七章五十四話 『八人目』
嫌な緊張感が走った。
精霊であるケルトですら、空間に走る亀裂を見て、胸の内から不安という言葉が込み上げて来るのを感じていた。
当然、隣に立つエリミアスの恐怖は計り知れない。
その横顔を、恐怖を決意で押し潰そうとする様を見て、
「エリミアス様、やはり貴女は……」
「ここまで来て引けません。いつか、いつかは向かいあわなくてはならなかった事なのです。いつまでも皆さんに守ってもらう姫ではいたくありませんから」
その手には、剣が握られている。
使い方なんて知らないだろうし、効率的に命を奪う術だって知らない筈だ。その重さに負け、バランスだって崩している。
エリミアスは、剣を握るという意味を、真に理解していた。
「……私は、貴女を守りたい。エリザベス様へのご恩を返すためではなく、私個人の願いで、貴女をお守りしたい」
「お友達というのは、一方通行ではないのです。私も、ケルトさんを守りたい。ケルトさんだけではありません、ここにいる全ての方達を、私は死なせたくありません」
それは無理だと、ケルトは思った。
数人、いや数十人、少なくとも死んでしまうだろう。そしてケルトは、別にそれでも構わないと思っていた。エリミアスさえ生きているのなら、他の誰がどうなろうとも。
しかし、しかしエリミアスは違う。
たとえ自分が弱くても、誰かを守れる力がなくても、全てを守り抜きたいと心の底から思っている。
ケルトは亀裂に向けて走りながら、
「エリミアス様、あの時の約束、覚えていらっしゃいますか?」
「勿論なのです。今度こそ、私と一緒に戦ってくださいますか?」
「はい。貴女を、必ずお守りします」
その時だった。
目の前の亀裂が、大きく揺れ動いたのは。
ビキビキ、と奇妙な音が生じるのと同時に、空間の裂け目から一匹の魔獣が姿を現す。
額に角がはえた巨人だった。
(破壊は……間に合わなかったか)
心の中で静かに呟くのと同時に、ケルトは一気に加速した。エリミアスや他の人間を置き去りにして巨人に迫ると、その顔面の高さまで跳躍。
振りかぶり、全力で巨人の角をぶん殴った。
角が砕け、巨人の体が大きく横に傾く。
そのまま落下に身を任せて地面に浮かぶ紋様を破壊しようとするが、
「くっーー!」
押し寄せる大量の魔獣。狭い亀裂をこじ開けるように小型の魔獣が一気に溢れだし、落下中のケルトの体を大きく弾き飛ばした。
バランスを崩しながらもなんとか空中で体を捻り、エリミアスの横へと着地。
「すみません、一歩間に合いませんでした」
「い、いえ! 仕方ありません!」
巨人が倒れた衝撃で地面が揺れ、エリミアスを含めた住民達は体を震わせる。
目の前の脅威を理解したからではない。
目の前の脅威を、たったの一撃で葬ったケルトの強さを見てだ。
ようするに、武者震いというやつだ。
これならば、勝てると。
「デカイのは私が相手をします、皆さんは小型の魔獣を。集中して動きを見ればそこまで強くはありません、落ち着いて首を切り落として」
突然始まった戦闘に、住民達は硬直していた。
戦いなんて無縁だった人間が、いきなり戦場に放り込まれればこうなってしまう。そう、これが普通。バカみたいに突っ込む例外もいるが、普通は動けなくなる。
よーいドン、なんて明確な合図がある訳ではない。
突然に、理不尽に、殺しあいは始まりを告げた。
「大丈夫……」
振り返り、エリミアスは固まる皆を見た。
ケルトはなにも言わずにそれを見守る。
彼女が踏み出そうとする一歩を、邪魔してはいけないと思ったからだ。
エリミアスは顔を上げ、真っ直ぐな瞳でわき出す魔獣の群れを見据えた。
「大丈夫です! 私達なら、きっと勝てます。こちらにはーー勇者がついていますから!!」
先陣を切って走り出すエリミアスの姿を見て、住民達は震えていた足を踏み出した。彼女がこの国の姫と気付いているのかは分からないが、一人の少女が勇気を振り絞って飛び出したのを見て、この町に住む自分達がなにもしない訳にはいかない。
