七章四十八話 『本物の希望』
シャルルを見つめ、アテナが不安そうに顔を曇らせながら口を開いた。
「……なるほど、その方が確かにこの町を守れる確率は上がる。だが……」
「分かってる。多分、今私がやろうとしてる事は酷い事だって。こんな事言える人間じゃないって事も分かってる」
自分がなにをやろうとしているかを改めて考え、シャルルは胸を締め付けられるような痛みに目を伏せた。胸に手を当て、心臓が刻む鼓動を確かめる。
瞳には不安がーー否、不安しかない。
「でもね、今やらなきゃ一生後悔する。私だけじゃなくて、ここにいる人達は絶対に後悔する事になると思うの」
「後悔、か……」
「私は、このままなにもせずに終わるなんて嫌。このままなにもせず終わらせるのも嫌。私だから、奴隷だった私だから、出来る事がきっとある」
「……そうか。君が決めたのなら私はなにも言わないさ。微力ながら力を貸そう」
「うん、ありがとう」
アテナの言葉を受け、シャルルは不安を拭うように顔を上げた。足が震え、心臓が爆発しそうなほどに暴れている。今シャルルを支配しているのは、紛れもない恐怖だ。
身を任せてしまえば楽で、今まで通りに諦めてしまえばなにも見ずに済む。
でも、それは嫌だった。
背中を押され、やっと踏み出せた一歩を、こんなところでなかった事にはしたくない。
こんなところで、偽物の希望を抱いたまま終わってほしくはなかったから。
「お願い」
「分かった」
アテナは手を上げ、その掌から炎を放った。小さな炎は空高く舞い上がり、やがて空中で激しい閃光が爆発する。辺りを照らし、騒いでいた人々が一瞬にして静まると、閃光の真下に立つシャルル達に視線が注がれた。
恐怖、不安、疑問、好奇心。集まる視線には様々な感情が込められており、それを全て一身に引き受け、シャルルは一歩を踏み出した。
深く息を吸い、深く吐き出す。
そして、覚悟を決めた。
「私の、私の話を聞いてください」
伝えたい事は沢山あるのに、なにから話せば良いのか分からない。頭の中で話をまとめにず喋り始めたのだから当たり前だ。
でも、それでも口を開く。
「……私は、元奴隷です。ここにいる皆と同じで、本当にクソみたいな人生を送って来ました。牢屋にいる時も、牢屋から出られた時も希望なんかなくて、見渡す限り真っ黒な世界が広がってた」
シャルル・ラシール。
それが、彼女が両親から授かった名前だ。
両親の顔は今でも覚えている。自分を金のために売り、今はどこでなにをしているのかすら分からないが、それでも今まで一度も忘れた事はなかった。
「ううん、違う。自分から暗闇に入って行ったんだと思う。そうすればなにも見なくて済むから、ここはこういう世界なんだって諦められたから」
恨んでいるかと聞かれれば、間違いなくイエスと答えるだろう。
だって、両親のせいでシャルルは奴隷としての人生を送らなければいけなくなり、命を命とすら思わない連中に人生をぶち壊されたのだ。
それを、恨んでいない訳がない。
「皆だってそうでしょ? どうにもならないって、なにかしたって結局は戻って来る。どれだけ努力しても、どれだけ足掻いても、世の中には越えられない壁がある」
だが、両親を殺したいかと聞かれれば、シャルルはそんな事ないと答えるだろう。
死ねば良いと思うし、不幸な目にあって自分と同じような思いをすれば良いとも思う。けれど、自分手でその命を奪いたいとは思わなかった。
もう、顔だって見たくはない。
声も聞きたくない。
この先の人生で、一度たりとも会わずに済む事を望んでいる。
でも、なぜか殺したいとは思わなかった。
「だから、諦めたんだよね。もうこれで良いって、自分達の人生はこういうものだから仕方ないって。私もだよ。私が我慢さえすれば、とりあえずは死なずに済むって言い聞かせて、どんな事にも耐えて来た」
奴隷だった頃の記憶はほとんどない。
