八章十一話 『冒険の始まり』
ジャラ、と音が鳴った。
まるで鉄同士が擦れた不快音が鼓膜を叩き、暗い海の底への沈んでいた意識が引き戻される。
「…………」
ナタレムは薄く目を開け、瞳だけを動かして辺りを見渡す。頬にはひんやりとした石の感覚があり、腕は後ろに回されて鎖で拘束されていた。
とりあえず自分は拘束され、どこかの部屋の中で倒れている事を理解。再び瞳を動かし、
「……無言で立ってるとただのホラーっすよ。起きたの分かってるんすから、せめて声ぐらいかけてください」
鉄格子の向こう側、燃えるような赤髪の男が立っていた。表情から考えを読み取る事は難しく、視線は向けられているが自分を見ているのかさえ分からない。
真っ暗な部屋でたたずむ無言の男ーーそんなホラーな状況に半笑いを浮かべつつ、
「いやぁ、いつ気絶させられたのか分からなかったっすよ。流石、王の側近」
「あれでも手加減したつもりだ。万が一お前を殺してしまった場合、ルールを破る事になるからな」
「ルール、か。まだそんなくだらいものに縛られてんすね」
「俺達精霊にとってルールは絶対だ。それを破ったお前が……なぜ今さら戻って来た?」
淡々と喋る男の口調では、やはりなにを考えているのか分からない。眉一つ動かさずに言葉を繋ぎ、ナタレムの様子を伺っているようだ。
「やらなきゃいけない事があるからっすよ。俺だってバカじゃない、アンタ達に捕まればどうなるかなんて分かりきってます。だから今日まで隠れて生きて来たんすよ」
「あぁ、そのおかけで探すのに手間がかかった。だがそれも今日で終わりだ。お前はお前を失う、その覚悟は出来ているんだろうな?」
「そんなの、あるわけないでしょ。こちとら初めっから勝つつもりで来たんす」
「勝つ? なににだ」
「精霊」
短く告げた言葉を聞き、男の瞼が反応する。
しかし表情を崩すまでは至らず、再び静かな口調で語り出した。
「お前の目的はなんだ、なぜ今さら戻って来た。お前はここが嫌になったんだろう?」
「別に精霊の国が嫌いな訳じゃないっすよ。住み心地は良いし、欲しいものはなんだって手に入る」
「ならばーー」
「俺が嫌いになったのはここじゃない。俺は、俺達精霊が嫌いになったんだ」
ゆっくりと、重たい体を持ち上げる。これといった外傷はないが、後頭部にジンジンと鈍い痛みが響いていた。
だが、言わずにはいられない。言ったところで目の前の男を揺さぶる事は出来ないが、それでも言葉が口から出ていた。
「くだらないルールに縛られて、なんの罪もない人間に全ての業を背負わせた。それなのに、アンタ達はこうやって普通の生活を送ってる」
「アルトを送った。それで十分だ」
「アルトさんに責任を負わせただけだろ。彼女がどんな思いで戦ってると思ってる、彼女が……友達を失った時、どんな表情をしたと思ってるんだ……」
「興味ないな。元々アルトはそのために作られた精霊だ。俺やお前とは違う、精霊の中でも異質な存在だ」
「そんなの言い訳にすらならない。彼女が必死に戦ってるのに、アンタ達はただ見てるだけだろ。これで良いって、自分達はやれる事をやったって!」
足を進め、鉄格子の前にたどり着く。そこへ思いきり額を叩きつけた。ドン!と鈍い音が生じ、ナタレムの額が割けて血が滴り落ちる。
しかし、それでも男は表情を変えなかった。
「何人の人間が死んだと思ってる! お前らのくだらないルールのせいで、平凡に生きて来た関係ない人間が犠牲になってるんだぞ!」
「俺達には関係ない。いくら人間が死のうと……いや、多少は関係あるか。人間が死ねば死ぬほど、奴は俺達に近付く」
「んな事言ってるんじゃねぇ! 結局自分の身の事しか考えてないだろ! 人間だって生きてるんだ、俺達精霊と同じように! 人間が死ねば俺達の死が近付くとかじゃない、命が失われる事に対してなんとも思わないのかよ!」
「あぁ、なんとも思わない」
声を荒げ、思いの丈を叫んでも、男の表情は一切動かない。本当に、心の底からどうでも良いと思っているのだろう。
