七章四十話 『囁き』
ヴィランに引きずられるようにして時計台に戻ったティアニーズ。どんな道を辿ってここまで来たのかを思い出せず、頭の中はエリミアスの事で埋め尽くされていた。
エリミアスが怪我をした。
泥の塊で腹を貫かれ、血を流していた。
直接手を下した訳ではないが、間接的に彼女を傷つけたのは自分だ。そんな考えが、頭を離れてくれない。
余計な事さえしなければ、あの一撃がエリミアスに当たる事はなかった。しかし、もしそうなった場合、血を流していたのはエリミアスではなくーー、
「気にするな」
ボーっとしながら先ほどの事を考えていると、そんな声が左耳に入った。
ヘラヘラとした様子でヴィランが言う。
「ありゃ事故だよ事故。お前だって悪気があった訳じゃないだろ?」
「でも……」
「お前が手を出さなきゃあの勇者に当たってた。どっちにしろ、二人のどっちかは傷ついていたんだぜ?」
怪我を負わせた本人のくせに、ヴィランはまったく反省の色を見せない。それどころか、他人事のように振る舞っている。いや実際、彼は本当にそう思っているのかもしれない。
「良かったじゃねぇか、一番守りたい奴を守れて」
「良い訳ない。私は二人を守りたくて……」
「世の中には全てを平等に救う方法なんてない。選べたのは一つ、お前は選んだんだよ。あのガキを捨てる道を」
「そんな事……! 私は……」
誰が自ら進んで傷つけるものか。
そう言いかけて、ティアニーズは言葉を飲み込んだ。どんな言い訳を重ねたとしても、自分のせいでエリミアスが傷ついた事実は覆らない。自分さえ手を出さなければ。
だが、ティアニーズはそもそもの間違いに気付いていない。
この男ーーヴィランの仕組んだ事だと。
別にどちらでも良かったのだろう。ティアニーズの心を飲み込む事が出来るのなら、勇者でも姫でも。
たまたまあの瞬間にエリミアスが居合わせたから狙っただけで、最初から殺すつもりだったのだ。
ーーティアニーズに罪悪感を植え付けられれば、なんでも良かったのだ。
いつものティアニーズならば、気付いていたかもしれない。冷静で、正常な思考を持ち合わせていれば、ヴィラン企みに気付けていたかもしれない。
けれど、ティアニーズの心にそんな余裕はない。
「でも良かったじゃねぇか。これで完全に敵になれただろ? この国の姫を撃ったんだ、普通なら死刑なみの騒ぎだ」
「…………」
「お前は犯罪者だ。もう、戻る場合なんてない。撃たれた側がどう思うかなんて、考えるまでもないだろ?」
静かな呟きが、耳に滑り込んで来た。身体中にまとわりつくように締め上げ、罪悪感という呪いが息苦しさをさらに強める。
全部、自分のせいだ。
今のティアニーズは、本気でそう思っている。
それこそ、なにかの病気のように。
「でも心配するな、お前の居場所はここにある。俺がお前の居場所になってやる。どんな悪事を働こうが、俺だけはお前を許してやる」
なんでこの男がこんなにも楽しそうに笑っているのか分からない。ティアニーズの横顔を見つめ、囁くようにヴィランは続ける。
「なにも悔いる事はない。なにも恥じる事はない。俺がいる、俺がお前の仲間だ。これから沢山の人を傷つけるかもしれないが、それは仕方のない事なんだよ」
「仕方ない……」
「お前は力が欲しいんだろ? 強大な力で大事な人を守りたいんだろ? さっきも言ったが、世の中には全てを平等に救う方法なんてない。だから選ぶんだ、大事な人を救うために、他の全てを捨てる道を」
なにを捨ててでも、守りたい人がティアニーズはいる。たとえ傷つける事になったとしても、笑っていてほしい人がいる。
「それは恥ずかしい事じゃない。愚かな選択と罵る人間もいるかもしれないが、俺だけは違う。だってそうだろ? しょうがないんだよ、一つの取りこぼしもなく、なにもかもを完璧に救うなんてのは無理だ」
「…………」
「勇者にだってそれは出来ない。いくら特別な力があったって、体は一つしかない。両手で抱えられるものしか守れないんだよ」