早く一日が終われと、毎日毎日同じ事を願っていた。次の日が来てもまた同じ日を繰り返すだけなのに。
殴られて、殴られて、殴られて、自分の感情を必死に殺して、毎日を耐えていた。
「助けなんか来ない。だって、どれだけ願っても来なかったんだもん。辛いって泣き叫んでも、助けてって声を上げても、誰も手を差しのべてくれない。それどころか、見る事さえしなかった」
あのスキンヘッドの男に買われた直後は、シャルルだって抵抗していた。毎日執拗に繰り返される暴力が嫌になって、逃げ出して、助けを求めた事だってある。
でも、誰も助けてはくれなかった。
見向きもせず、自分には関係ないと、関わりたくないと言いたげに背を向けるだけだった。
だから、止めた。抵抗する事を、抗う事を。
そんな事をしても意味はなくて、颯爽と現れて助けてくれる英雄なんて存在しないと気付いたから。
その瞬間に、シャルルは絶望したのだ。
「誰も、助けてくれなかった。なんでこんなに辛いんだろって、なんで私だけなんだろって、何度も思った。殴られる私を横目に、楽しそうに笑ってる人を見た。殴られる私を横目に、気持ち悪そうに笑う人を見た」
あの目は、この先一生かけても忘れる事は出来ないだろう。
目の前で起きてる光景を、劇かなんかの非現実的なものだとでも思っていたのだろうか。自分には関係ないと、この人は殴られるために産まれて来たとでも思っていたのだろうか。
その答えは、今となっては分からない。
その目だって、気にならないほどに浴びせられて来たから。
辱しめるように、嘲笑うように、蔑むように、そんな視線を、毎日注がれて来た。
いつからか、それを当たり前だと思うようになっていた。
「なんで助けてくれないのって、叫んだ事もある。けどね、誰も答えてくれなかった。聞こえてる筈なのに、聞こえないふりをしてた。怖かったのよね、私を助ければ、次は自分の番だから」
人間はそんなものだと、その時に悟った。
自分が幸福になるためなら、他人を平気で不幸に突き落とす。不幸の底でもがく人間を見ても、自分が巻き込まれるのが嫌だから手を伸ばさない。
人間なんて、その程度だ。
別にそれを悪いとは思わない。だって、それが普通だから。
けど。
それでも。
なんで助けてくれないの?
そう、何度も考えた。
「別に、今さらそれを責めようとは思わない。多分、私だってそうしてたから。自分が不幸に巻き込まれたくないから、困ってる人間を平気で蹴落としてたと思うから」
それを悪だとは思わない。
だって、立場が違えばシャルルもそうしていたから。
だから、そんな事を考えてしまう自分は、救われなくて当然だった。
「暗い闇の底で、体を丸くして耳を塞いだ。目を閉じて、なにも見ないようにした。毎日辛くて死にたくても、そうすれば耐えられたから」
シャルルの出した結論は、我慢する事だった。
変わるために一歩を踏み出したところで意味なんかなくて、結局自分が足掻いたとこで世界は良い方向には変わらない。だから、諦めて目を逸らして、立ち向かう事を止めた。
そうすれば、少なくとも生きてはいられるから。
たとえ、それが偽物の希望だとしても。
「それしか、私には出来なかった。私程度の力じゃなにかを変える事は出来ないし、勇気もなかった。諦めて、もう良いやって、私の人生はこういうものだって……そう、思ってた」
そんな時だった。
あの青年に出会ったのは。
「でも、違った。私を、助けてくれた人がいた。どれだけ叫んでも届かなかったのに……アイツはそれを聞いてすらいないのに助けてくれた」
あの青年がなんと言おうが、シャルルは助けられたと思っている。そりゃ出会った瞬間は本気でムカついたし、自分の生活を奪われたとも思った。あげくの果てには知らんとか言い出すし、殺意だってわいた。