ナタレムは、それがどうしても許せなかった。確かに人間が死ぬ状況を作り出したのは精霊で、その一端をナタレムは担っている。
けれど、それでも、関係ない人間が死ぬのを黙って見ているなんて出来やしなかった。
人間と深く関わってしまった以上、もう他人事なんて顔は出来ない。
「俺がここに来た理由を教えてやる。そのくだらないルールをぶっ壊すためだ。アンタ達に罪を認めさせて、その償いをさせる事だ」
「冗談も程々にしろ。お前になにが出来る?」
「確かに、俺じゃ力不足だ。けど、俺一人じゃない。お前なら分かる筈だ、今まで王の命令を全て守って来た男ーーヴァイス。お前は今日、初めてミスをした」
その言葉を聞いた瞬間、初めてヴァイスの顔が歪んだ。彼が今抱いている感情は怒り、紛れもない怒りをナタレムに向けている。
しかしナタレムは挑発するように微笑み、
「残念だったな、侵入者を二人も逃した。しかも一人は人間、お前ほどの力があれば捕らえられたのに」
「問題ない。人間ならば殺しても構わないからな、手加減する必要もない。それに、アルトは人間がいなければ力を発揮出来ない精霊だ、その人間を殺せばかたがつく」
「無理っすよ。お前にルークさんは殺せない」
「それで挑発のつもりか? 人間になにが出来る、ゼユテルに抵抗する力すら持たない人間に」
「確かに、抵抗するにはちっぽけ過ぎる。けど、彼らは抵抗する意志があった。それに比べてお前達精霊は抵抗すらしなかった。なんでか? 簡単っすよ、彼の力が強大過ぎたからだ」
額から落ちる血を肩で拭い、ナタレムは顔をヴァイスに近付ける。至近距離で男の顔を見つめた。表情の変化全てをこの目に焼き付けるために。
「あれの力を借りてまでゼユテルを地上におろした。償いのつもりかなんだか知らないけど、彼を精霊の座から下ろして、殺せるようにして、アルトさんを地上におろした。本来なら、それで全てが終わる筈だった」
「…………」
「けど、彼の力は弱まるどころか、俺達精霊への憎しみでさらに増した。全部、全部お前のせいだろ。それなのに、お前達は戦う事すら放棄して、ただ傍観してるだけだ。そんな弱虫が、今も戦ってる人間を弱いなんて言う資格はない」
「…………」
「はっきり言うぞ。ゼユテルは必ずここに来る。自分の目的を果たすために、あれを殺すために。もしそうなったら、お前達精霊は全滅する。今のお前達じゃ、ゼユテルには敵わない。お前の大好きな王様だってな」
「……口を慎め」
そこで、ヴァイスが手を伸ばした。目の前にある錆びた鉄格子を掴み、握られた鉄格子から煙が上がる。鉄が焦げた嫌な匂いが牢屋内を満たし、ナタレムは一歩引いて咳払いをした。
ヴァイスは鉄格子を燃やし切り、
「もし、お前の言う通りに奴がここへ来たとしても、俺が殺すだけだ。王は殺させない」
「感情がないように見えて、王にはベタベタっすね。人間だってそうだ、死んでほしくない人がいる」
一瞬、ヴァイスの眉が動いたようにも見えたが、直ぐに表情を正した。完全に溶けてしまった鉄を投げ捨て、
「あの人間は殺す。アルトは捕まえて再び地上に下ろす」
「なんべんも言わせんな、ルークさんは死なない。あの人は俺達の希望なんだ、必ずここへ来て、クソくだらないルールをぶっ壊す。お前達は初めて敗北を味わう事になるっすよ」
「随分とあの人間の力をかっているようだな。アルトの今の契約者か?」
「よーく覚えとけ。ルーク・ガイトス、それが彼の名前だ」
跳び跳ねるようにしてその場に座り、ナタレムは大きく息を吸った。それからニヤリと微笑み、無表情のヴァイスに向けてこう告げた。
「今回の勇者はちと違うっすよ。なんせ、お前ら精霊を全員ぶん殴るつもりっすからね」
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ナタレムがヴァイスと会話をする少し前、深い森の中、木々を燃やし尽くして炎が高く上がっていた。風に吹かれても消える事はなく、一定の温度、大きさを永遠と維持している。それが普通の炎でない事は分かるが、今それを考察している暇はない。