「…………」
「だから選べ。なにを捨て、なにを拾うのか。さっきのだってそうだ、お前は正しい事をしたんだよ」
「…………」
「姫様を犠牲にしなければ、勇者が犠牲になってた。それは絶対に嫌なんだろ? なら正解だ。お前は、お前の手で大事な人を守り抜いたんだ」
この男の言っている事は支離滅裂だ。
そもそもエリミアスを撃ったのはヴィランであってティアニーズではない。でも、だが、ヴィランはそれを押し付ける。
弱ったティアニーズに、心に空いた隙間に、ゆっくりと、最後のピースを嵌め込んで行く。
「良くやった。誰がなんと言おうと、俺はお前をたたえる。お前の選択は誇るべきものだ、弱者には出来ない、他人を切り捨てるって強さを見せつけた。もう、迷う理由なんてないだろ?」
ティアニーズの肩に、ヴィランの手が触れる。服越しでも分かるが、酷く冷たい手だった。
良く手が暖かい人は心が冷たいとか言うけれど、この男の場合、全てが冷めきっているのだろう。
「俺と来い。力を手に入れて救うんだ。お前の気に入らない現実を、好きなようにねじ曲げろ。力さえあれば、それが出来る」
力さえあれば、なんでも出来る。
大事な人を守る事も、大事な人を傷つける人間を殺す事も、気に入らない人間をひざまずかせる事も。思いの通りに、届かなかったものに手が届く。
弱い自分に、別れを告げられる。
大嫌いな自分を、変える事が出来る。
もう、自分を責める必要もなくなる。
目の前で人が死ぬのも、血だらけで立ち上がる姿も、見なくて済む。
自分一人で、全てを終わらせられる。
なら。
だったら、
「私はーー」
ティアニーズは顔を上げた。
肩に乗せられた手に、自分の手を重ねようとする。
これで、これで本当に終わりだ。
全てと決別して、ティアニーズはーー、
「本当に、それで良いのか?」
そこで、ティアニーズの手が止まった。
ヴィランとティアニーズしかいない筈の空間に、第三者の声が響き渡る。鮮明に、ヴィランの声をねじ伏せて鼓膜に届いた。
ヴィランは苛立った声で、
「なんのつもりだ、ベルトス」
「忘れもんを取りに来たつもりだったんだが、どうやらお取り込み中みたいだな」
ヴィランの敵意むき出しの言葉に、悪びれた様子もなく頭をかきながら答えたのは、ボサボサ頭の男ーーベルトスだった。
酒に酔っている様子はなく、しっかりと二本の足を地につけている。
「そこら辺にしとけよ、クソ野郎」
「これは俺とティアニーズだけの話だ。お前に口出しされる筋合いはない」
「俺らの集会所で話しといてなに言ってやがんだテメェ。聞かれたくねぇなら場所移せ」
「チッ……わざとだろ」
「どうだかな。俺は忘れ物を取りに来ただけっつってんだろ」
ヴィランの苛立ちを適当にあしらい、ベルトスはソファーに囲まれている机に目を移した。そこにはベルトスが飲み散らかしたグラスが置いてあるだけだ。
わざとらしく額に掌を当て、
「あちゃー、俺の勘違いだったみてぇだな。ちゃんも持ち帰ってたわ」
「なんのつもりだ?」
「あ? なにがだ?」
「お前、わざとここに来たんだろ。ティアニーズになにか用か?」
「別に用事って訳じゃねぇが……」
そこで、ベルトスと目があった。
今どんな顔をしているのか分からないが、きっと魂が抜けたような、無気力という言葉がふさわしい顔をしているのだよう。
ベルトスは呆れたように、
「なんつー顔してんだよ。なにがあったかは知らねぇが、ほんの数時間で人の顔ってのはここまで変わるのか」
「用がないなら出て行け」
「ここはお前の場所じゃない。それに俺達は対等な関係、つまりだ、お前の言う事に従う義理はねぇんだよ」
鬱陶しそうに目尻をつり上げるヴィランだったが、ベルトスはすらすらと減らず口を吐く。
ヴィランには目もくれず、ゆっくりとベルトスがティアニーズに迫る。目線を合わせるためなのか、腰を曲げると、