「ほんと、バカな奴よね。この町の人間なら誰だって知ってる。奴隷関係の人間に手を出したらどうなるか……それを知ってたから、誰も助けてくれなかったのに……アイツは、なんの躊躇いもなく殴った」
あの瞬間、シャルルは解放されたような感覚を初めて味わった。
いきなり現れた目付きの悪い青年が、自分を殴る男を全力で殴り飛ばしたのだ。
それを見て、胸が高鳴った。熱くなった。息が漏れた。
多分、スッキリとしたのだろう。
「それだけじゃない、奴隷商人全員潰すとか騒いでた。冗談でもなんでもなく、本気でやろうとしてた。ううん、今もやろうとしている」
シャルルは頬を緩めた。
なんで自分が微笑んでいるか、シャルル自身にも分からない。
胸の前で拳を握り締め、
「最初はただのバカだと思ってたの。……いや今でもバカだと思ってる。勝手にどっか行って怪我して、自分が怪我してるのに私に説教して……意味分からない事ばっかの男だった」
だが、次第に変わって行った。
あの青年の背中を見て、シャルルは変わり始めたのだ。
「でも、ほんの少しだけど、格好良いって思ったの。どれだけ打ちのめされても、どれだけ怪我をして死にかけても、アイツは立ち向かう事を辞めなかった。自分なら出来るって、信じてたんだと思う」
ここで間違いを指摘しよう。
あの青年は自分になら出来るとは信じていない。
ムカつくから、たったそれだけの理由で立ち上がる事の出来る人間なのだ。
「私には出来なかった事だもん。早々に諦めて、なにかを信じる事も捨てた私には。だから……羨ましいって思ったの」
あの青年のように生きられたのなら、どれだけ幸せだろうか。
あの青年のように自信があったら、なにかかが変わっていたのだろうか。
でも、シャルルはシャルルだ。
どれだけ努力しても、あの青年にはなれない。
でも、そうなりたいと思った。
無力で耳を塞いでいた自分を、変えたいと思った。
貧民街で家が燃えた時、シャルルは諦めていた。また戻るのだと、やっと手に入れた自由はこの瞬間に失われるのだと。
でも、仕方ないと思っていた。やっぱり、人は変われないと。
ーーお前が守れ。
そんなシャルルに、あの青年はそう言った。
あの瞬間、青年がどんな感情でその言葉を言ったのか分からない。でも、あの時の青年の目は、お前なら出来ると、そう言っているようだった。
かいかぶり過ぎだと思った。そんな力ないとも思った。
でもそれ以上に、変わりたいと思った。
多分、このチャンスを逃せば自分は一生このままで、本当の自由を手に入れる事が出来なくなる。
だから、一歩を踏み出した。
その結果、誰かを救えたと胸をはって言える訳ではないが、シャルル自身、かつてないほどの満足感に包まれていた。
そしてーー、
「そんなアイツが、言ってくれたの。私は強いって」
嬉しかった。ただ純粋に嬉しかった。
あの瞬間を思い出すだけでも、シャルルの頬が無意識に緩んで行く。
誰も、そんな事言ってくれなかった。
本人も、そう思っていたから。
「私には、変わる勇気があるって」
あの時、確かにシャルルは勇気を振り絞った。
情けない自分を変えたくて、震える足を必死に前に出した。
それが、その勇気が、誰かに伝わっていた事が、どうしようもなく嬉しかった。
「こんな私にも、勇気があった。違う……私は貰ったの、変わるための勇気を、踏み出すための勇気を、私はアイツに貰ったの」
あの青年がいなければ、今もシャルルは奴隷として生きていた。あの青年がいなければ、いつまでも弱いままの自分だった。あの青年がいなければ、きっと町の人間とこうして向き合う事も出来なかった。
全部、全部あの青年がくれたのだ。
だから。
だから今度は。
「私が、皆に勇気をあげる番」
こんな自分でも変われた。
こんな自分でも踏み出せた。
「やっと自由を手に入れたばっかの皆に、こんな事を頼むのは間違ってるって分かってる」
変わるというのは、こんなにも嬉しい事なのだと知った。