燃える森の中を、ルークは全力で走っていた。
「ったく、この炎おかしいだろ! なんで消えねぇんだよ!」
『精霊の炎だ、人間が作る炎とは根本的に違うんだろう! 恐らく炎の魔法の元になったものだ』
「クソッタレが、ナタレムの野郎、ちゃんと説明してから捕まりやがれ!」
剣を握り締め、加護を全開にしながらルークは走っていた。恐らくだが、加護を一瞬でも解けば熱にやられてしまう。肺は焼けただれ、呼吸すら出来なくなってしまうだろう。
倒れる木をくぐり抜け、消えぬ炎を無理矢理突っ切り、ナタレムに指示された方角へと。
あの時、炎が放たれた瞬間、ナタレムはルーク達を囲うように四角い壁を展開した。
『よーく聞いてください、俺はここで捕まります。あともって数秒ってところなんで』
『ざっけんな、案内役がいねぇと無理に決まってんだろ!』
『北を目指してください。この森を抜けて北を。そっちの方角に精霊が住む場所があります』
『お前はどうすんだ』
『大人しく捕まってますよ。どーせ会うつもりだったんす、それが遅いか早いかの違いだけっすよ』
『なら俺も捕まる。その方が早く精霊の王様に会えんだろ』
『それはダメっすね。奴は俺を殺せないっすけど、人間であるルークさんは別です。捕まったらまず間違いなく殺されますよ。だから、ここは逃げてください』
『ッ……わーったよ』
『それともう一つ、精霊を絶対に殺さないでください。特にソラの力を使っちゃダメっすよ。人間の世界とここは違う、見られてなければとか、バレなければとかじゃないんす、ルールを破ったらその瞬間にバレますからね』
『へいへい。俺が行くまで死ぬんじゃねぇぞ、お前も殴るリストに載ってんだからな』
『了解っす。……ま、俺はその事を覚えてないかもしれないっすけど……』
最後の言葉を聞きとる事は出来なかったが、ナタレムは手をかざして後方に道を作った。透明な壁で上下左右を囲まれた、一直線に伸びる道を。
だから、ルークは走り出した。
振り返る事はせず、ただひたすらに。
そして現在、先ほどまで走っていた道は消えていた。恐らく、ナタレムが捕まってしまったのだろう。ルールがある以上死んではいないと思うが、あの炎だ、無傷という訳にもいかないだろう。
「ソラ、お前あのメラメラ野郎の事なんか知らねぇのか!?」
『分からない。この炎をどこかで見たような気はするが、まったく記憶にない。名前すらもな』
「あの野郎、今度会ったら必ずぶん殴ってやる!」
『そんな事よりも、今は走る事だけに集中しろ! 加護が切れる前に森を脱出しなければ終わりだぞ!』
「んな事分かってんだよ!」
方向音痴のルークにとって、この森はスキルを発動するにはうってつけの場所だった。指示された方角に向けて全力で走ってはいるものの、今だ森の終わりは見えて来ない。実は同じ場所をぐるぐる回ってました、なんて展開もありうるのである。
「こんなところで死ぬくらいならーー!!」
走りながら剣を振り上げ、ルークは斬撃を放った。半円状に広がる光の斬撃は真っ直ぐに突き進み、燃え続ける木をなぎ倒し、高温の炎を一瞬にして消し去った。
開けた視界、作り上げた安全地帯に向けて加速する。
「精霊の炎には精霊の力ってか! これなら消せんだな」
『すでに二発打っている。現状を打破するために仕方ないとはいえ、これから先の事を考えると頭が痛くなるな』
「ここで燃えるよかマシだろ!」
『そうだな。それに、斬撃は温存していても仕方ないだろう。精霊相手に使う訳にはいかないからな』
「え、なんで?」
『バカ者、ナタレムの話を聞いてなかったのか。もし斬撃を使って万が一でも精霊を殺してみろ、見つかってその瞬間にアウトだ』
仮に敵が襲って来ても、こちらは手加減をしなければならない。しかし、精霊側はルークを容赦なく殺しに来る。なんともやり辛い状況である。
「つー事は、俺が一人でぶん殴れば良いんだろ。それに、死にかけた時はお前を盾にすりゃ良い」
