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量産型勇者の英雄譚  作者: ちくわ
七章 精霊の契約
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七章五十一話 『ティアニーズ・アレイクドル』



 ティアニーズ・アレイクドル。

 それが、少女の名前だ。


 桃色の髪、それは彼女にとってなによりの自慢であり、幼き日に命を落とした母親から授かった大事なものだ。

 ここで、少しだけ彼女の母親の話をしよう。


 多くは覚えていない。

 とにかく優しくて、いつだって笑っていた。

 特に、なくなった夫の事を話す時には、その笑顔の輝きが一段と増していた気がする。


 どれだけ格好良かったか、どれだけ強かったか、どれだけ真面目だったか、どれだけ堅実だったが、どれだけ立派だったか。それを聞かされたのは小さな頃だけど、母親の笑顔が印象的だった事もあり、ティアニーズの記憶に鮮明に刻み込まれていた。


『ねぇ、なんでお父さんの自慢はしないの?』


『お父さん? あぁ、サリーの事かしら。だって、私が言わなくても、あの人の魅力はこれからいっぱい知る事になるから』


『お母さんは、お父さんともう一人のお父さん、どっちが好きなの?』


『うーん、それは……秘密』


『なんでよー!』


『だって、どっちも大好きなんだもん。酷い女かもしれないけど、選べないの』


 そんな会話を、毎回繰り返していた気がする。

 実の父親であるサリーは嫉妬したようにご機嫌斜めだったが、ティアニーズには二人の仲が悪いようには見えなかった。いやむしろ、サリーも楽しそうだったのだ。

 もう一人の父親の話をする時、サリーも笑っていた。


『あの人はね、いつだって諦めなかったの。どんなに辛い事があっても、どんなに高い壁があっても、絶対に諦めなかった』


『ぼ、僕だって諦めは悪い方だと思うよ!』


『そうね、じゃなかったら私は貴方と結婚していないもの』


『お父さんとお母さんは、どうやって出会ったのー?』


『教えない。だって恥ずかしいもの』


『ふふふ、しょうがないなぁ。なら僕が代わりにーー』


『止めなさい』


 そう言って、サリーに暴力を振るう姿も日常だった。それでも笑っているサリーを変な人だとも思っていた時期もあったが、今になって分かる。

 それだけ、二人は愛しあっていたのだ。

 アリエルに忘れられない人がいる事を理解して、それでも、サリーは共にいる事を決めたのだ。


 そんな二人が、羨ましかった。

 そして、そんな二人が誇らしげに話すもう一人父親が、ティアニーズの憧れだった。




 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー




 ティアニーズには父親が二人いる。

 実際に血が繋がっているのはサリーなのだが、憧れる人、という意味ではの話だ。

 

 アルクルス・アレイクドル。

 それが、ティアニーズのもう一人の父親の名前だ。


 母親であるアリエルがサリーと出会うよりも前、二人は結婚していた。そのため、ティアニーズの姓はアレクドルなのである。

 しかし、アルクルスはティアニーズが産まれる前、戦争によって命を落とした。なにが原因なのかは聞かされていないが、魔獣に殺された、という事だけは聞かされていた。


 途方に暮れ、毎日死ぬ事だけを考えていた、とサリエルは語る。幼いティアニーズにそんな事を語っても多くの意味を理解する事は出来ず、ただ辛かったんだなぁ、くらいの事しか覚えてはいない。