難しいかもしれないけれど、そこで得たものは、確かに希望と呼べるものだったから。
「今、この町は腐ってる。それはこの町に住む全員のせい。誰も立ち上がらなかったから、誰も見ようとはしなかったから、この町は腐ったの」
自分を含め、全ての人間に責任がある。
誰か一人が立ち上がれば済む話ではない。
「もうすぐ、この町に大量の魔獣が現れる。そうなったら、本当にこの町は終わっちゃう」
そんなのは嫌だと、シャルルは思う。
あの青年と出会えたこの町を。
嫌な思い出ばかりのこの町を。
シャルルは、護りたい。
それを、あの男は、ベルトスは望んでいたから。
「だから、皆の力を貸して。この町を救うために、立ち上がって」
それが、どれだけ無理な願いかは分かってるいる。
やっとの思いで手に入れた自由を、数分後には失うかもしれないのだ。しかも、今回は自由だけではなく、命というなにものにも代えられないものを。
シャルルの話を聞いていた人々は、ただうつ向いているだけだ。話を飲み込めない者、飲み込んだ上でわざと理解しないようにしている者。誰も、答えを口にしようとはしない。
「無理なお願いだって事は分かってる! けど、それでももうこれしか方法がないの! 私達だけじゃ守れない……皆の力がないと無理なの!」
「……無理だよ。俺達には、そんな力ない」
ポツポツと、言葉が溢れ出す。
一人の男が呟き、その隣に立つ男が呟き、その周りに立つ女が呟き、そうして次第に当たり全体に広がって行く。
絶望という言葉が、伝染して行く。
それでも、シャルルは諦めなかった。
必死に声を荒げる。
「そんな事ない! 同じ奴隷だった私にも出来たんだから、皆にだって出来る!」
「無理なんだよ! そんな力があったら、そんな勇気があったら、俺達はとっくの昔にあそこから抜け出してる!」
あの青年の出会う前、きっと自分なこんな感じだったのだろうーーと、シャルルは思った。
自分にはないも出来ないからやらない、抗ったところでどうにもならないから諦める、この世界には絶望しかなくて、希望なんて言葉は存在しない。
そこで、シャルルはよくやく理解した。
多分あの時、青年はこんな気持ちだったのだろうと。
だから、叫ぶ。
「ふ……っざけんな!! いつまで下見てんのよ、甘ったれてんじゃないわよ!」
今の彼らを見て、無性に暴れたくなった。
一人一人をぶん殴って、あらんかぎりの力で説教をしてやりたいと思った。
あの時、青年は怒っていたのだ。
自分に対して、周りに対して、この町そのものに対して。
「アンタらがそんなんだからこうなったんでしょ! 誰一人立ち上がらなかったから、この町はあの奴隷商人どもに好き勝手されたんでしょ!」
「そ、それは君も同じだろ!」
「だから戦うんでしょうが! こうなった責任があるから、拳を握って立ち向かうんでしょうが! 怖いに決まってるじゃない、死ぬのなんか嫌に決まってるじゃない!」
怖くて、不安で、逃げたしたい。
そんなの当たり前だ。
自分の弱さは、シャルルが一番分かっている。
「でも、これは私達がやらなきゃいけない事でしょ! あぐらかいて目を逸らして来た、そのつけが回って来たのよ!」
「そんなの俺達の責任じゃない! 俺達を見捨てて来た町の奴らのーー」
「そんなんだから、いつまでたっても変われないのよ!!」
それは、誰よりも自分に向けての言葉だ。
うつ向いて、縮こまって、それで終わるのならどれだけ楽だろうか。
けれど、そんな上手くはいかない。
彼らが、シャルルが欲しかった自由とは、そういうものなのだ。
不幸な事があったからなにもしなくて良い。
この世の理不尽を見たからにも見なくて良い。
力がないから立ち向かわなくて良い。
そんなの、クソ食らえだ。
