ぼこりが風によって晴れる。その中から、肩から血を流している男が現れた。傷口から流れる血液に触れ、
「……怪我しちまったな。血ィ流すなんて何百年ぶりだっけかなァ」
「ピンピンしてんじゃねぇかよ」
「たりめーだろ、人間なんざの一撃で俺が膝でもつくと思ったか? その腐った脳ミソもういっぺん回してみろや」
「その腐った脳ミソの持ち主で怪我負わされてんのはどこのどいつだボケ。テメェこそ、苔の生えた脳ミソでもういっぺん考えてみろや」
ルークと男の大きな笑い声が響き渡った。どちらも笑っているが、目はまったく嬉しそうではない。響き渡っていた声が段々と小さくなりーー、
「上等だテメェ! 今すぐ脳ミソ取り出して洗浄してやんよ!」
「かかって来いやカス! テメェの脳ミソ綺麗に梱包して埋葬してやんよ!」
クソ下らない言葉のあと、二人は腕をブンブンと振り回して走り出した。しかし、一歩踏み出したルークの腰にソラが慌ててしがみつき、振り上げた腕にマーシャルが自分の腕を引っかけて静止。
「お、落ち着けバカ者! 私達はここは戦いに来たのではない!」
「うっせぇ! 先に喧嘩売って来たのはあの野郎だ!」
「もう、子供じゃないんだから落ち着いてよ!」
「離せ! こん、のォ!」
怒り心頭で暴走ぎみのルークを止める二人。
その隙に一気に距離をつめた男だったが、腰にしがみつくソラの姿を見た瞬間、その足が止まった。
「久しぶりだなァ、アルト」
呼び掛けられ、ソラは僅かに力を緩めて男へと体を向ける。しかしながら、ソラには記憶がないので、
「貴様は誰だ」
「あ? そういや記憶ねぇんだっけか。まさか俺の事まで覚えてねぇとはよォ、悲しくなっちまうぜ」
「随分と親しげに話しかけて来るんだな。私と親しかったのか?」
「そりゃもう親しいのなんのって。俺とテメェはいつも一緒に行動してたぜ? なんせーー」
暴れるルーク。必死に抑えるマーシャル。訝しむ視線を向けるソラ。
その三人を見て、男は見た事もないほどの満面の笑みを浮かべ、
「俺はテメェに惚れてたからな」
その瞬間、時が止まった。
暴れていたルークですら動きを止め、マーシャルに至ってはなぜかルークの手を使って自分の顔を隠すという奇行に走った。
突然の告白を受け、ソラはあたふたと手を振り回し、
「ま、待て、貴様が私に惚れてたいた?」
「おう。俺はテメェを愛してた。愛って感情は良く分からねぇけどよォ、俺はテメェが大好きだったぜ」
歯を光らせ、男は親指を立ててはにかむ。
そこには先ほどまでの好戦的な様子はなく、思春期真っ只中の少年のような笑顔があった。
困惑するソラ、それを見つめるルークとマーシャル。
ソラは自分を落ち着かせるように額に手を当て、
「わ、私と貴様は、その……こ、ここここここ恋人同士だったのか?」
「精霊に恋人って言葉が当てはまるかは知らねぇが、恋仲ではなかったな。テメェはいっつも一人でよォ、話しかけてもなーんも返してくれなかったし」
「それなのに、貴様は私を好きだったのか?」
「おう。無視されると燃えちまうんだ。だから毎日話しかけたし、毎日テメェのあとを追いかけた。遠くからテメェを眺めて、テメェの触った物とか集めてた」
清々しいまでの変態発言。ただ、ソラは状況を上手く飲み込めていないのか、顔を赤くして目をぐるぐると回していた。
ルークは男の発言を聞き、ようやく動き始めたかと思えばマーシャルの耳に口を寄せ、
「や、やべぇよあれ。間違いなくストーカーだよ。精霊にもストーカーっているんだね」