「俺も考えてみたんだよ、俺の道ってやつを」
「…………」
「でもさっぱり分からなかった。これといってやりたい事がある訳でもねぇしよ、俺は金があるならどんな道でも構わねぇ」
「…………」
「あんだけ偉そうな事言ったが、いざ自分で考えるとすげぇ難しいな。お前の悩みがほんの少しだが理解出来たよ」
返事をしないーーいや、頷く事も瞳を動かす事もせず、微動だにしないティアニーズに、ベルトスはなぜか楽しそうに言葉を続ける。
「さっきも言ったが、俺はお前になにがあったかは知らねぇ。けど、そんな顔してるって事は、多分あの勇者が絡んでるんだろうな」
「…………」
「お前アイツみたいになりたい……なりたかったんだな? ならそれは絶対に無理だ、あれは真似しようとして出来るもんじゃねぇ」
「…………」
「逆もそうだぜ? アイツがどれだけ努力したって、お前みたいにはなれない。ま、あの勇者の場合、なろうともしねぇと思うがな」
ガハハハ、と豪快な笑い声だけが部屋に響き渡り、ベルトスは一人ニコニコと楽しそうにしている。
その顔が、ティアニーズには見えていない。
かろうじて言葉を聞き取れているが、ベルトスが笑っている事には気付いていない。
「お前はお前だ、他人にはなれない。憧れるのはまぁ百歩譲って分かるとしてもだ、ソイツに近付こうとしても、お前はお前のままなんだよ」
「…………」
「俺は金が大好きだ。金さえありゃなんでも出来ちまうからな。あとは暴力だな。うるせぇ奴を黙らせるにはそれが一番手っ取り早いしよ」
「…………」
「俺はその二つを手に入れた。だから満足してるし、俺の生き方に後悔はない。でも、一つあげるとしたら……それでも、それでも手が届かないものがあるって事だ」
僅かにうつ向き、一瞬だけだがベルトスの表情が雲った。しかし、顔を上げると同時に晴れやかな笑顔に戻っており、うつ向いていた僅か数秒で、彼の中でなにかしらの結論が出たのだろう。
ベルトスはティアニーズの髪に触れ、
「世の中は金だ。金さえありゃ大抵の事はどうにでもなる。けど、金じゃ解決出来ない事もある。圧倒的に前者の方が多いけどな」
「…………」
「お前には、その力があんだろ。俺にはない、人間としてすげぇ大事な力が」
「…………」
「金や力じゃどうにもならない事を、どうにかする力をお前は持ってんだろ」
ほんの少し、ティアニーズの眉が動いた。
そんな力は、ない。
でも、多分。
ティアニーズが欲しかったのはそういう力だ。
暴力でねじ伏せるのではなく、他の方法で解決するための力。
敵意や殺意ではなく、優しさや気遣い、思いやりーーそんな、意思の力を、ティアニーズは欲しかったのだ。
そんなものに価値はないと分かっていながら、暴力でなければ結局解決しないと分かっていながら、どうしても手放す事が出来なかった願い。
ゆっくりと。
ティアニーズの口が動く。
「……私は、どうすれば良いんですか」
ベルトスは言う。
優しい笑顔で。
「それはお前が考えるべき事だ。俺が答えを出してその通りにしても、それはお前の選んだ道ってやつじゃない。」
「分からないんです。もうなにも、考えたくないんです」
「逃げるな。そこで逃げちまったら、お前は一生後悔する事になるぞ。曖昧なまま誤魔化して、先伸ばしにして、それじゃなにも解決しない」
「でも……答えなんて……」
「お前がやりたいと思った事が、答えだ」
ティアニーズは、顔を上げた。
そこで初めて、自分はベルトスの瞳を見ているのだと気付いた。二つの瞳はブレる事なく、ただ真っ直ぐにティアニーズを見据えていた。
「たがら、考えろ。悩んで悩んで悩んで、納得のいく答えをお前自身で見つけろ。誰かに言われたからじゃなく、お前が本当にやりたい事を、欲しいものを、歩きたい道をーー選ぶんだ」
胸の中しこりが消えた訳ではない。
罪悪感という名の呪いは、今もティアニーズの体を蝕んでいる。あの青年が傷ついたのも、エリミアスが怪我をしたのも、全てが自分のせいだと思っている。