「弱いままで立ち止まってたってなにも変わらない! アンタ達は自由を履き違えてる。自由ってのはなにもしなくて良い事じゃない、なにかを得るために努力する事を自由って言うのよ!」
気持ちは分かる。
辛いのも、怖いのも分かる。
だから、だからなんだというのだ。
「アンタ達はただなにもしなくて良い理由が欲しいだけじゃない! 不幸? 辛い? そんなの当たり前でしょ! 生きてれば不幸になるし辛い事だってあるのよ!!」
辛い事から目を逸らしたって、あるのはただの虚しさだ。
そこに、本当の自由はない。
シャルルはそれを学んだ。
己のために、決して倒れないあの青年を見て。
「それを誰かのせいにして、なにもせずにジッとしてて良い訳ないでしょ! 本当に自由が欲しかったら、本当に幸せになりたかったら、戦って勝ちとりなさいよ! 自分が欲しいものを、自分の手で掴んでみなさいよ!!」
与えられたものは全て偽物だ。
それで良いと自分を納得させ、それしかないと信じるしかない。
そんなの、絶対に嫌だ。
本物が欲しい。本当の自由が、欲しい。
だから、
「上向いて戦え!! 気に入らないなら、自由がないなら、この町をぶっ壊せ! 私達で新しく創るのよ、本当の自由を、本当のこの町を!!」
「その通りだぜオイ」
シャルルの言葉に同意するように、一人の男の声が響いた。
その声の主は人混みをかき分け、真っ直ぐにこちらへと向かって来る。先頭を立つ男を見つめ、
「ガジールさん」
「わりぃな、少し遅くなっちまった。コイツらを説得するのに手間どっちまってよ」
そう言ってガジールが横へズレると、貧民街の住民達が立っていた。全員、シャルルの知っている顔だ。あの時シャルルを弱いと言った者、子供達と一緒に遊んだ者、奴隷だった人間が、全て揃っていた。
「シャルルに言いたい事があるんだろ?」
「は、はい」
ガジールに言われ、一人の男が前に出る。
あの時、ルークと口論していた男だ。
男はばつの悪そうに視線を逸らしていたが、意を決したようにシャルルを見つめる。
「すまなかった。君を、弱い人間だと言ってしまって」
「…………」
「弱いのは俺達の方だったよ。あの青年に言われて気付いた。俺達は、ただ甘えていただけだ。そうすれば幸せになれるから、そうすればこの先辛いものを見ずに済むから」
シャルルは男の言葉に耳を傾ける。
笑いもしないし、怒りもしない。
ただ静かに、男が繋ぐ言葉に耳を傾ける。
「でも、それじゃダメなんだよな。甘えていたって、なにも変わらない。俺達は一歩も進めてなかったんだ」
「…………」
「偽物の希望で、満足していた。偽物でも良いから、希望が欲しかった。その暖かさをいつまでも感じていたかった」
「…………」
「ガジールさんに言われて思ったよ。それじゃ、ダメなんだって。本当に自由が欲しいなら、勇気をもって踏み出すべきなんだって」
男が微笑むと、シャルルもそれにつられて頬を緩めた。
照れくさそうに頬をかき、それから男は手を差し出す。
「俺も、俺達も本物が欲しい。いつか来るかもしれない絶望に怯えて暮らすのはもう嫌なんだ。あの日々を、繰り返すのは嫌なんだ。だから、力を貸してくれるかい? いや……俺達にも、手助けをさせてくれ」
「はい。こらこそ、よろしくお願いします」
その手をしっかりと握り、シャルルは満面の笑みを浮かべた。暖かい手の感触を確かめ、男から顔を逸らして周りの人間と向き合う。
これが、シャルルの行動の結果だ。
勇気を振り絞ったからこそ、その想いは誰かに伝わった。
変わりたいという願いが。
変わるための、勇気が。
「お願いします。私は弱いけど、皆がいればきっとどうにかなる筈なんです」
頭を下げ、静かに言葉を紡ぐ。
これしか方法がないから。これ以外の方法では、きっと納得してはもらえないから。
そんなシャルルの横に、ガジールが立つ。
「俺からも頼む。本当ならこれは俺のやらなくちゃいけねぇ事なんだ。関係のない奴らを巻き込んで、戦わせて、俺は自分が嫌になるぜオイ」