「わ、私もストーカーって言葉しか聞いた事なかったけど、あれがストーカーなんだね。すっごく気持ち悪い」
「触った物集めるとかやべぇよ。集めてたどーすんだよ、見るの? 抱き締めるの? なにやっててもこえぇよ」
「アルト様そういうの全然興味なさそうだったし、無視されて燃えるとか……あれだよ、マゾなのかな?」
「マゾだよ、真正のマゾだよ、しかも変態だよ。だって付きまとって観察して物拾って、それをあんなに堂々と宣言してんだよ? やっぱ精霊ってすげぇわ」
「や、やめてよね、私はあんなんじゃないよ? そりゃ、好きな人の身に付けてる物なら欲しいかもしれないし、拾ったりするかもしれないけど……」
「うんごめん、お前に話振った俺が悪かった」
マーシャルの裏の部分が垣間見えた気がしたので、ルークは謝ってとりあえず二人へと視線を戻す。今まで出会った精霊は変わり者ばかりだったが、目の前の男はちょっと変な方向へと突き進む変わり者のようだ。
「まぁとりあえず、俺はテメェを愛してる。忘れちまったものはしゃーねぇしよォ、今さらガキみてぇに騒いだりしねぇ。けど、どーしても我慢ならねぇ事がある」
「我慢、ならない?」
「アルト、テメェ変わっちまったな。前のテメェはそんなんじゃなかった。なにがあっても動じねぇ、どんな時でも冷静で氷みてぇな奴だった。そりゃ、照れてるテメェも可愛いけどよォ、俺が好きなテメェは前のテメェだ」
「前の、私……」
「なんでそうなった? 前にここに来た人間のせいか? いやちげぇな、あの人間に対してテメェは無関心だった。つー事は……アルトを変えたのはテメェだろ?」
先ほどまでの笑みが嘘のように消え、殺意に満ちた瞳がルークへと向けられた。恋敵、なんて生易しいものではなく、恨みや憎悪のこもった瞳だ。
「テメェがアルトを変えたんだろ? なにしやがった、コイツは俺達精霊の中でも特別な奴だったのによォ、たかが人間ごときに影響されるとは思えねぇんだわ」
「知るかよ。俺が初めてあった時からソラはそんな感じだっての」
「ソラ? 誰だソイツ」
「今の、私の名前だ」
今にも飛び出しそうな男の気配ーーそれを感じとったのか、ソラが宥めるように口を挟んだ。
しかし、男はさらに不機嫌そうに顔を歪め、
「ソラ? なんだそのクソだせぇ名前は。テメェにはアルトって名前があんだろ。名前が変わっちまって性格も変わったってか? ふざけんな、ふざけんじゃねぇぞ? 俺の知ってるアルトを返せ、俺の愛したアルトを返せ」
「なに言ってんだテメェ」
「テメェが元凶か? テメェを殺せばアルトは元に戻んのか? 人間ごときが俺の恋の邪魔しやがってよォ、アルトはああでなくちゃいけねぇんだ。今のテメェはアルトじゃねぇ、テメェは俺の愛したアルトじゃねぇ」
一歩、また一歩と男が足を踏み出す。
殺意、そして敵意は先ほどとは比べ物にならない。その殺意はルークたった一人に向けられており、ソラとマーシャルを見ようともしていない。
だが。
ルークは怯まなかった。
しがみつくマーシャルを突き飛ばし、うつ向くソラの肩を掴み、一歩を踏み出した。
「だせぇな、テメェ」
「あ? なんだと?」
「俺の知ってるアルトじゃねぇ? 俺の知ってるアルトを返せ? なに言ってやがんだ。ハッキリと言ってやるよ、テメェはフラレたんだよ。好きじゃないから付きまとわないでくださいって言われたんだよ!」
「なーー、んな訳ねぇだろ!」
「現実認めろや、なよなよしやがって。テメェはソラに自分の理想を押し付けてるだけだろ、こうじゃなきゃダメだって、これがソラなんだって。格好わりぃと思わねぇのか?」