雄叫びが、響く。
「固まって動け!」
「三人一組で確実に一匹づつ殺ってくぞ!」
「もし怪我したら急いで下がるのよ!」
「そうだ! 俺達には勇者がついている!」
「皆で、この町を守るんだ!」
次々と踏み出す者達を見て、ケルトは仮面の下で微笑んだ。
きっと、こういう少女だから、ケルトは側にいたいと思ったのだ。誰よりも弱い筈なのに、誰よりも怖い筈なのに、それでも前に進もうとしている。
自分がなにをしなくてはいけないのか。
自分にはどんな役目があるのか。
それを理解して、必死にもがく姿を見て。
辛い筈の現実と、向き合おうとしている。
「貴女の側にいれて、良かった」
心の底から、そう思った。
そして、
「これから先も、私は貴女のお側にいます」
戦おう。
国のためとか、町のためとか、ケルトにそんな義理はない。
たった一人の少女を守るために。
人間の、その強さを理解するために。
「まずは出来るだけ数を減らしてください。隙をつき、私があの門を破壊します!」
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その頃、貧民街へと向かったガジールだったのだが、予想外の場所に亀裂があるのを見つけ、思わずため息とともに肩を落とした。
自分が丹精込めて育てた野菜が真っ黒に染まり、地面には紋様、空中には亀裂が走っていた。
「お、俺達の食料が……」
「だ、大丈夫ですよ。これからも俺達も手伝いますから、また一からやり直しましょう」
「お、おう。そうだな、まずはこの気持ちわりぃ亀裂をどうにかしねぇとだな」
「はい、あの子達も戦っているんです、俺達が休んでいる訳にはいきませんから」
「お前、変わったな。……いや、お前達も、俺もか」
武器を構え、先ほどから奇妙な音を放つ亀裂からある程度の距離をとった。ガジールは魔獣と戦った事があるし、戦争だって経験している。ただ、参加していた訳ではないので、始まりの勇者から聞いた情報がほとんどだ。
それに加え、結構良い歳である。
「ガジールさんは、なぜ彼女達をここへ入れたんですか?」
「なぜって、そりゃ困ってたしな。久しぶりに息子と話たくなったんだよ」
「本当に、それだけですか?」
「……なんつーか、アイツと同じ匂いがしたんだ。性格なんか真逆なのによ、ルークを初めて見た時、アイツの姿と重なったんだ」
ガジールは、特段始まりの勇者と仲が良かった訳ではない。だが、彼の強さを見たあの日から、ガジールの人生は百八十度変わった。
誰かを傷つけるのではなく、誰かを救うための強さがある事を教えてもらったのだ。
「アイツなら、多分こうしてた。でもまぁ、アイツならお前らに文句言ったりはしねぇけど」
「正直、ムカつきましたよ。なにもかも当たっていたから、それを素直に認めてしまった自分に」
「俺も言われたよ、お前らを縛り付けてるのはお前だって」
「お互い、ただ甘えていただけなんですね。それが心地良かったから、それが一番安心出来るから」
「アイツが来なけりゃ、そんな事にも気付けなかった」
亀裂がさらに広がった。
奥で蠢くなにかを目にし、ガジールは生唾をゴクリと飲み込む。嫌な汗がダラダラと流れ、久しく感じていなかった高揚感、そして緊張感が身体中を駆け巡る。
「だからよ、また一から始めようぜ。今度は皆でだ。俺達は家族だ、家族は全員で支えあって行かねぇとな」
「はい。彼女の言っていた、本当の自由を……俺も掴んでみたいです」
「なら、まずは戦ってかたねぇとな。心配すんな、ここがぶっ壊れちまってもまた新しく家を作れば良い。家族が生きてりゃ、それで良い」
「そう、ですね。勝ちましょう、守りましょう、生きましょう」
一匹、二匹、続けて魔獣が亀裂から這い出して来た。
武器を構え、全員が魔獣と向き合う。
震えていなかった。怯えていなかった。
確かに恐いし、逃げ出したい。