自嘲気味に微笑み、ガジールはアテナ達を見た。
そこにはいる筈の三人がいない。
勇者と、精霊と、息子が。
なにをしているのかなんて、考えるまでもなかったのだろう。
「今、勇者が戦ってる。俺達の町を守るためじゃねぇけど、それでも戦ってる。俺の大事な息子も、前を向いて走ってる」
ガジールは、そこで頭を下げた。
シャルルとガジールの目があい、無意識に笑みがこぼれ落ちる。
きっと、あの勇者の事を考えていたのだ。
「頼む、力を貸してくれ。俺だけじゃこの町を守れない。だが、お前達がいれば、それが出来る……!」
辺りに静寂が訪れる。
この町は今も危険な状態で、いつ魔獣の群れが襲って来るか分からない。しかし、それを忘れさせるかのように、静かな風が流れる。
そして、誰かが言った。
名前も知らない男は、勇気を振り絞った。
「俺の家に……剣がある。友達に鍛冶屋がいるから……頼めば、貸してくれると思う」
そして、誰かが言った。
名前も知らない男は、勇気を振り絞った。
「一応、昔は騎士団に所属してたから……戦える」
そして、誰かが言った。
名前も知らない男は、勇気を振り絞った。
「俺も、本物が欲しい。やっと手にいれたものを、こんなところで手放しなくはない」
そして、誰かが言った。
名前も知らない女は、勇気を振り絞った。
「見てみぬふりじゃ、ダメなんだよね」
そして、誰かが言った。
名前も知らない女は、勇気を振り絞った。
「私も、戦える。ちょっとだけだけど、魔法を使えるから」
そして、誰かが言った。
名前も知らない女は、勇気を振り絞った。
「うーん、こういうのはうちの教育方針に合わないんだけど……しょーがないなぁ、お姉さんが力を貸してあげよう」
そして、シャルルは言った。
自分の勇気が伝わった事を、心の底から微笑んで。
「お願いします!!」
ーーその瞬間、町が揺れた。
集まる人々の歓喜が、雄叫びが、一つに混ざりあって町そのものを激しく揺らす。拳を突き上げ、己を奮い立たせ、恐怖を殺し、目の前の絶望を壊すために、人々は立ち上がる。
こんなのは嫌だと。
こんな結末は望まないと。
戦うために、勇気を振り絞った。
そこに、絶望なんて言葉はない。
バラバラだった町は、腐っていた町は、滅び行く町は、今この瞬間、初めて一つになった。
理不尽な絶望をうち砕くために。
偽物の希望をうち砕くために。
この町は、立ち上がる。
この町は、立ち向かう。
ーー希望が、満ち溢れていた。
安心感から、シャルルはその場に崩れ落ちた。改めて自分がやった事、言った事を振り返る余裕もなく、ただ歓喜に揺れる人混みを見つめるだけだった。
「良くやった」
「…………へ?」
肩に置かれた手ーーその先にあるアテナの笑顔を見て、思わずシャルルは涙を流した。
緊張感から解放されたからなのか、それともこうして一つにまとまる事が出来たからなのか、シャルル本人も分かっていない。
「この結果は、君だからこそ出来た事だ。私では、いや……君以外の人間には出来なかった」
「そんな……私はただ……」
「立派だったぞ、君の勇気。君は、紛れもなく勇者だった」
「ううん……私だけの力じゃないから。あのバカ勇者がいたから、私は勇気を持てたの」
シャルルは立ち上がる。
涙を拭い、今一度決意を固める。
喜んでいる暇はない。
あの青年は、今も戦っているのだから。
「やろう、私の手で。この町を救おう」
ベルトスを見て、シャルルは微笑む。
もう、彼は死んでいる。
二度と動く事はない。言葉は、届かない。
だけど、言う。
シャルルの勇気は、彼がくれたものでもあるから。
「必ず、必ず救ってみせるから!」
闇が深ければ深いほど、その光は輝きを増す。
絶望が巨大であれば、希望だって大きくなる。
今、この瞬間から始めるのだ。
本物の希望を取り戻すための戦いを。