「テメェになにが分かんだ! 俺はアルトの全てをーー」
「テメェの知ってる全てなんざ、ほんの少しだけって事なんだよ!」
飛び出しかけた男の足が止まる。
ルークは、どれだけ男がソラの事を思っていたかは知らない。そもそも、ソラの事だってほとんど知らないし、大口叩けるほど親密な仲でもない。
でも、確かに言える事がある。
「今のソラも、前のソラも、同じ精霊だって事には変わりねぇだろうが!」
「なん、だとーー!」
「これがソラなんだよ! テメェの見てきたソラは、コイツのほんの一部でしかねぇんだ! ストーカーじみた事までしたくせに、ソラの一部しか引き出せなかったテメェに、コイツを語る資格なんざねぇ!!」
力強く踏み出し、人差し指を男に向けて突きつける。
大きく息を吸いーー、
「男ならーーお前の全部を愛してやるくらい言ってみやがれ!! 」
「ーーーー」
その言葉を聞いて表情が変わったのは、男ではなくソラだった。奥歯を噛み締めて怒りを露にする男とは対照的に、ソラの頬は嬉しそうに緩んでいた。
うつ向いていた顔を上げ、肩に乗せられたルークの手に自分の手を重ねると、
「確かに、私は貴様の知るアルトではない。貴様の好意は嬉しいし、私を愛しているという言葉も嘘ではないのだろう。だが、悪いがその気持ちには答えられない」
「なん、でだよ!」
「私はアルトではないからだ。私はソラだ、ソラなんだ。貴様がなにを言おうが関係ない、私は……ソラでありたいんだ」
勢い良く鼻息を噴射し、やってやったぜと言わんばかりの顔で微笑むルーク。その横顔を見つめ、優しげな瞳でーーしかし意思のこもった瞳で、
「この名前は、私の相棒がくれた大事な名前だ。それを侮辱する事は誰であろうと許さん。たとえ、私を好いてくれている相手だとしてもだ」
ハッキリとした言葉で、ソラの口から放たれた本音。男はそれを信じられないといった様子で聞き、瞳を大きく揺らしていた。
その姿は、完全に失恋後の少年だった。
「だから言ってんだろ、テメェはフラレたんだって」
「な、なんか今のルーク君格好良かったよっ」
「俺はいつだって格好良いっての。……つか、いつまで手ぇ握ってんだよ」
男女の修羅場を目の前で見て、テンションが上がっているマーシャル。そんなマーシャルの言葉を適当に流し、ルークが自分の手に目を向けると、なぜかソラが大事そうに握り締めていた。その頬は僅かに紅潮しており、
「こ、これは奴がいつ攻めて来ても対応出来るようにだな……」
「もうへーきだろ。アイツ、ぶん殴られるよりすげぇダメージ受けてるだろうし」
「もう、ルーク君ってば乙女心が分かってないなぁ。アルト様はーー」
「や、やめろ! なんでもない! 聞くな!」
握った手を上下に激しく揺らし、なんとかマーシャルの言葉を遮ろうとするソラ。友達と楽しそうにはしゃぐ子供のようなソラを見て、ルークの頬が無意識に緩んだ。
その時だった。
ケラケラ、怪しげな笑い声が聞こえたのは。
三人は顔を合わせて声の方へと目を向ける。
そこには、うつ向きながら肩を小刻みに揺らして笑う男がいた。
ゆっくりと顔を上げると、赤い瞳がギョロリと動く。
「あぁ、そうか、そうなんだな。やっぱテメェなんだな、テメェがアルトを変えちまったんだな。俺の愛したアルトをどこへやった? 俺の見ていたアルトをどこへやった? 俺はいつだってアルトを見てたんだ、アイツがどこに行ってもついて行ってたんだ。その俺がアルトの一部しか知らない? ふざけんな、んな訳ねぇだろ。俺はアルトの全てを知ってんだ。俺だけがアルトの全てを知ってんだ。俺が誰よりもアルトを理解してんだ。どこだ、なぁどこだよ、俺のアルトはどこにいんだよォォォ!!」