でも、そうじゃない。
彼らはこの世の地獄を長い間見て来た。そこから救い出してくれた人がいて、幸福な世界を見た。
だから、戦える。今さら絶望の一つや二つ、彼らにとってはなんて事はない。
そんな事よりも、本物の希望が欲しいから。
本物の希望が消えてしまう方が、何倍も怖いから。
「さぁて、久しぶりの実戦だ。腰痛めねぇように気をつけねぇとな」
軽く腰を叩き、ガジールは準備運動。それから新たに現れたどでかい角のはえた魔獣を見て、一気に地面を蹴って駆け出した。
老体とは思えぬ速度で接近し、振り回された腕を跳んで回避。そのまま腕に着地し、止まる事なく腕をかけ上がると、
「じじいだからよ、加減とか出来ねぇんだわ。そんでも痛くねぇように努力するからーー苦しんで死ねやオイ!」
巨人の肩から全力でジャンプし、空中で剣を逆手に持ち変え、落下の勢いを使って剣を角に叩きつけた。ガギン!!と甲高い音の直後、巨人の角がへし折れる。ガジールは握っていた剣を投げ捨て、折れた角を両手で抱き締めるように掴むとーーそのまま眉間に叩きつけるように突き刺した。
「す、すげぇ……」
下から見ていた男が呆気にとられながら声を出す。
とてもじゃないが、七十を越えた人間の身のこなしではない。元気なおじいちゃんは、倒れて行く巨人から飛び下り、
「ま、あんな感じだ。アイツらは眉間が弱点だから角で守ってる」
「い、いや、流石にあれは出来ませんよっ」
「そうか? んじゃデケェのは俺に任せろ。ちっこいのは首でもぶっ刺せば殺せるだろうしな」
ぶん投げた剣を拾い上げ、ガジールは増えて行く魔獣達を見た。その頬は不気味に緩んでいる。ずっと忘れていた感覚、戦場の感覚を思い出し、無意識に笑っていたのだ。
「引退して結構たったが……意外と動けるもんだな。行くぞお前ら、じじいの俺が踏ん張ってんだ、遅れんじゃねぇぞオイ!!」
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その頃、時計塔の最上階に男はいた。
木製の椅子に腰を下ろし、秒針が刻む音に耳を傾けていた。
男の名前はセイトゥス。魔元帥と呼ばれる存在だ。
元々その名前は人間が勝手につけただけなので愛着もクソもないが、他の魔元帥がそう名乗っているので、彼も名乗るようにしている。
そんな男がここでなにをしているのか。
当然、この町を破壊ーー否、人間を殺すためだ。
多くの人間を殺せるのなら、別に町一つを破壊するなんて大袈裟な事をする必要はない。彼の、いや彼らの目的は、人間を殺す事だ。
殺して殺して殺して、殺し尽くす事だ。
セイトゥス自身、その理由については深く追及しない事にしている。
考えたところで、あの男の心理を理解する事は出来ない。セイトゥスはあの男であってあの男ではない。とりあえず殺れと言われたから、それが産まれて来た意味だから、従っているだけだ。
「……なんのために、こんな事をしている」
初めてこの世界に産まれ、光を浴び、あの男から自分のやるべき事を伝えられた時、セイトゥスは『どうして?』という疑問をもった。
そんな事をしても意味はない。
たとえあの男が自身の目的を果たしたとしても、その先にあるのは終わりだ。
自分の終わり、世界の終わり。
それなのに、なぜ。
「俺は、いったいなにがしたいんだ」
殺す事に罪悪感はない。
人間は関係ないと分かっていながら、それでも殺す事になんの躊躇いもない。
「……親父、お前はなにがしたいんだ。こんな事をしてなんの意味がある。ただ、むなしいだけだ」
あの男の苦しみを知った。
あの男の怒りを知った。
あの男の弱さを知った。
あの男の強さを知った。
それでも、なに一つ理解不能だった。
無意味だからだ。あの男の目指しているものは、やろうとしている事は、叶えたい願いは、恐らく叶う事はない。
難しいとか、やり方が間違っているとか、そういう問題ではないのだ。