自分が弱いせいで、力がないせいで、傷ついてほしくない人が傷ついていく。
だから、力が欲しかった。
痛みを一人で背負って、前に進む力が欲しかった。
そうすれば、誰も泣かなくて済む。
そうすれば、誰も不幸にならなくて済む。
だけど。
本当に、それは正しい事なのだろうか。
一番初めに、あの青年と出会った時、ティアニーズが願ったものはそんな力だったのだろうか。
また一つ、疑問が増えただけだ。
しかし。
「逃げずに考えてみます」
「おう、そうしろ。時間は有限だが、その悩んだ時間は必ずお前のためになる」
ティアニーズは笑っていた。
濁りのない笑顔。なすすべなく沼の底に沈んで行く途中で、誰かに手を掴まれたような感覚だった。
だが、ここからは違う。
その手を離すのか、力を借りて這い上がるのか。
それとも、自力で脱出するのか。
それは、ティアニーズ自身が考えるべき事なのだから。
「ヴィランさん、少し時間をください。一日で構いません。そこで、私の答えを出しますから」
「……勝手にしろ」
吐き捨てるように、ヴィランはそう言い 放った。
その顔を見る事はなく、大きく深呼吸をしてから立ち上がり、
「少し、外を散歩して来ます」
「行って来い。ちょっとさみぃから風邪ひくなよ」
「あの、ベルトスさん」
ティアニーズが立ち上がるのと同時に、ベルトスは満足そうに頬をかきながら立ち上がった。
その顔を見つめ、小さく息を吐く。それから頭を下げ、
「ありがとうございます。ほんの少しだけですけど、心が楽になりました」
「なら良かった。一応仕事仲間だしよ、これで俺はお前に一つ借りを作ったって事にもなる」
「必ず、必ず返します。私自身の答えを見つけ出して」
「おう。そん時は聞かせてくれ、楽しみにしてるからよ」
ヒラヒラと手を振るベルトスに背を向け、軽い足取りでティアニーズは部屋を出て行った。
ティアニーズが部屋を去った瞬間、部屋全体がドス黒い殺気のようなもので満たされた。
それを放っているのはヴィラン。
全て、ベルトス一人に向けられたものだ。
しかし、ベルトスは気にする様子もなく、
「んだよ、えらく不機嫌そうじゃねぇか」
「俺はお前を誤解してたようだな。使えるから殺さずにいてやったものを……まさか俺の邪魔をするとは」
「残念だったな。なんでもかんでもテメェの思い通りに事が運ぶと思ってんじゃねぇぞ」
「そうやっていきがっていれば、また手を差しのべてくれる人間が現れるとでも思ってるのか?」
「んなんじゃねぇよ。それは、もう過去の話だ」
ピリピリと肌を刺激する殺意に、ベルトスといえど多少の恐怖を感じていた。ここまで、ヴィランが苛立っているのは初めて見る。
それほどまでに、彼にとってティアニーズは重要な存在なのだろう。
だが、だからこそベルトスはここへ来た。
彼がなにを企んでいるのかは知らない。
ただ、それを邪魔するために。
「お前に一つ忠告しといてやる」
「お前が俺に忠告だと? 笑わせるな」
「たまには足元を見ろ。じゃねぇと、這いつくばって迫ってくる奴に、気付かねぇで足元すくわれんぞ」
「それはないな。俺は足元をいつでも見ている。なぜなら、俺がソイツらの上に立っているからだ」
「ま、言っても無駄な事くらい分かってたよ」
別に心配している訳ではない。嫌みのつもりで言ったのだが、ヴィランはいつもの気持ちの悪い笑みを浮かべたままだった。
ベルトスはこれ以上の会話は無駄だと悟り、ヴィランに背を向けた。
静かな声で、
「調子に乗ってられんのも今の内だぞ。あの勇者は、必ずテメェの足元にたどり着く」
「その時は殺すさ」
「お前は勝てねぇよ」
ベルトスはそれだけ言って、部屋を出て行った。
長かった一日は終わり、それぞれが考えにふける。
答えを出した者、答えを出せずに悩む者。
青年と少女。
互いが互いの事を想いながら、日は沈んで行った。