ぶつぶつと独り言を言い始めたかと思えば、男を中心にして四方に風の刃が放たれた。男の背後にある巨大な壁に僅かな亀裂が走り、中から悲鳴のような声が聞こえて来た。
戦意を失った訳ではなかった。
むしろその逆。男は、さらに殺す気満々になっていた。
「殺す……そうすりゃアルトは戻って来る。俺の愛した、俺だけのアルトが戻って来る。テメェだ、テメェさえいなけりゃ全部解決するんだよなァ!!」
「なんも分かってねぇなテメェ……!」
「まずいな……マーシャル、下がれ!」
「さ、下がれって言われても……!」
逃げ場はない。男の放った風の刃がすでに三人を囲んでいる。ルークだけを殺すとは言っているが、全ての刃が放たれれば当然ソラもただでは済まないだろう。失恋により正気を失っているらしい。しかも、ほとんど暴走している状態だ。
半歩下がり、ルークは構える。
全てを防げないとしても、どうにかしてこの状況を突破しなければならはい。本陣に突入する前に斬撃を使用する事は避けたかったが、これはーー、
「ーーはい、そこまで」
それは、女性の声だった。
激しく吹き荒れる風の間を静かな声が通り過ぎ、優しくルークの鼓膜を叩く。
その直後、荒ぶる男の背後でなにかが光った。
光るなにかーー巨大な氷の礫が破壊された扉を通り、
「がばーーぅッ!?」
男の後頭部に直撃した。意識外からの攻撃だったため、男は防御はおろか反応すら出来ず、そりゃ見事なクリーンヒットである。
男の体がぐらりと揺れ、前のめりに倒れて地面に顔面を強打。男の意識が途切れた事により、暴走していた風の刃が消滅した。
「……なんだ?」
扉へと目を向けると、女性が姿を現した。地面につくくらいの青い長髪に、赤く色めかしい唇と瞳。それら全てを置き去りにしてルークの目が集中したのは、ざっくりと開かれた胸元だった。見てくれと言わんばかりに存在を主張する二つお山、お山を見せるためだけに作ったのではと思うほどの黒いドレス。無駄な装飾はなく、それが女性の美しさを際立たせていた。
「うむ、けしからん」
「黙れ」
無意識に飛び出した言葉を聞き、ソラの張り手が頬に激突。頬にもみじをつけているルークを見て、女性は口元を押さえながら微笑むと、
「コイツ、アルトの事になると回りが見えなくなっちゃう子だからさ、酷い事してたらごめんなさいね」
「いや、私にも多少の非はある。それで……やはり貴様も私の事を知っているのか?」
「そりゃ、ね。見知った顔に改めて自己紹介するのは変な感じだけど、そっちのお兄さんは初対面だしいっか」
女性は三人の顔を確認し、完全に伸びている男を踏みつけた。その瞬間、ルークの中でなんかもやもやした感情がわいて来たが、童貞にそっちの世界はまだ早いと頭から追い出した。
女性は倒れている男を指差し、
「こっちはスリュード。それで、私はレリスト。そっちは、アルトとマーシャル、それから……」
「ルークです。お姉さん」
「お姉さんって……人間で言ったらそんな歳じゃないのよ?」
「構いません」
「気持ち悪いな」
「ルーク君キモい」
先ほどは格好いいと褒められていたが、女性陣から不服の声が上がる。しかしルークは目を逸らさず、しっかりとレリストの胸を凝視していた。
レリストはそれに気付いたのか、胸を強調するように両手を広げ、
「色々あったとは思うけど、とりあえずはお疲れ様。そしてーー精霊の国へようこそ、勇者さん」
その瞬間、ルークはこう思った。
精霊の国も、悪くはないと。