 そんな時、サリーと出会ったらしい。


 二人のなれそめについては、アリエルが照れて喋ろうとはしなかったが、一方のサリーは毎日自慢気に出会いから結婚までの流れを事細かに話していた。

 そりゃもう、幸せそうに。


 サリーとアリエル。

 二人の間に産まれたのが、ティアニーズだ。


 なにを思って前の夫の事を話したのかは分からない。普通、子供にそんな事を話そうとはしないのだが、アリエルとサリーは来る日も来る日もアルクルスの話を続けた。

 だから、それだけで分かった。

 その人がどれだけ偉大で、二人にとってかけがえのない存在なのか。


 それが、理由だ。

 別にどこが凄くてなにが偉いのかなんてのは分からなかった。顔だって知らないし、触れあった事だってない。

 でも、十分だった。


 アルクルスの事を話す二人の顔が、とても幸せそうだったから。

 いつか、自分もそうなりたい。

 誰かに笑顔で、自慢だと思ってもらえるような人間に。


 ただ、格好良かったから。

 そんな強い人間になりたいと、そう思ってしまった。


 ーーそれが、この先ティアニーズを一生縛り付ける呪いになるとも知らずに。




 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー




 十四歳になったティアニーズは、騎士団に入る事を決意した。

 その時にはアリエルは亡くなっており、サリーとの二人暮らしにもなれたものだ。当然、一人娘が危ない目にあうのを父親が許可するはずもなく、何度も何度も拒否された。


『僕はアリエルに君を守ると誓ったんだ。だから、騎士団に入る事を許可出来ない』


『私はお父さんとお母さんが残したものを守りたいの!』


『そ、そんな事言ってもダメなものはダメ!』


『お父さんの分からず屋! 大ッ嫌い!』


『なっ! ……うぅ』


『う、嘘だよ! お父さんの事大好きだよ!』


 反抗期、という訳ではなかったが、その頃には何度も衝突した。その度に大ッ嫌いと口にし、本気で号泣するサリーを慰めるのがお決まりの流れとなっていた。

 それでも、諦められなかった。

 誰かに誇れる人間になりたいから。

 自分も父親のように、格好良い人間になりたかったから。


 それから月日があったある日。

 サリーがこんな事を言った。


『ティアニーズは、どうして騎士団に入りたいんだい?』


『お父さんみたいになりたいから』


『それは、アルクルスさんの事だね?』


『それだけじゃないよ。お父さんはいつだって私を守ってくれた。お母さんが死んで辛い筈なのに、笑って私を励ましてくれた。そんな人に、なりたいの。誰かの涙を拭ってあげられるような人に』


『あはは、そう言ってもらえるのは嬉しいけど、僕はアルクルスさんに比べたら全然強くないからなぁ……』


『そんな事ないよ。私にとって、お父さんは自慢のお父さんだよ』


 本気でそう思っていた。

 直ぐに泣くし、良く転んで物を壊すし、腕相撲ではいつもティアニーズが勝つ。けれど、ティアニーズは知っていた。一番辛い時期に、誰よりも辛い筈のサリーが、涙を飲んで自分のために笑っていた事を。


 力だけではなく、そういう強さがある事は、サリーから学んだ。

 寄り添い、励まし、誰かを支える事の出来る強さーー優しさを、サリーは持っていたのだ。


『お父さんは優しいの。だからね、今度は私がお父さんを守りたい。大丈夫だよって、笑って言える人になりたいの』


『……やっぱり、ティアニーズはアリエルに似たのかな』


『私が?』


『うん、そういう頑固なところだよ。笑顔も、彼女にそっくりだ』


『ありがと。そう言ってもらえると、凄く嬉しい』


 満面の笑みを浮かべたティアニーズを見て、サリーはばつが悪そうに頭をかいて苦笑いを浮かべた。

 そして、言った。

 このサリーの表情を、ティアニーズは今も覚えている。


『ティアニーズ、僕は弱いんだ。でもね、誰にも負けない事もある。それはティアニーズ、君を思う気持ちだよ。君のためだったらなんだって出来るし、僕は誰にだって勝ってみせる』