絶対に不可能な事を、あの男はやろうとしている。
怒りと憎しみ。
あの男の中にあるのはそれだけだ。
「……考えても無駄か」
そこで、セイトゥスは考えるのを止めた。
何度も何度も考えても、結局答えは出なかったのだから。何十年と考えても、理解する事は出来なかったのだから。
「俺は俺のやるべき事をやる。門は開かれた、あとは……」
四つの門は開かれた。
今頃大量の魔獣が町中暴れ回っている頃だろう。
セイトゥスはユラのように紋様だけで魔獣を作り出す事は出来ない。いや、厳密に言えば作り出す事は出来るが、自分の体から外の世界に産み落とす事が出来ないのだ。
紋様だけでは道が不安定になるので、それを支えるために種を作り出した。世界そのものに穴を開け、直接自分の体と繋ぐために。
デメリットはある。紋様だけならば中から外に出る一方通行だが、セイトゥスのやり方だと外から中に入る事が出来てしまう。
魔元帥の体内に飛び込むバカはいないだろうが、万が一そんな事が起きた場合、内側から刺し殺される可能性だってある。だがしかし、普通の人間には無理だ。
よほど力のある魔法使いか、もしくはーー。
「……来たか」
ガチャリ、と音が鳴った。
最上階にたどり着くための唯一の扉が開かれた音だ。
予想はしていた。自分と同じ存在を何人も殺して来たような相手だ。油断する理由がない。
セイトゥスは立ち上がる。
部屋に足を踏み入れた客人を見る。
「ヴィランはどうした?」
「他の奴に任せて来た。俺はテメェを殺さねぇとだしな」
「そうか、契約が続いているからまさかとは思ったが……他の奴にアレの相手は重いと思うが?」
「問題ねぇよ。勝てるから任せたんだ」
やって来たのは三人だ。
一人は目付きの悪い黒髪の青年。
一人は決意に満ちた顔をしている桃色の髪をした少女。
一人は白い髪の精霊。
セイトゥスは桃色の髪の少女を見る。
「ヴィランになにか言われていたようだが、もう良いのか?」
「はい、もうふっ切れましたから」
「顔が変わったな。あれほど欲しいと言っていた力はいらなくなったのか? それとも、もう得たのか?」
「欲しいですよ、力。でも、私が欲しいのはそんな力じゃない。たとえ意味なんかなくたって、弱くたって……私が欲しい力は、自分の手で掴んでみせます」
「……アレにたぶらかされてまだ自分を保っているのか。なるほど、強いな」
セイトゥスの知る限り、ヴィランは底なしのクソッタレ野郎だ。人を騙し、利用し、最後には笑って捨てて行く。そこには自分を満たしたいという欲求しかなく、自分以外は全てゴミだという考えしかない。
壊れていった人間を、セイトゥスは何人も知っている。
こうして目の前に立ち、覚悟の決まった顔をしていられる人間は初めてだった。
それだけで十分。
彼女の強さを理解するには十分すぎた。
セイトゥスは青年へと視線を移す。
「勇者、お前はなんのために戦っている?」
「は? んなのどうだって良いだろ」
「答えろ、知りたいんだ」
青年は面倒くさそうにため息をつき、それから直ぐに答えた。
「自分のためだ」
「……そうか、自分のためか」
迷う様子もなあ青年を見て、セイトゥスは羨ましいと思ってしまった。
戦う理由なんてない。
そうするべきだから、そのために産まれて来たら、そんな曖昧な答えで誤魔化し、セイトゥスは今日まで生きて来た。
だから、知りたいと思った。
なんで、自分は戦っているのか。
「俺には戦う理由が分からない。今やっている事も俺のやりたい事ではなく、親父のやりたい事だ。だが……」
それとこれとは話は別だ。
分からないからと言って、譲るつもりは毛頭ない。
「負けるのは嫌いなんでな、勝たせてもらうぞ」
セイトゥスの殺気を感じ取ったのか、青年は剣を握り締める。
隣に立つ少女も同様に構えた。
踏み出し、セイトゥスは僅かに微笑み、
「セイトゥス、それが俺の名前だ。勇者、最後の魔元帥がお前の旅を終わらせよう」