『もし貴様が私を盾にしたらあとで思いっきりぶん殴ってやる』
「相棒のためにその身を盾にするとか気遣いはねぇの!?」
『ない』
ハッキリと告げられ、ルークはなんとも言えない表情で前を見た。
すると、光が射し込む。木が燃えたために上から光が射し込んだのかとも思ったが、そうではない。ようやく、森の終わりが見えて来たのだ。
剣で前方を指し、
「あそこ、出口じゃねぇのか!?」
『おいまて、出口で待ち構えているかもしれない。十分に警戒してーー』
「おっしゃ出口ぃぃ!」
『人の話を聞け!』
ソラの言葉を全力でシカトし、ルークは走る速度を上げた。背後から襲いかかる炎から命からがら逃げのび、熱風に押される形で森を飛び出した。
森の外は丘になっていたらしく、ルークは着地に失敗。そのままゴロゴロと勢い良く丘を転げ落ちる。
しばらく転がり続け、ポツンとたたずむ一本の木に顔面を強打する事で止まる事に成功した。額と鼻を真っ赤に染めながら、
「いってぇ……まだ来て数分だろ、なんでこんなにボロボロなんだよ」
「生きているんだ、文句を言うな。だがまぁ、ここまで予想外の事を連続するとはな。私達が侵入した事はバレていると見て間違いないだろう」
背中で正座していたソラを払い落とし、涙目になりながら体を起こす。鼻を擦りながら自分達が先ほどまでいた森に目を向けると、未だに炎が上がっていた。
山火事なんてレベルではない。丘の上が炎に包まれている。
「あの炎いつまで燃えてんだろうな」
「全てを燃やし尽くすまでだろう。そんな事よりも、早くここを離れるぞ。追ってが来ると厄介だ」
「追ってって、俺達の居場所バレてんだろ? ならどこに逃げても一緒じゃねぇか」
「ならばここでジッとしているか? どのみち貴様は捕まれば死ぬんだ、逃げるしかないだろ。それに、私達の居場所を正確に把握しているとは限らない」
キョロキョロと周りを確認すると、そこは見渡す限りの草原だった。人間の世界にも似たような景色はあるが、なんというか、ただの草原でも綺麗な印象を受ける。なににも汚染されておらず、作られたそのまま状態ーー小さな川も見られ、自然豊かという言葉がピッタリだろう。
ルークは涙を拭い、
「どういう意味だ?」
「私達がどこにいるか把握しているのではなく、侵入者がどこから入って来たのか、だけを分かっている可能性がある。まぁ、どちらにしろここにはいられない」
「だな。とりあえず北つってたか。太陽ってどっちから昇るんだっけ?」
「東だバカ者」
「わーお、ソラちゃん物知りぃ」
自分の知識のなさを誤魔化すために茶化し、ソラの頭を撫でるルーク。嬉しそうに目を細めていたので、とりあえずそのまま空を見上げた。
と、そこで異変に気付く。
「……太陽って東から昇るんだよね?」
「……あぁ、そうだな」
「……東ってどっち?」
「……太陽が登っている方角だ」
「じゃあさーー太陽どこ?」
見上げて気付いた異変ーーそれは太陽がない事だった。それどころか、雲一つ空には浮かんでいない。一応明るいので朝なのだとは思うが、本来地上を照らすためのものが空には存在していない。
では、どこから光が?
いや、そんな事はどうだって良い。
「そういやさ、俺落ちてる時になんかおかしいなぁって思ってたんだ。あれって太陽がない事に対しておかしいと思ってたんだね」
「それがなんだ」
「ん? いや、別に、それだけ」
「…………」
「…………」
しばらく無言が続いた。
風が頬を叩く心地よさだけが残る。
自然の香りが鼻を刺激し、改めて自然の良さに気付く事が出来た。
まぁ、やっぱりそんな事はどうでも良くてーー、
「北ってどっちじゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
精霊の国に、一人の人間の声が響き渡った。
こうして、勇者は精霊の国におりたった。
自分が今まで暮らして来た世界の常識は通用しない
勇者の新たな冒険が始まるのだった。