『本当に? お父さん直ぐに泣いちゃうじゃん』


『泣きながらでも挑むさ。それだけ君が大事なんだ。だから、君が傷つくのは嫌だ。ティアニーズにはずっと笑っていてほしいんだ』


『……うん』


『だから、笑っていてくれるかい? どんなに遠くへ行っても、辛い事があっても、ここへ戻って来ると約束出来るかい?』


『戻って来るよ。だって、ここが私の居場所だもん。私の、お父さんとお母さんと暮らした、大事な場所だもん』


『そうか……分かったよ。でも、約束してくれ。強い人間になると』


『うん。そのために頑張ってトレーニングしてるもん』


『そうじゃない、それは見かけの強さだよ。絶対に譲れないものを、意思の強さを。本当に強い人間になってくれると、僕は嬉しいかな』


 こうして、ティアニーズは晴れて騎士団になった。

 ようやくスタート地点に立ったのだ。

 努力して、必ず強くなると誓った。父のように、母のように、本当の意味で強い人間に。

 誰かに誇れる自分に。


 だが、そう上手くはいかなかった。

 騎士団に入って早々、ティアニーズは気付かされる事になる。

 自分が、特別な人間ではない事に。


 周りには騎士団になるため、産まれて来た時から努力を重ね続けてきたように人間ばかりだ。技術も、経験も、圧倒的に勝っているような人間ばかりだった。

 自分なんかでは足元にも及ばないような。

 信念と覚悟をもち、命をかけて入団する事を決めた人間ばかりだったのだ。


 自分の覚悟がいかに矮小かを知った。

 ティアニーズには覚悟なんてない。あるのは憧れで、そうなりたいという願いだけだった。

 中途半端だと、何度も言われた。

 お前は弱いと、何度も言われた。


 でも、諦めたくなかった。

 でも、諦められなかった。

 いつか必ずチャンスが巡って来ると信じ、ティアニーズは来る日も来る日も鍛練を続けた。


 そんな時だった。

 ずっと望んでいたチャンスが巡って来たのは。


 王都から少し東に行った山に、ドラゴンが現れたという話だった。それを討伐するために急遽いくつかの小隊を組み、ティアニーズはその中の一人に選ばれたのだ。当然、前線で戦える訳もなかったが、ここでなにか手柄を上げれば周りから認められるーーそんな欲望にまみれた考えで、ティアニーズの頭は満たされていた。


 ただのドラゴンなら、それで良かったかもしれない。

 仕方なかったのかもしれない。

 それが魔元帥だと、誰も知らなかったのだから。


 ーー待っていたのは、数えきれないほどの死だった。


 目の前で人間が食われるのを見た。

 目の前で人間が引き裂かれるのを見た。

 目の前で人間が潰されるのを見た。

 悲鳴を聞いた。

 泣き声を聞いた。

 終わる事のない絶望を。

 いくつもの死を、見た。


 それなのに、ティアニーズは動けなかった。

 恐怖に負けたとかではなく、自分の覚悟がいかに脆いものかを知ったからだ。 命の危険を伴う仕事だという事は理解していた。魔獣という人類の敵と戦い、自分だって怪我をするかもしれないと分かっていた。


 なのに、人の死を前にして、足がすくんで一歩も動けなかった。

 助けようとも、逃げようともしなかったーー否、出来なかったのだ。

 本当に、こんな奴らに勝てるのかと思ってしまった。


 結局、目的であったドラゴン退治は叶わず、死に物狂いで撤退する事になった。

 何人の人間が死んだのか、ティアニーズは怖くて聞けなかった。自分よりも優れた人間が、自分を弱いと罵った人間が、意図も簡単に死んで行くのを見た。


 そんな相手に、自分は勝てるのか?

 特別な力なんかなくて、平凡で、大した覚悟もない自分が。


 多分、それが全ての始まりだった。

 少女が自分を嫌いになったのは。

 自分の弱さを、呪うようになったのは。



 それからのティアニーズは、ただ強さを求めた。

 武力も勿論の事だが、立場という権力を手に入れるために。


 第三部隊に入隊し、そこで出会った仲間達と数々の事件を解決するために走った。それも全て、確かな力が欲しかったからだ。自分は平凡じゃなくて、なにか特別なものがあると信じたかったからだ。


 死に物狂いで、努力した。

 届かないと知っていながら、それでも諦めたくなくて。


 ーーそして、全ての始まりである、あの出来事が起こった。


 東の小さな村に、本物の勇者が現れたという話を聞いたのだ。

 努力を認められたからなのかは分からないが、王直々にティアニーズに声がかかった。

 別に本物の勇者がいるなんて信じてはいなかったが、もし勇者になりえる存在だったならば、自分は間違いなく昇進出来ると思い、当然ティアニーズは行く事を決意した。

 もし、勇者でないのなら。

 自分が勇者にしてしまえば良いと思って。


 仲間に別れを告げ、父親に別れを告げ、ティアニーズは旅立った。

 たった一人で、月日をかけ、行った事もない辺境の地を目指して。


 そこで、少女は青年と出会った。

 正真正銘、少女の運命を変える出会いだった。



 ーー第一印象から最悪だった。

 そりゃもう、最悪中の最悪。


 村人に罵詈雑言、暴言の限りを吐きつくし、そんでもって育て親である村長を本気でグーパンチしようとしていた。

 一目で分かった。

 この男は勇者じゃない。

 こんな男が勇者であってたまるかと。


 勇者以前に、普通の人間としてもおかしかった。

 確かにいきなり殴って誘拐したティアニーズにも非はあるが、出会ったばかりの少女をいきなりぶん投げるだろうか。しかも盗賊に向け、しかも自分は本気でダッシュして逃げようとしていた。


 その時、ティアニーズは決意した。この男が勇者であろうとなかろうと、とことん巻き込んでやると決めた。勇者でないのなら、自分が鍛えて勇者にしてやると。

 だが、そんなティアニーズのやる気を他所に、予想外の出来事が起きた。


 かつて、始まりの勇者が魔王と戦う際に使っていた剣ーー勇者の剣を青年が引っこ抜いてしまったのだ。いや厳密に言えば抜いたのではなく倒れたのだが、青年は誰にも持ち上げれない剣を平然と持ち上げていた。


 驚きとともに、ティアニーズの中には嫉妬の感情が生まれた。なんで、こんな男なんだとも思った。暴力的で自分勝手で、口も悪くて目付きも悪くて、そんな男が、そんな男だったらーー素直に諦められたのに。


 そうじゃないから、それだけじゃなかったから、ティアニーズは青年に憧れてしまった。


『誰だって初めは平凡なんだよ、始まりの勇者だってそうに決まってる。でも、自分のやりたい事を突き通して、それが結果的に世界を救っただけだ』


 青年の言葉に、そうかもしれないと思ってしまった。


『英雄はなろうとしてなるもんじゃねぇ。周りに認められて初めて英雄なんだ。『勇気ある者』、それが勇者だろ。初めから他人を利用するような奴には絶対になれない』


 青年の言葉に、自分は英雄になれないと気付かされてしまった。


 それと同時に、違う想いも生まれた。

 この男の言う勇者とはなんなのか。

 英雄になれないのなら、自分はこれからどうやって生きていけば良いのか。


 そう、口にすると、


『自分で決めろ。お前の人生だ』


 自分の人生なんて、考えた事がなかった。父親のようになりたい、ただそれだけを考えて生きて来たのだから。

 でも、もし違う道があるのだとしたら。

 他の誰でもない、自分だけの道があるとしたら。


 ティアニーズは、それを知りたくなった。

 この男の道が、どこへ続いているのか見たくなった。

 この男について行けば、なにか答えを得る事が出来るかもしれないーーそう、思った。


 そこで、初めて気付いた。

 暴力的で口が悪いのは変わらないが、この男には自分にないものをがある。本当に欲しかった、決して折れる事のないもの。

 揺らぐ事のない、意思の力を。


 それからの事は、全て鮮明に思い出せる。

 なにがあっても変わらない青年に本気で苛立った事もあるが、その度にティアニーズは青年に惹かれていった。ただの自己中では済ます事の出来ない、彼の本来の姿に。


 魔元帥と戦い、傷を負い、修羅場を潜り抜ける度にそれは大きくなっていった。

 そして、やがてそれは憧れの気持ちへと変化する。

 初めて、父親以外の誰かになりたいと思った。

 この男のようになれたのなら、きっと自分に自信が持てると。


 結局、それも他人から得たものでしかないと知っていながら。


 憧れなんて綺麗な言葉ではなく、ただ青年に甘えていただけなのに。




 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー




「…………」


 目を開くと、そこには闇が広がっていた。

 体は浮遊感に包まれ、落ちているのか上っているのかすら分からない。視線の先にある亀裂、そこから僅かな光が漏れているが、それすらも消し去るほどの闇だった。


「……ごめんなさい」


 自分に手を伸ばし、引き止めようとした白い髪の精霊の顔が頭を過る。

 あの手を掴む資格なんて、自分にはない。

 誰かに助けてもらう資格なんて、ないのだ。


「……ごめんなさい」


 謝らせると言った少女の顔が頭を過る。

 結局、ちゃんと謝る事が出来なかった。

 全部自分のせいで、自分の行動のせいでこうなったのに、謝る事から逃げてしまった。


「……ごめんなさい」


 金髪の青年の、最後の笑顔が頭を過る。

 自分を見失ってばかりで、信じる道なんてなくて、諦めない勇気なんてまやかしで、それでも、こんな自分でも、守ってくれたのに。


 救われた命を、自分の身勝手な願いのために捨てようとしている。


 結局、こんなものだ。

 覚悟なんて、憧れなんて、脆くて簡単に壊れてしまうものだったのだ。

 強くなんてない。憧れていた、なんて言われるような人間じゃない。


 ただ怖くて、認めたくなくて、みっともなく足掻いていただけだ。

 そんな自分に、誰かを守る資格なんてありはしない。

 笑って、もう一度あの場所に帰る資格なんてありはしない。


 だから、ここで終わる。

 自分の命で全部を救えるとは思わない。

 けど、きっと。

 あの青年達がどうにかしてくれる。


「……最後まで、他人任せだな」


 最後の最後に、気付けた事がある。

 自分はあの青年なんかよりも、よっぽどクズだと。

 自分の欲望のために巻き込み、戦わざるを得ない状況を作ったくせに、こうして逃げようとしている。


 どこまでも、どこまでも、どうしようもないクソッタレ。

 自分勝手で惨めなーーただの人間だと。


 手を、伸ばす。

 背後からは得体の知れないうめき声が聞こえるが、恐らく今も生み出されている魔獣達の声だろう。

 今から、ティアニーズはそれに食われる。

 残酷な死を迎え、その生命に終わりが来る。


 それを、望んでここへ来た。

 そのために、ここへ来た。


(これで、終わり……)


 最後の瞬間なんてこんなものだ。

 人間の死なんて、いつやってくるか分からないのだから。


 でも。もし。

 こんな自分にでも願う事が許されるのなら。


 そこまで考えて、ティアニーズは頭を振った。


「そんな資格、私にはない」


 亀裂に触れた瞬間、掌に激痛が響く。

 ブチブチ、と嫌な音が生じ、手の甲が内出血により青く変色して行く。

 だが、ティアニーズは笑っていた。


 やっと、解放される。

 辛くて、苦しくて。

 嫌な事ばかりだった人生から。


「これで……」


 力を込め、門を閉じる。

 ゆっくりと、最後の光が薄れて行く。

 か細く、太陽の光が消えて行く。


「ーーさよなら」


 門が、閉じる。

 それはティアニーズの死を意味し、世界との決別を意味する。

 後悔はある。いや、後悔しかない。

 でも、これしか方法がないから。


 だからーー、


「?」


 なにかが、亀裂の中へと入って来た。

 閉じようとするティアニーズに対し、姿を見せたのは五本の指のようなものだ。ほとんど閉じている亀裂の隙間に現れたそれは、ティアニーズの行動とは反対に、亀裂を開こうと力を加える。


「ちょ……なにーー」


 ーーベキベキ!と音が鳴り、閉じる寸前だった亀裂が完全に開いた。


 そこには、一人の男が立っていた。

 指先から血を流し、苛立ったようにこちらを睨み付けている。


「なん、で」


 その姿を見た瞬間、ティアニーズは涙を溢しそうになった。しかし必死に堪え、思わず亀裂から手を離してしまった。

 だが、体は沈まない。

 まるで、目の前の男に引き寄せられるように。


「テメェ……」


 その声を、ずっと聞きたかった。

 その顔を、ずっと見たかった。


 静かな声で、青年は言う。


「なにやってんだ、勝手に死のうとしてんじゃねぇぞ」


 あろう事か、青年はティアニーズの頬をぶん殴った。



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